外伝 迷いの迷宮と、わたしの答え
朝の教室。
隣の席で陽子が笑っているのを見て、わたし――七瀬麻衣は思わず目をこすった。
「……陽子? 顔色、めっちゃ良くない?」
昨日まで青白くて、保健室に駆け込むんじゃないかと心配していたのに。
今日は頬がほんのり桜色で、目元まできらきらしている。
「え、えへへ……そうかな?」
「そうかな、じゃないわよ! 昨日までふらふらだったじゃん!」
言いながら、わたしの脳裏にある人物が浮かぶ。昨日、陽子のことをお願いした――
(美海お姉さま……!)
黒薔薇のゴスロリ、断罪者。わたしが頼んだ翌日にこの回復ぶり。つまりこれは――
(ま、まさか……陽子と美海お姉さま、なにか“あった”!? いけない一線を――!)
背筋に雷。頭は真っ白。心は真っ赤。
(う、うらやま――じゃない! ちがう! でも……でも! わたしだって、いつかは……クラリスお姉さまと!!)
鼻息荒く決意しつつ、わたしは机の上に拳をぎゅっと握った。
そのまま帰り道、足は自然と花壇へ向かっていた――。
◆
校舎裏へ続く中庭の小道を、わたしは小走りに進む。
――の、だが。
(あれ? こんなに長かったっけ)
右手に寄宿舎の白い壁、左手にツツジの植え込み。いつも見ている景色なのに、二歩進んでも三歩進んでも、花壇の角が曲がれない。
空の色が、さっきより橙いろいろしている。昼だったはずの光が、夕方へと傾いていく。
「ちょっと待って……お日さま、さっきあっちだったよね?」
足を止めて振り返ると、校舎が遠い。さっきまで背にしていたはずの壁が、薄い靄に包まれている。前に進んでも、戻っても、距離感が合わない。
やがて――ふっと、景色がたわんだ。
目の前に広がるのは、花壇……の、はず。
けれど土は固く乾き、銅のプレートは緑青をふき、ベンチの木は灰色に風化して、花は色あせている。
――何十年、時が過ぎたみたいに。
「……ここ、どこ」
喉の奥が冷たくなる。
そして、耳元でささやくような声がした。
『ようこそ、迷いの迷宮へ』
ぞわり、と腕に鳥肌。
(迷いの……迷宮?)
学園の七不思議――怪異調査ノートの片隅にあった噂が脳裏をよぎる。
悩みや迷いを抱えた者を取り込み、出口のない回廊を延々さまよわせる、やっかいな怪異。
そこから抜け出す唯一の方法は――
『自らの迷いに、答えを出すこと』
声が重なるように、花壇の奥から足音が近づいてくる。
◆
「遅かったじゃない、麻衣」
振り向くと、ふわりと黒いレースが揺れた。ゴシック・ロリータ。紅の瞳。
神薙美海――……の、姿をした“誰か”。
胸がぎゅっとなる。けれど、違和感もある。美海お姉さまは、こんなふうに人を見下ろす眼をしない。
「陽子は、やさしく抱きしめられて、とても安心したらしいわ。あなた、羨ましいのでしょう?」
喉がひゅっと鳴った。
昨日、陽子はたしかに――「あったかくて、安心できた」と言っていた。
わたしの頭の中で、いらない想像がぶわっと膨らむ。
(や、やめて……! そのワードはよくない! 妄想が爆ぜる!)
――爆ぜる前に、深呼吸。
冷静になれ、七瀬麻衣。これは“迷宮”。わたしの迷いを餌に、像を作って揺さぶってくる。
「……美海お姉さまは、陽子を助けてくれたんだよ」
わたしの声は自分でも驚くほど低かった。
黒い“美海”の唇が、毒花のように弧を描く。
「助けた先に“奪う”こともあるのよ。あなたは、取られたんじゃなくて?」
「――!」
胸の奥で、ちくり、と痛む。
羨ましいとか、悔しいとか、情けないとか。ぐちゃぐちゃの感情が、足元の影を濃くする。
「でも、取られてない」
言葉が出た瞬間、影がわずかに薄くなった。
口にした自分が一番驚く。だけど――本当にそうなのだ。
「わたしは、陽子に『美海お姉さまに相談しよう』って言った。陽子は、助かった。……それでいいじゃん」
黒い“美海”が瞬きをする。
遠くで、風に擦れるレースの音がした。
「でも羨ましいんでしょう? あなたも抱かれたい。“お姉さま”に」
図星すぎて、心臓がひっくり返る。
(羨ましいに決まってるじゃん!!)
――でもそれは、誰かから奪って手に入れるものじゃない。
わたしは花壇の、色あせたプレートに手を置く。冷たい。
ここは“迷宮”。なら、答えを出すのはわたしの番だ。
「わたしは――」
言葉を選ぶ。胸の奥、絡まっていた糸を、ゆっくりほどく。
「わたしは、陽子の幸せを見たい。
そして、いつか……クラリスお姉さまの隣に、堂々と立ちたい。
妄想じゃなくて、努力で。足で。――“わたし”のままで」
黒い“美海”の輪郭が、すうっとほどけていく。
ベンチの灰色が木の色に戻り、枯れた花弁に春の色が差して、空の橙は澄んだ青へと変わった。
『答えを得た者、ここから出でよ』
音もなく、迷宮はほどけた。
◆
「――麻衣? どこ行ってたの?」
気がつけば、いつもの花壇。
陽子が笑顔で立っていた。頬は健康的なピンク色。目はまっすぐ。
「え、えっと……ちょっと、散歩。迷子になってただけ」
「迷子って、花壇で?」
笑う陽子に、わたしもつられて笑ってしまう。
胸の奥が軽い。なんだ、答えを口にするって、こんなに効くんだ。
「……ねえ、麻衣」
「ん?」
「昨日のこと、ありがと。――美海お姉さまにも、ちゃんとお礼言わなきゃ」
陽子がぱあっと笑う。その笑顔で、また胸が温かくなる。
わたしは空を見上げた。青がまぶしい。
(よし。妄想はほどほどに、努力を増やそう。クラリスお姉さまに、笑ってもらえるくらいに!)
ぐっと拳を握りしめた、その瞬間――
「麻衣ちゃん?」
背後から、鈴のような声。
振り向けば、絹のような金髪。柔らかい微笑。
――K.G.S.部長、桐嶋クラリス聖蘭先輩が、花束を抱えて立っていた。
「花壇のお世話、手伝ってくれる? ついでに、あなたの“努力”の話も、聞かせてほしいな~?」
「は、はいっ!!」
心臓が噴火。顔がコンロ。
でも、足は前へ出た。妄想じゃなく、わたしの足で。
クラリスお姉さまの隣に並ぶ。陽子が笑って手を振る。
風がフリルを揺らし、花壇に新しい香りが満ちた。
(迷いの迷宮――攻略完了。次のクエスト、“努力の積み重ね”!)
そんなふざけたモノローグが頭に浮かんで、わたしは自分でちょっと笑ってしまった。
――そして、心の中だけで小さく叫ぶ。
(でもやっぱり、クラリスお姉さま、尊い~~~!!)




