外伝 花壇に描く未完成の絵
放課後の中等部校舎裏は、いつもより静かだった。
花壇のそばに腰を下ろし、スケッチブックを広げる。
中峰陽子は、ひとり黙々と筆を走らせていた。美術の課題――風景画。提出まであと一週間。構図は決まったけれど、思うように色がのらず、何度も描き直していた。
「……あの……あなたも絵を描いてるの?」
ふいに声がした。顔を上げると、同じ制服を着た見知らぬ少女が、花壇の縁に座っていた。
肩までの黒髪、少し大人びた瞳。
「えっ……う、うん。課題の絵を……」
「わたしも。……ここ、いい場所だよね」
少女はスケッチブックを広げ、花壇の景色をなぞるように描き始めた。
陽子は思わず声をかけていた。
「わたし、中峰陽子」
「……春日井真由」
それがふたりの出会いだった。
日を追うごとに、陽子と真由は花壇で顔を合わせるようになった。
最初はぎこちなかった会話も、同じ課題に悩みながら描くうちに、自然と笑い合えるようになっていた。
「真由ちゃん、デッサン上手だね」
「陽子ちゃんの色づかいも、すごく好きだよ」
そんなやり取りが、陽子にとっては何よりも楽しかった。
しかし一方で、陽子の体調は次第に悪化していった。
授業中にぼんやりしたり、給食を残す日が増えたり。
「陽子、顔色悪いよ……」
心配したのは親友の七瀬麻衣だった。
「……だいじょうぶ。ちょっと疲れてるだけ」
そう答えながらも、陽子自身も奇妙な倦怠感に戸惑っていた。
やがて麻衣は、ある人物のもとを訪ねる決意をする。
「……美海お姉さま、陽子のことなんです」
夕暮れの図書館裏。麻衣は思い切って口を開いた。
黒いフリルとレースを幾重にも纏い、ゴシック・ロリータのドレスに身を包む高等部二年生の少女――黒薔薇の断罪者、神薙美海。
深紅の瞳がこちらを向くと、麻衣は思わず息を呑んだ。
「顔色が日に日に悪くなって……花壇で誰かと絵を描いてるみたいなんですけど、その子のこと、わたし見たことがなくて……」
美海の瞳が細められる。
「……わかった。私が確かめるわ」
その夜。
ライトアップされた花壇のそばで、また真由と陽子がスケッチブックを広げていた。
だが陽子の手は重く、筆も震えている。
「だいじょうぶ? 陽子ちゃん」
「う、うん……でも、ちょっと眠くて……」
「もう少し一緒に描こうよ。……ね、ずっと友達でいてくれるよね」
真由の声は優しいはずなのに、どこか切実で、縋りつくように響いた。
陽子は答えを詰まらせる。
そのとき。
「――それ以上は許さない」
黒い影が花壇に立った。
月明かりに浮かぶのは、黒のレースとリボンを纏ったゴシック・ロリータの装い。
神薙美海が夜風にフリルを揺らし、冷ややかな視線を真由に注ぐ。
「あなた……生者ではないわね」
真由の表情が凍りついた。
「春日井真由……数年前に病で亡くなった生徒。未完成の絵を心残りに、この花壇に縛られている」
美海の言葉に、陽子は耳を疑った。
「そんな……真由ちゃんは、ここにいて、ちゃんと……」
「陽子ちゃん……わたし、本当は……死んでるんだ」
真由は苦しげに笑みを浮かべた。
「でもね、生きてた頃、友達なんてできなかったの。陽子ちゃんが初めての友達だったの……だから……もう離したくないの」
その言葉とともに、陽子の身体から力が抜けていく。
生気が吸い取られていくのを感じ、膝が崩れた。
「やめなさい!」
美海の声が響く。
「《詞縁・鎖詠ノ呪言》――」
美海の言霊が空気を震わせる。
真由の身体を鎖のような光が絡め取り、逃れられなくしていく。
「やめて! そんなつもりじゃなかった! わたし……ただ、友達でいてほしかっただけ……!」
涙を流しながら、真由は必死に叫ぶ。
しかし光の鎖は強くなり、やがてその輪郭は崩れていった。
「わたしの言葉は、縁を縛る鎖。……もう、休みなさい」
「……陽子ちゃん、ごめんなさい。ごめんなさい……」
美海から言霊が放たれた瞬間、光の鎖が花壇の空気を切り裂き、真由の身体をやさしく包み込む。
縋るような叫びは次第に弱まり、そして光となって消えていった。
「……まゆ……ちゃん……」
陽子はその場に崩れ落ち、泣き出した。
小さな肩が震え、涙は止まらない。
「どうして……どうして、もっと一緒にいたかったのに……」
その背に、そっと影が寄り添う。
美海が、黙って陽子を抱き寄せた。柔らかなレースの袖が、泣きじゃくる陽子を優しく包み込む。
「……ひっく……み、みう……お姉さま……」
しゃくり上げた顔を、指先で涙を拭いながら見つめる。
美海は静かに微笑んだ。
「泣くな」
そう言う代わりに――唇をそっと重ねた。
ほんのかすかに触れるだけの、短い口づけ。
だがその一瞬に、美海の瞳が語っていた。
――この子を守りたい。
――この子を失わせたくない。
凛としたその黒薔薇の眼差しが、今だけは柔らかく揺れ、陽子を愛おしく抱きしめていた。
唇が離れると、陽子は涙に濡れた頬を真っ赤にしながら、潤んだ瞳で美海を見つめ返した。
その視線に、美海の胸の奥がふっと熱くなる。
抱きしめる腕に力をこめると、陽子も小さな手で背中を掴み返した。
「……美海お姉さま……」
震える声で呼ばれた瞬間、美海の唇がわずかに綻ぶ。
黒いドレスの袖が、陽子の濡れた頬をそっとかすめる。
黒薔薇の断罪者ではなく、ひとりの少女として――ただ愛おしさに満ちた微笑みを浮かべていた。
夜の花壇に残るのは、もう嗚咽ではなく、二人を包む静かな温もりだけだった。




