月夜の屋上、幻影の少女 第六話:「深緋ノ弦と蒼穹ノ弓」(前編)
月齢:21日/新月まで、あと8日
夜の旧校舎は、昼間の静けさとは別の顔をしていた。
窓の外から忍び込む月光が廊下の板張りを冷たく染め、壁の影を引き延ばしている。
葵は制服のポケットに、梨華から借りた腕時計を忍ばせていた。
借りるとき、梨華は夢の話をしてくれた。
「最近はね、前よりも泣き声がはっきり聞こえる気がするの。『たすけて』って」
葵はただ頷き、「助けるよ。必ず」と短く返した。
時計は手にした瞬間、ほんの一瞬だけ青白い光を帯びた。
——霧咲先生の縁力が、まだ残っている。
旧校舎の廊下は、足音を吸い込むように静まり返っていた。
突き当たりの窓から、外の霧がゆっくりと流れ込んでいる。
靴の先に、白く薄い糸のような霧が絡みつく。ぞくりとする冷たさに、葵は指先で払い落とした。
屋上への扉の前に、霧咲七海の姿があった。
「遅かったわね。準備はできた?」
「はい」
「……今夜で決めるのよ。あなたが封印を」
その声は落ち着いていて、いつものように優しかった。
けれど、葵は心の奥で小さな違和感を抱いていた。
ほんの数日前、別の場面で聞いたはずのことを「初めて話す」ような口ぶり。
そして、時計に視線を落とした瞬間だけ、わずかに顔をそらしたこと。
(——やっぱり、そういうことなんだ)
重い扉が軋みを上げ、夜の屋上が広がる。
白い霧が腰の高さまで漂い、その向こうに月明かりを背にした人影が立っていた。
輪郭はあいまいで、風に揺れる髪だけがやけに鮮明だ。
「……彼女よ」
七海が、まるで獲物を示すように指をさす。
「あなたの力なら封印できる。——やって」
霧咲七海——の姿をした存在が促す。
葵はその微笑の奥に、確信してしまった違和感を見た。
(……やっぱり。あなたは霧咲先生じゃない)
梨華から聞いた噂が脳裏をよぎる。
霧の少女は告白に失敗し、相手との関係が二度と戻らないという恐れから生まれた縁妖。
その術式——縁替で、標的の心と身体を入れ替える。
今、目の前にいるのは、本物の霧咲先生の身体を奪った——縁殻だ。
葵はゆっくりと息を吐き、足を揃えて立つ。肩の力を抜くと、周囲の風が止まり、空気が凪いだ。一輪の花が夜風に凛と咲く瞬間のように、その輪郭が静かな気迫を帯びる。
(想いを、形にして放つ。私の縁力は——想縁)
「……大丈夫。私は、逃げない」
呟きと同時に、左手を前に伸ばし、右手を肩口まで引く。
空間にピンと張った弦の気配が生まれる。
見えない弓に矢をつがえるような、研ぎ澄まされた動作——封縁乙女・佐々木葵の構え、風車の型。
「——《想縁・蒼穹ノ想弓》」
足元に淡い蒼の光輪が浮かび、空気が震える。
右手に形のない想いの矢が握られ、その矢先は縁殻となった霧咲先生の胸元へと定まっていた。
(今だ……縁替で奪った身体ごと、あなたを射抜く)
葵が矢を引き絞った瞬間、霧が一層濃くなり、屋上全体の空気が張り詰めた——。
——つづく——




