月夜の屋上、幻影の少女 第四話:霧咲先生
月齢:19日/新月まで、あと10日
放課後の旧校舎──今では使われることも少なくなった静かな建物の奥。
約束どおり、葵はその職員室の扉の前に立っていた。
古びた扉を軽くノックすると、ほどなくして返事が返ってくる。
「どうぞ。開いてるわよ」
少し緊張しながらも扉を開けると、そこには一人の女性教師が静かに座っていた。
セミロングの黒髪と、柔らかくも凛とした佇まい。どこか浮世離れした雰囲気をまとったその人──霧咲七海先生が微笑んでいた。
「こんにちは。突然のお時間、ありがとうございます」
「いえいえ。あなたが来るのはなんとなくわかっていたわ。どうぞ、座って」
葵は促されるままに椅子に腰かけ、改めて霧咲先生を見つめた。
年齢は判断しづらいが、落ち着いた物腰からして、かなりの経験を積んでいるように見える。
「昨日、中等部の佐藤愛子さんから話を聞きました。霧の少女のこと……そして、霧咲先生が、かつて彼女を封印したということを」
「ええ。そうね。懐かしいわ、あの頃が」
先生はふっと目を細め、記憶の中へと視線を投げる。
「あなた、鋭い目をしてるわね。もしかして、私が何者だったのか……もう気づいてるのかしら?」
「──先生は、封縁乙女だったのですね?」
葵の問いに、七海は頷いた。
「そうよ。私はかつて、封縁乙女として霧の少女を封じた……そのときに、ほとんどの力を失ってしまったけれど」
そう語る七海の表情は、誇らしげだった。
「でもね、私には知識も経験もあるし、普通の人より強い縁力もあるわ。だから、困っている人がいれば、できる限り手を差し伸べたいと思っているの」
柔らかく、静かに、だが確かな信念を感じさせる言葉だった。
葵はその横顔を見つめ、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
(この人は……誰よりも封縁乙女を体現している)
純粋に、そう思った。
霧咲七海はもう現役の術者ではない。けれど、力の有無ではない──その在り方が、葵の目には眩しかった。
「霧咲先生。わたし……霧の少女を、もう一度封印しようと思います」
言葉にして、気持ちを定める。
「そのために、先生の知識と経験を貸していただけませんか?」
しばしの沈黙ののち、七海はゆっくりと微笑んだ。
「あなたの縁力は、とても真っ直ぐなのね。……ええ、もちろん協力するわ。雨宮梨華さんを、必ず助けましょう」
「はい」
葵は深く頷いた。
信頼できる味方と共に、迷いは晴れた。
あとは、進むだけだった。
──つづく──