月夜の屋上、幻影の少女 第三話:愛子の証言
月齢:18日/新月まで、あと11日
放課後の校舎裏。生徒の姿も少なくなった時間、佐々木葵は旧講堂の裏にある渡り廊下の隅に立っていた。今日の放課後、約束していた生徒との待ち合わせ場所である。
……だが、それよりも少し前──
(あの子が夢を見始めたのは、ちょうど一ヶ月ほど前──)
前日、雨宮梨華から聞いた話を、葵は頭の中でゆっくりと反芻していた。
きっかけは、夢だった。
その夜も満月で、まだ霧の少女に出会うよりも前の話。
毎晩のように──同じ夢を見るようになったという。
そこには、いつもひとりの少女がいる。
彼女は霧の中で泣きながら、誰かに助けを求めていた。けれど、どれだけ声を張り上げても、その声は誰にも届かず、ただ、遠くから女の笑い声が聞こえてくる──という。
(“たすけて”って、言ってた気がする……でも、声は届かなくて……)
梨華はその夢の風景を思い出し、旧校舎の屋上ではないかと推理し、関連する噂話を調べるようになった。そこで浮かび上がったのが、「霧の少女」の噂だった。
「何か、夢を見始める直前に変わったことはなかった?」と、葵が尋ねると、梨華は少しばつが悪そうに微笑みながら、こう打ち明けた。
「──ここだけの話にしてほしいんだけどね?」
夢を見るようになった日の夕方。
梨華は旧校舎の近くを歩いていて、ふと、脇にある林の根元で何かが光った気がして近寄った。そこには、古びた腕時計が落ちていた。
ブランド物ではないが、上品なデザインで、長くそこにあったように見えた。なぜか目が離せず──彼女は、つい持ち帰ってしまったのだという。
その時計は、今も梨華の部屋にある。
(……あの時計。何かに、繋がっているのかもしれない)
葵はそう考え、詳しく調べるために、一旦梨華と別れ、中等部でこの話を詳しく知るという生徒──佐藤愛子に話を聞くことにした。
その待ち合わせ場所が、今いるこの場所だった。
──制服のリボンタイを中等部の色にした、小柄な少女が現れる。
「佐藤さん、だよね?」
声をかけると、少女はぱっと笑って頷いた。
「はいっ! 佐々木先輩ですよね? 新聞部の雨宮先輩から聞いてますっ」
物怖じしない愛らしい笑顔。少女は肩口までのショートカットを揺らしながら、葵に歩み寄る。
「突然ごめんね。霧の少女の話、詳しく聞きたいの」
「もちろんです。あれ、実は……母が体験した話なんです」
「……え?」
葵の表情が強ばる。
愛子の話はこうだった──
母親はこの学園のOGで、学生時代に友達と肝試しで旧校舎に入り、そこで霧の中に少女を見た。
翌日から、誰にも声が届かず、姿が薄れていくような感覚に襲われた母。存在ごと消えかけていたのだという。
そんな彼女を、当時の担任教師──霧咲先生だけが気づいてくれた。
霧咲先生は一人、旧校舎の屋上に向かい、「霧の少女を封印しなければ、あなたは戻れない」と言ったらしい。
母はこっそり後を追い、屋上のドアの陰からその場を見守っていた。
「……先生の手から青白い炎が出て、それが少女を包んで……その後、強い光が広がって……母はそこで気を失ったそうです。次に目を覚ましたとき、先生に抱きかかえられていて──『もう大丈夫、封印したから』って、そう言われたって」
「……封印されたはずの想妖が……また現れている……?」
葵の背に冷たいものが走った。
なぜ、再び霧の少女が姿を見せたのか。
その疑問に答えるように、愛子がぽつりと言った。
「そういえば、この話……わたし、他にも話したことあるんです。高等部の人で、“噂倶楽部”の方に」
「噂倶楽部?」
「学園に伝わる七不思議や怪談話、そういうのを集めてる人たちがいるらしくて。非公式のクラブだけど、昔からあるんだって。でもその人の名前は……思い出せないなぁ」
(……噂話を集めている集団。そして……想妖の封印が解けている)
(まさか……蒐集しているのは、怪異の話──だけじゃない?)
まさかとは思いつつも、葵の中に生まれた疑念は静かに根を張っていく。
「ありがとう、愛子さん。とても助かった」
「いえっ、こちらこそですっ」
愛子はにっこりと笑い、制服のポケットから小さな紙片を取り出した。そこには、可愛らしい丸文字で自分の連絡先が書かれている。
「……これ、わたしの連絡先です。もし、よかったら、何時でも連絡してくださいね!」
葵は少しだけ驚きつつも、受け取って微笑む。
「……うん。連絡するね」
女学校では、特に中等部の間で、好意を持った相手に手紙や連絡先を渡すのは、ごく普通の習慣だ。
けれど、葵はふと、ある人物の顔を思い浮かべてしまう。
(……これ、涼子に知られたら──)
脳裏に浮かんだのは、ボーイッシュな笑みを浮かべる友人、大滝涼子の姿。
「へぇ〜葵ちゃん、年下の子にモテモテじゃん。ボクのこと忘れないでよ?」
きっとそんな風にからかいながら、わざと肩を抱いてくるだろう。
(……からかわれる……いや、もっと面倒なことにされる……)
頬を熱くしつつ、葵は紙片を制服の内ポケットにしまった。
(梨華が拾ったという時計、霧咲先生、霧の少女……すべてが、繋がっている……?)
(まずは、霧咲先生に直接会って──聞いてみよう)
葵はその足で、職員室に向かい、霧咲先生に面会を申し入れた。
職員室のドアをノックすると「どうぞ」と若い男性の声がした。「失礼します」と葵が声をかけて職員室へと入る。
室内の机の列を目で追うと、霧咲七海の席だけがぽつりと空いている。数枚のプリントと、写真立てだけが正位置に置かれていた。
「……すみません、霧咲先生は?」
近くの席で採点をしていた若い男性教師が顔を上げる。
「すぐ戻るよ。保健室に書類を届けに行ってて。君、佐々木さんだよね? 聞いてるよ」
「お待ちします。ここで大丈夫ですか?」
「ええ、どうぞ。……あ、それ」
男性教師の視線が、霧咲の机上の写真立てに落ちる。若い頃の霧咲七海が、旧校舎の屋上らしき場所で誰かと肩を並べて笑っていた。
「これ、霧咲先生がこの学園に来てすぐの頃の写真だね。若い頃の霧咲先生って本当に美——ごほん。いや、何でもないです。あ、そうそう。ほら、左の手首」
「手首……?」
「先生がしてる時計、見える? 僕、時計集めが趣味でさ。これ、当時の限定モデルなんだ。今じゃ結構なプレミアがついてる。……残念ながら先生、なくしちゃったらしいけどね」
写真の中の七海の手首には、細い金属のブレスレットに小さな八角のフェイス——クラシカルな、けれど少し変わった形の時計が光っていた。葵は無意識に、その形を脳裏に焼きつける。
(写真の時計……八角形の小ぶりなフェイス。ブレスは細い、鏡面。——覚えておこう)
「——あ、戻ったね。霧咲先生。生徒さん、お待ちですよ」
廊下側の扉が音もなく開き、柔らかな気配が職員室に戻ってくる。葵は立ち上がり、振り向いた。
「初めまして、霧崎先生。私は高等部一年生の佐々木葵といいます。実は、内密なお話があるのですが……」
すると先生は少しだけ意外そうに笑い、「秘密の話をするにはちょうどいい場所があるわ」とだけ告げ、翌日の放課後、旧校舎の職員室で会う約束を取りつけた。
その夜、葵はベッドの中で、愛子の証言を何度も反芻していた。
霧の中で泣く少女。青白い炎。封印の言葉。そして──「もう大丈夫」という声。
真偽を確かめるための時間は限られている。新月まで、あと十一日。