月夜の屋上、幻影の少女 第二話:忘れられる声
月齢:19日/新月まで、あと13日
あの日──霧の中で“少女”と目を合わせてから、雨宮梨華の世界は音もなく崩れはじめた。
気づけば、教室の誰からも声をかけられなくなり、名前を呼ばれることもない。
まるで、自分という存在そのものが、この世界から少しずつ剥がれ落ちていくような──そんな感覚だった。
その不安に飲み込まれそうになった彼女を救ってくれたのは。
「大丈夫?」
その声に、梨華は涙で滲んだ視界を上げた。階段の踊り場で落ちかけた身体を抱きとめていたのは、佐々木葵だった。
光をはね返すような黒髪と、凛とした瞳。けれどその声は、とても優しかった。
「……見えてるの? 私のこと……」
震える声で問いかけた梨華に、葵はまっすぐに頷いた。
「うん。ちゃんと見えてるよ。あなたは、ここにいる」
その言葉に、梨華の胸がじんわりと熱くなる。ずっと誰にも届かなかった“声”が、やっと誰かに届いた──そんな気がした。
放課後。寮に戻る前、誰もいない旧校舎の渡り廊下で、梨華と葵は並んで腰を下ろしていた。
窓の外には茜色の空が広がり、校舎の影が長く床に伸びている。
「……あの噂、知ってる? 月光の夜、屋上に現れる“少女”のこと」
梨華は静かに話しはじめた。
「“目を合わせたら、想い人と話せなくなる”っていう、あの話。たしかに、嘘じゃなかった」
「でも……違ったんだね」
「うん。全然、違った。──あれ、そんな甘いものじゃなかった」
梨華の表情が陰る。彼女は唇をかすかに噛みしめて、言葉を続けた。
「想い人どころか……クラスメイト、先生、友達、誰からも声をかけられなくなったの。目が合っても気づかれないし、存在ごとすり抜けていくみたいで……」
その声は震えていた。
「“想い人と話せなくなる”なんて、可愛いレベルじゃない。実際はね、“誰とも話せなくなる”。私という存在が……少しずつ、この世界から薄くなってる」
葵は静かに彼女を見つめていた。何も言わず、ただ、黙って受け止めてくれている。それが嬉しくて、でも同時に、悲しくもあった。
「……だから、教えて。何か、手がかりになることでもいい。あの夜と今日で、何が違った?」
葵の言葉に、梨華はゆっくりと目を閉じて、霧の夜の記憶を辿る。
満月、霧、少女、そして──
「そうだ。屋上の床……あの日は満月の夜だったわ。でもあの日以来ずっと、校舎の影が、水面みたいに揺れて見えるの」
「水面……」
葵はすぐにスマートフォンを取り出し、何かを調べはじめた。
「この噂が広まり出したのって、いつ頃?」
「たしか……十八日前。寮の誰かが最初に話してたって聞いた」
「……三日前、梨華が“彼女”を見た日も満月だった。そして十八日前も、同じく満月」
指でカレンダーをなぞりながら、葵は続ける。
「つまり“幻影の少女”は、満月の夜に現れる。そして……次に満月になるのは、27日後」
「じゃあ、次に“彼女”が現れるのは──」
「……でも、梨華。問題はそこじゃない」
スマートフォンを閉じ、葵は真剣な顔で梨華を見た。
「あなたの“存在”が消えていく現象、それは満月じゃなくて“新月”が関係してる」
「え……?」
「このままだと、たぶん……次の新月までに、完全にこの世界から消える。誰の記憶にも残らない存在になる。そんな気がするの」
その言葉に、梨華の身体から力が抜けていく。その場に崩れ落ち、床に手をついた。
「そんな……いや……いやだ……!」
頬を伝う涙が床に落ちる音が、やけに大きく響いた。
――消えたくない。
消えたくないのに、誰にも気づかれず、なすすべもなく世界から零れ落ちていく。
それがどれほど、怖いことか。
梨華の目から、次々と涙がこぼれた。
そのとき、葵が静かに手を差し伸べてきた。
「だから、ね」
その手を包み込むように握りながら、彼女は微笑む。
「あと十二日ある。十二日以内に解決すれば、間に合うわ。……二人で、解決しよう?」
その言葉に、梨華の胸の奥に小さな火がともる。
不安も恐怖もまだ消えない。でも、希望が生まれた。
「……うん!」
震える声で返した梨華に、葵はもう一度、力強く微笑みかけた。
二人の奇妙な戦いが、今──始まろうとしている。