月夜の屋上、幻影の少女 第一話:霧のはじまり
久遠女学園の高等部一年の間で、誰からともなくこんな噂が囁かれていた。
――満月の夜、旧校舎の屋上に霧に包まれた、ひとりの少女が立っている。
姿は見えるけど、近づいたら消えてしまう。
でも……目が合ってしまったら、『想い人と話せなくなる』のだという。
旧校舎屋上。深夜零時。淡い月明かりが白く染めた屋上は静寂に包まれていた。
コンクリートの床が淡く銀に光り、校舎の影が黒い水面のように広がっている。
高等部一年C組、新聞部所属の雨宮梨華は、学園指定のジャージ姿でスマートフォンを片手に、屋上のドアの前に立っている。
眼前に広がる光景はどこか幻想的で、現実感が薄れていくような錯覚を覚える。
(雰囲気あるね~。噂通りなら間もなく、か)
梨華がスマホで時刻を確認すると、ちょうど深夜零時を指していた。
それが合図であるかのように、屋上に薄もやのような霧が広がっていく。
気温が、急激に下がっていく。
梨華は知らなかったが、それはこの世のものならぬ存在が現出する前触れだった。
霧の向こう側。屋上のちょうど中央に、影のような少女が月を背にして立っていた。
まるで一枚の絵画のような情景に、梨華の胸がちくりと痛んだ。
「……あ」
その少女が、突然振り向き──梨華と目が合った、その瞬間。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
反射的に瞬きをして目を開けた時には、もう霧も少女も、何もかもが消えていた。
まるで最初から、すべてが幻想だったかのように。
次の日の朝。
梨華が目を覚ますと、世界がわずかに、歪んで見えた。
(……寝ぼけてんのかな? 何だか胸が痛い気がするなー)
体に異常はないが、なぜか心が重たい。妙な不安が胸の奥にへばりついていた。
教室に入っても、その違和感は消えなかった。
クラスメートの誰もが、何かを避けるように梨華を視界の外に追いやっていく。
気のせいではなかった。
昼休みになっても──誰も、話しかけてこない。まるで、彼女が教室に存在していないかのようだった。
自分の手をじっと見つめる。ある。確かにある。
でも、誰の目にも映っていない。
(……わたし、どうなってるの?)
想い人と、話せなくなる。
その噂を、梨華はあの時、ただの怪談だと思っていた。
だが今、自分の存在そのものが、周囲から削り取られていくような感覚に苛まれていた。
怖い。怖い。怖い──。
堪えきれず、立ち上がる。
「お願い、誰か……気づいて。わたしは、ここにいるんだよ……!」
叫んでも、誰も顔を上げない。誰の耳にも届いていない。
……そんなバカな。
教室の喧騒の中で、彼女の声だけが、無音に消えていった。
(ああ、もう、だめだ──)
絶望に包まれたまま席に戻り、机に突っ伏して、梨華は泣き出してしまった。
けれど、その教室で。
ただ一人、彼女にまなざしを向ける少女がいたことに梨華は気がつかない。
午後の授業が終わってすぐのことだった。
梨華は、一人きりで廊下を歩いていた。誰にも声をかけられず、誰にも見られず、孤独の中で。
このまま自分という存在は消えていってしまうのかもしれない。
昼休みのあの恐怖を思い出す。誰からも認識されないまま、机に突っ伏し泣いた自分。
そうして彼女は、校舎の階段で足を踏み外した。
身体が浮く。時間が止まる。
(ああ、このまま、怪我をしても誰にも気づかれなくて……動けなくなって、死ぬのかな)
その瞬間、感じたことのない恐怖が全身を貫き、梨華は思わず叫んだ。
「か、神様!……助けてください!」
その瞬間だった。
誰かの手が、梨華の腕を強く掴み、引き上げた。
床に激突する寸前で止まり、無理やり身体を起こされた勢いで──梨華は、その相手の胸に抱きつくような形で止まった。
「大丈夫?」
優しく、落ち着いた声が、梨華の耳に届いた。
その声に促されるように顔を上げる。
そこにいたのは──クラスメイトの佐々木葵だった。
(次回へ続く)