外伝 黒薔薇の断罪者と呪われた教師
眩い陽光が差し込む、久遠女学園・中等部の教室。
クラス担任の森先生が産休に入ると告げられたのは、ほんの一週間前のことだった。そしてその代役としてやって来たのが──
「──ええと、山田泰司といいます。今日からこのクラスを担当します。よろしく」
柔らかく微笑む表情、落ち着いた声。整った顔立ちに端正なスーツ姿。
──教室には、妙にざわついた空気が流れた。
(……うわぁ、イケメン教師……ってやつ?)
中峰陽子も思った。だが同時に、どこか引っかかった。
先生の笑顔の裏に感じる、わずかな演技臭さ。
(なんか……この人、表情が全部作りものっぽい……)
そんなふうに感じたのは、どうやら陽子だけだったようだった。
──そして、一週間後。
「中峰さん、ちょっといいかな?」
放課後の廊下。陽子が帰ろうとしたとき、山田に呼び止められた。
「あ、はいっ……」
「資料室に忘れ物があるんだけど、手伝ってくれる?」
なぜ私? と疑問に思いながらも断れず、陽子は山田とともに校舎裏手の資料室へ向かった。
──静かな資料室。木造の床がミシリと軋む。
「じゃあ、ちょっと待ってて」
山田はそう言って扉を閉める。
その瞬間、教室とは異なる、妙な緊張感が空気を包んだ。
──そして。
背後から、山田の声が、低く囁くように響いた。
「……《服を脱げ》」
「……え?」
次の瞬間、身体が勝手に反応した。
制服のボタンが外れ、スカートが滑り落ちる。
「な、なにこれ……!? 身体が……勝手に……!」
震える声で言葉を吐く陽子の耳に、山田の声がまた囁いた。
「おや……気づいた? ふふ……やっぱり、君は面白いね」
その目が、冷たく鋭い光を帯びる。
「君、最初からちょっと様子が違ってた。……だから、気になって観察してたんだよ」
「これ……これって……言霊の力……!? でも、それって──」
陽子の脳裏に浮かぶ、ゴスロリの姿。あの夜、自分を救ってくれた──
(まさか……美海お姉さまと、同じ力……!? こんな事に使うなんて!)
「驚いたな。キミ、この力のこと知ってるんだ?」
震える膝を押さえながら、床に落ちた鞄から手探りで物を拾い上げる。
「っ……!」
そのうちの一つ、金属のペンケースを掴んだ陽子は──
「えいっ!!」
全力で山田に投げつけた。
ガンッ!
ペンケースが山田のこめかみにかすめ、わずかにひるむ。
「ちっ……!」
その隙を逃さず、陽子はドアに飛びかかり、山田が立っていたその脇をすり抜け、廊下へと飛び出す。
──下着姿で。
「なんで私ばっかりぃぃぃぃ!!」
廊下を全力疾走する下着姿の陽子。制服は資料室の床。靴も鞄も置いてきた。
(こんな姿──だれにも、だれにも見られたくないよぅ……!)
──だが、逃げ道はそう長くはなかった。
突き当たり。振り返れば、余裕の表情で歩いてくる山田。
「終わりだよ、中峰さん。大人しく──」
そのとき。
廊下に吹き込む風が、空気の色を変えた。
コツ……コツ……と、ヒールの音が響く。
「──誰だ!?」
山田が声を上げる。
そして、陽子の姿を隠すように、目の前に立ちふさがったその人影を見て、陽子の顔がくしゃりと崩れた。
「美海お姉さまっ……!」
黒レースの傘。黒いフリルの短いスカート。黒いタイツに、編み上げのブーツ。
その姿はまるで、闇の中から舞い降りた黒薔薇の騎士。
下着姿のまま、美海に飛び込む陽子。涙と汗と羞恥にまみれた顔。震える肩を、優しく抱きしめられる。
「よく、がんばったわね。──もう大丈夫」
低く、凛とした声。黒レースのスカートが、ふわりと揺れる。
美海が山田に向き直る。
「あなた……『言霊』を、こんなくだらないことに使っているの?」
「なんだお前は……!」
彼の声が震える。
対して美海は、陽子を後ろに庇うように立ち、冷ややかに言い放つ。
「神薙美海。──ワタシは呪言を統べる者。闇を喰らう断罪者」
「呪言……っ、お前も言霊使いか……!? しかし、私の力は……!」
「知ってるわ。命令に従わせるだけの、安っぽい言葉遊び。──そんなもの、《呪言》とは呼ばない」
美海は一歩、前へと進み出る。
山田をを睨みつけ、唇を歪ませて笑った。
「《詞縁・鎖詠ノ呪言》」
詠唱の言葉が空間に響くと同時に、空気が張り詰め、空間の温度がすっと下がる。
彼女の周囲に、淡い紅紫の光が舞い、言葉の残響が輪となって宙に漂い始めた。
その光は、まるで命令のごとく、対象へと向かって収束していく。
「ワタシの言葉は、縁を縛る鎖。ワタシに抗うな。ワタシに従え。すべては、ワタシのために――跪ひざまずけっ!」
それは、支配と命令の言葉で構成された、暴力的なまでの詠唱。クラリスのような慈愛・浄化のニュアンスは皆無だった。
美海は言霊の縁を結ぶ封縁乙女。彼女の発する言葉、歌、詩には現実に作用する霊的干渉力があり、詠唱そのものが異能となる。
「黙れ──《沈黙せよ》!!」
山田の叫びが空気を裂いた。
「《無効》」
その一言で、呪の力は霧散した。まるで最初から存在しなかったかのように。
「ば、馬鹿な……!」
山田は美海を睨みつけながら言い放つ。
「《伏せろ》──!」
声が走る。だが、美海はピクリとも動かない。
「《無効》」
言葉にならない獣のような雄叫びをあげ、山田が言霊を連続で発動させる。
「《黙れ! 沈黙せよ! 倒れろ! 動くな! 地に伏せろ!》」
しかしそのたびに、美海はただ──
「《無効》」
静かに、ひとこと。
「《無効》」
また、ひとこと。
「《無効》」
何度でも。
言霊を封じられ、打ち砕かれた力。美海の一言一句が、彼の言霊を次々と無効化し、山田の精神を踏みにじる。
──全てが打ち消され、言霊は力を失い、霧散し、無力化される。
山田の顔から血の気が引いていく。
「な、なんなんだ、その馬鹿げた力は……! そんな力は人が扱えるものじゃ……ない!」
「悪いけど、ワタシ、最強だから?」
傲岸不遜な美海の台詞に、山田は戦慄にその身を震わせる。
美海は狼狽する山田に興味を失ったように、陽子の方を見ると、優しい声で陽子にささやいた。
「……あなたの尊厳を、傷つけた者は、許さない。だから、もう、安心して。──この男はあなたの目の前に、二度と現れない」
「美海お姉さま……」
涙を浮かべた陽子が、小さく頷いた。
「く、くそが……ッ! 《動くな──倒れろ──》!」
山田の口から放たれる言葉は、もはやただの悲鳴だった。
「《無効》」
もはや視線さえ向けず、ただ美海は言霊を口にだす。
その時、一陣の風が廊下を走り抜け、美海の黒レースのスカートが、ふわりと舞う。
そのスカートの奥、白地に黒薔薇の刺繍があしらわれた下着が、風にひるがえった。
その光景に、山田の集中が霧散した。
「な、く、黒薔薇……?」
ちなみに美海の背後で陽子もガン見していた事には誰も気が付かなかった。
「《詞縁・憂夢ノ朗詠》」
美海が再び縁力を発動させる。
──そして、美海は静かに命じた。
「《今日という一日を、記憶から消せ》」
その言葉が山田の中に深く沈んだ瞬間、彼の瞳から光が抜け、虚ろになった表情でふらりと後ずさる。
「《ここから出て、校門へいき、服をすべて脱ぎ捨てて立ってなさい》」
「……はい」
虚ろなまま、山田は静かに踵を返し、廊下を歩き出す。
数分後──久遠女学園の正門前。
彼は何の迷いもなくスーツを脱ぎ、全裸で立ち尽くしていた。
──全ての記憶を消されたまま。
校舎裏の渡り廊下。夕陽が差し込む中、陽子はようやく息を整えていた。
震える手で、美海が拾ってくれた制服を受け取る。
「……わたし、今日という日を忘れたい……ほんとに……」
陽子がぼそりと呟くと、美海は制服を手渡しながら小さく笑った。
「まあ、悪用言霊使いをしばくために、裸で廊下を走った女子生徒の武勇伝……一生語り継がれるかもしれないわね」
「や、やめてくださいぃ……!」
陽子は制服をぎゅっと抱きしめながら、ふと顔を赤らめてつぶやいた。
「も、もしかしてわたしの下着姿……最初から……全部、見えてました……?」
「ええ、しっかりと、この目に焼き付けたわ」
さらりと答える美海に、陽子の顔が真っ赤になる。
「~~っ!! うそぉぉ……うぅ、見られたぁぁ……」
制服を抱きしめたまま、その場に座り込み、身もだえる陽子。
そして──次の瞬間。
陽子は思い切って、美海に全力で抱きついた。
「も、もうっ! どうせなら! 抱きつきますからぁぁっ!!」
ぐいっ、と顔を埋めながら、涙混じりの声で叫び出す。
「ち、ちがうんですぅ……今日の下着は、たまたまピンクのクマさんで……普段はもっと、普通のにしてるんですぅぅぅ!」
「えっ……クマさん……?」
「クマですっ! でもラブリー系とかじゃなくて、ちょっとオシャレなやつで! ああああ、もうやだぁぁぁぁ!!」
錯乱したように喋り続ける陽子を、美海は呆れたように見下ろす。
「……はいはい。とりあえず、落ち着いて服を着なさい」
だが陽子は、美海に抱きついたまま、ふと目を開いた。
「えっ……」
目の前、ほんの数センチの距離。
視界いっぱいに、美海の整った顔立ち。潤んだ瞳が、こちらを真っ直ぐに見ている。顔と顔が、数センチの距離。
(あ……キスの距離だ)
陽子の思考が止まる。
美海の瞳が、真正面から陽子を射抜く。
(え、ちょ、ちょっと待って……この流れは……)
陽子は思わず息を呑み、目をそっと閉じて……唇を、ほんの少しだけ突き出した。
(分かりました! キス……ですね! は、初めてだけど! 美海お姉さまなら、構わないですぅ!)
「──ちょ、ちょっと! 何キス顔になってんのよ!?」
「ふえっ!?」
陽子が目を開けると、引きつった表情を浮かべ、頬を赤くそめた美海が苦笑していた。
「まったく……これだから巻き込まれ体質は……」
呆れ顔の美海が、ため息まじりに陽子の頭をぽん、と軽く叩いた。
「ち、ちがっ……違うんです! そ、そういう意図じゃなくて! ちょっと雰囲気がっ……!」
「はぁ……。とにかく、服を着なさい。風邪引くわよ、クマさん」
「うわぁぁぁぁ!! やめてぇぇぇぇ!! 忘れてぇぇ!!」
廊下に響く陽子の絶叫と、美海のくすくす笑う声。
──この日、陽子は学んだ。
神薙美海は、ただのゴスロリ美少女ではない。
闇を断つ“言葉”を持つ、本物の断罪者。
だけどそれ以上に──
(……やっぱり、美海お姉さま、カッコいい……!)
「そして、やっぱり黒薔薇だった!!」
「だから言うなってばぁぁぁぁ!!」
──春の夕暮れ。久遠女学園の片隅にて、今日もまた、誰にも知られぬ戦いが静かに終わりを告げていた。
神薙美海の縁力についてです。
縁系統:言霊の縁(詞縁・しえん)
美海は「言葉に宿る力=言霊」との縁を結ぶ封縁乙女。
彼女の発する言葉、歌、詩には現実に作用する霊的干渉力があり、術唱そのものが異能となる。
ゴスロリファッションも“魔術的演出”として力を引き出す象徴行動のひとつ。
複数の詞縁を同時に操ることもできる。
特徴:詠唱した言葉が対象に干渉する「誘導」「誘惑」「呪縛」「操作」「痛覚干渉」「記憶操作」などが可能。
効果範囲は広いが、感情に左右されやすいというリスクを持つ。
術名例(今作で使用されたもの)
《詞縁・鎖詠ノ呪言》……相手の思考・言動を一時的に制限する呪唱。
《詞縁・憂夢ノ朗詠》……対象に“見たい夢”を見せる、記憶・感情操作型術式。
最強の封縁乙女、美海の外伝でした。
この事件を境に、二人は「パンツを見せ合った仲」と揶揄されることになります(もちろん陽子が悪意なく、広めたせい)。