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白昼夢

作者: 市宵 千春

 浅い水辺が地平線の向こうまで広がっている。くるぶしまで浸るくらいの浅い水辺だ。遮るものは何もなく、ほとんど動かぬまっ平らな水面がただ輝くばかりだ。それだけの光景がどこまでもどこまでも広がっている。

 そんなところを一人の女性が歩いていた。その人は一枚白いワンピースを着ているだけで他には何も持っていない。裸足でただ広い水辺を歩いている。まるで砂漠を進むようだ。障害物などはどこにもない。どこを見回してみても反射して輝く浅い水が地を支配しているだけだ。砂はサンゴ礁の死骸のように白く、水は恐ろしく透き通っているため時々砂と水が混じりあって白く濁っているように見える。そんなところを歩いている。彼女以外に人はいない。

 空はただ白濁で明るくも暗くもなかった。一つ光源が認められるのは水平線と空を隔てる昇らない太陽の輝きのみだ。朝日なのか夕日なのか判然としない光だった。女性の歩いてきた方向がやや薄暗いだけであった。

 一つの疑問も持たず、その女性は歩き続ける。彼女は頭すら出さない太陽の方向に歩き続けている。振り返ることもなくただ太陽の方へ行くが、しかし本当に光を目指して歩いているのか、尋ねる者は誰もいない。彼女の足元の水は決して絶えることはない。溶けそうな明るい彼女の裸足は一定の間隔で水をかき上げる。その音以外は何も響いていない。空中で鳥が羽ばたき鳴く音も、水中で魚や蛙が泳ぐ音も風の音もしない。それらは初めから存在しない。

 この水辺は海でも川でも湖でもない。巨大な水溜まりとも言えない。生き物は存在せず、決して汚れることもなく、たまに目の錯覚で白く濁るだけだ。水深は深くなることも浅くなることもない。女性を中心に同心円状は巻き起こるが、それだけだ。彼女は一人だ。だから存在すら証明できない。一人という概念すら、本当に一人の時は存在しない。彼女はただ歩き続ける。速くなることも遅くなることもなく、ただ死んだ水を蹴って歩き続ける。何を求めているのか誰も知らない。夢の中のようだ。彼女の存在も、この空間の存在も証明されることは永久になく、簡単に忘れ去られるような。


 ふっ、と暗くなった。それは終わりのない空間に現れた初めての変化であった。空が重い灰色に移り変わり、今にも落ちそうだった。やがてあるひとつの小さな同心円が水面に浮かび上がった。それは女性の歩みによってできたものとはまた違うものだった。しばらくするとその数は増えていき、つまり雨だった。遠く遠くまで雨だった。一度降り出したらなかなか止まず、土砂降りにまでなった。それでも彼女は歩いていた。黒い髪がしなだれ、ワンピースの膨らみはたちまちに萎み 、水嵩がくるぶしを超えてもただ歩き続けていた。辛そうでも苦しそうでも達観したようでもなく、瞬きの回数すら変わらない。そうしているうちに彼女は浮かんだ。急激に増大した水嵩は人の足が地面から離れるほどの量になっていた。無いはずの風が吹き荒れ、大波が立ち、雷が鳴り続いた。神鳴りは落ちるたび果てしない暗闇となったこの空間を照らし、そのたび白濁の荒波が姿を見せた。さすがに彼女は歩けなくなった。首と頭だけを出して激しく打ちつける雨の中、今度は両手で水を掻き進んでいる。

 こんな雨もやがて弱まっていった。水嵩は大いに減って元のくるぶしの高さになった。同心円はまた彼女だけのものとなった。

 こうして彼女は再び歩き出した。先ほどと全く同じ歩調で、後ろを振り返ることもせず明るい方へ歩いていく。太陽は変わらず動かない。水面はどこまでもどこまでも広がり、眩しいほどに光り輝いている。まるで夢の中だ。女性は歩き続ける。彼女はいったいどこから来て、どれくらい歩いてきたのだろうか。この状況はどこまで続いていくのだろうか。

 彼女は立ち止まることなく歩いていた。足元の水の音が異様に大きく聞こえた。水中に魚も虫もいない、死んだ水だ。透明すぎるがゆえに砂の白い色と混ざって見える。水面は平らだった。彼女の背後の方向に空は暗かった。彼女はどこまでも歩いていく。気が遠くなるほどの長い時間だ。

 また水面に同心円が増えた。つまり雨が降り出したのだ。無いはずの風が吹き荒れ、荒波が立ち、雷が鳴り響いた。その光のたび増した水嵩が白く現れた。女性は歩けなくなって泳いだ。しかし水嵩はまた減って、女性は歩きだした。彼女はいったい、何度この状況を繰り返してきたのだろうか。彼女は歩き続けた。永遠とも思われる長い時間歩いていた。太陽は動かず、真っ平らな水平線に少し顔を出すだけだ。水面は輝き、水は死んでいる。後ろの空は比較的暗かった。この状況はどこまで続いていくのだろうか。彼女は永遠とも思われる長い時間を歩いていた。やがて同心円が所々に増えた。雨だった。大嵐で水嵩が増え、彼女は歩けなくなったが、次第に雨がやみ水深がくるぶし程度になるとまた歩き出した。長い時間歩き続けた。平らな水面を頭だけの太陽が照らした。水は死んでいる。この状況はどこまで続いていくのだろうか。彼女は歩き続けたが大雨が降った。水嵩が増えて歩けなくなった。暫くすると嵐は止み、彼女は歩き出した。長い時間歩いていた。水面は輝いた。この状況はどこまで続いていくのだろうか。彼女は歩いた。長い時間だった。雨が降った。彼女は浮いた。嵐がやんで歩き出した。この状況はどこまで続いていくのだろうか。彼女は歩き続けた。長い時間だった。水面は輝いた。この状況はどこまで続いていくのだろうか。彼女は歩いた。水面は輝いた。この状況はどこまで続いていくのだろうか。彼女は歩いた。長い時間だった。この状況はどこまで続いていくのだろうか。この状況はどこまで続いていくのだろうか。この状況はどこまで続いていくのだろうか。この状況はどこまで続いていくのだろうか。














 夏の日の放課後だった。三階の誰もいない教室の窓から、街の往来を眺めていた。

 




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水平線の向こうまで続く、浅い水辺を歩く一人の女性、という冒頭から神秘的なものを感じて、惹きこまれました。 昇らないままの太陽は、朝日なのか、夕日なのか。 目指す先にあるのは、光なのか、闇なのか。 ど…
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