すべてを奪った妹の言葉は、ネコの耳にしか届かない。
「私は全部を手に入れた、お姉さまと違って」
妹のフローラは、満面の笑みを浮かべてそう口にする。
彼女はハイディとは種類の違う愛らしい笑みと女の子らしい甘い声を持った少女だ。
本来であればフローラは多くを手にする立場ではなかった。
「あらそう。よかったじゃありませんの、祝福はしてあげられないけれど」
ハイディがそう返す。
ハイディの部屋には一匹のネコがおり、フローラの隣、ほど近い距離に座って静かに彼女を見上げている。ネコは灰色の毛並みに魔石がたくさんついた高級な首輪をつけている。
最近は暖かくなってきたのでネコは比較的、活発だ。
今日のような午後の温かな日差しが部屋に差し込む良い日には、ひげをひくひくさせながら、ソファに上ったり爪とぎをしたりする。
「お姉さまの婚約者だったフロレンツだって、きちんと婚約破棄して今では私のものっ、彼はすごくいい人だわ。魔法の才能だってある!」
「フンッ、別にそうでもないわ。彼優柔不断じゃない?」
「……多少、曖昧なところもあるけれど、それはそれ! お父様だって、このブランシュ伯爵家に尽くしてくれる彼には甘いんだから」
「違うわね。お父様は息子が出来るのが嬉しいのよ。いつも家族の中で自分だけが男だったから」
妹の言葉に、ハイディは少々ひねくれた答えを返す。
元から毒舌な方ではあるのだが、少々腹が立っているからかいつもよりもとげとげしい言葉遣いになっていた。
ネコがにゃあにゃあと鳴くのでフローラはとても真剣な顔をしてネコの頭を丁寧になでつける。
フローラはこんなに皮肉な報告をしているというのに動物には目がない。
「それに何と言っても跡取りの地位! もう最高じゃない、もちろん今のブランシュ伯爵家が国中の貴族の尊敬の的って事もあるけれど、舞踏会に行ったら、誰でも私を見る」
「奇異の目で見られているだけですわ」
「誰でも私の機嫌を取る。王太子殿下だって、前回久々に舞踏会に参加した時、直々に挨拶にいらっしゃった! 私がちょっと不機嫌になればすぐに不安な顔をして!」
「あなたの機嫌を取っているのなんて都合よく扱いたいからに決まってますわ」
王族の話を聞いてハイディは嫌な気持ちになった。もちろん身分が高く彼らに媚びられるのは気分がいいだろう。
けれども彼らの中に真の尊敬の気持ちなどないに決まっているのだ。
妹はそんなこともわからないほど愚かだったのかとハイディはなんだか呆れた気持ちだった。
「お茶会に行けば、皆が私の話を聞きたがる。……そうそう、これを見て、これは特別な品なのよ。なんと私にプレゼント! 旧マルトリッツ領地から送られてきたのよ、ブランシュ伯爵家”跡取り”の私に」
「あら、なあにそれ」
フローラはドレスの内側につけていた美しいネックレスを取り出す。不思議な黒魔力をはらんだ魔石を加工しているものらしく、歴史を感じるような古い作りだ。
じっと見つめるが、魔法道具にしては妙な雰囲気のそれにハイディはさらに険しい表情になった。
しかし相当な値が付くものであることは間違いがない。
日の光をキラキラと反射するまがまがしいような、美しいようなその宝石にネコは興味を示して、フローラはすぐ目の前に近づけて見せてやった。
「マルトリッツに伝わる秘宝らしいの。はぁ、ほれぼれするような光。どんな魔法が含まれているんだろう。気になるわ」
感嘆するように息を吐いて、喜ぶフローラに、ハイディは言った。
「フロレンツに見せた方が良いと思いますわよ。お馬鹿さん」
「中に含まれている魔法は気になるけれど誰にも見せないわ」
「何故かしら」
「だって、研究の為に奪われたら困るもの。私のよ」
「傲慢ね」
「誰がなんと言おうと、全部私のもの」
ネコがフローラの持っているマルトリッツの秘宝にその前足を伸ばしてチョイッとひっかけようとする。
するとフローラは素早く反応して、ぱっと手をあげて自分の首元にしまい込む。
よっぽどマルトリッツの秘宝が気に入っているらしい。
どうせ、余るほどの宝石をもらって、美しいドレスを着て、王族にまで媚びを売られて、たくさんのものを得ているのだから一つぐらい手放したっていいはずなのに、彼女はそんなつもりはないらしい。
まったく困った妹である。少し前までこんなに傲慢で皮肉屋ではなかったはずなのに、どこでこんなふうになってしまったのだろう。
やはり、多くを手に入れると人間というものは狂ってしまうのだろうか。
「お父様からの愛情も、群衆の注目も、あなたの宝石も、ドレスも、婚約者も! あはは! 可笑しい!」
「おかしくないわ、なんにも」
「可笑しくてたまらないの! フロレンツだって、平然と言ってくれるのよ、私の事愛してるって、抱きしめて頭を撫でて額にキスだってしてくれる」
ハイディはその様子を思い浮かべて、さもありなんと思った。
彼ならばやるだろう。そういう男だ。妹とも婚約できてしまうような人間なのだ、何もおかしくないんてない。
しかしなんだか久しぶりに彼女と顔を合わせて、随分と傲慢になったなと思ったが、彼女の様子はどこかおかしい。
「彼ってとっても優しいのよ? 知ってるでしょうけど全部全部知ってるでしょうけど!!」
「……フローラ?」
「ハイディお姉さまなら、わかっていると思うけれど、全部私のものになった事、別に何とも思わないのでしょうけど!!」
彼女は次第に怒鳴るような声をあげて、そばにいたネコをあらぬ勢いで捕まえて自分の膝の上にもってくる。彼女の手はぶるぶると震えていた。
「お姉さまの婚約者なのに!! 私のものになった、お父様からの期待も、やらなきゃいけない仕事も全部私のもの、ひどい重圧!! いらないわこんなの!!」
「わがままねぇ」
「わがままなのはわかってる!! でも、でもっ、私止めたじゃない!!」
彼女はネコを捕まえたまま自分を落ち着かせるように必死でなでつけて、震える声で吐き出すように言う。
「逃げてって言ったじゃないの、お姉さまぁ!!」
「……」
「私、何もいらなかったわ、お姉さまの婚約者も、跡取りの地位も、民衆の称賛も! なにもいらなかったのよ!!」
ネコを抱きしめてフローラは泣いた。
時は少し前にさかのぼる。
国の重要な大領地である、マルトリッツ公爵家、そこにとても大きな魔獣が現れた。
魔獣とは動物が魔力を持って転変した姿と言われており、魔力を求める性質がある。
大きな魔力をもつ貴族は格好の的だ。けれども本来魔法で対抗して魔獣を駆除する騎士がおり、大事には至らないことが多い。
しかし、そのネコの魔獣はマルトリッツ公爵家の飼いネコだったということもありすぐに貴族を喰らい、急速に力をつけた。
トラよりも強靭な爪、ライオンよりも鋭い牙、大きさは納屋に入りきらないほどだったという。
そのネコはマルトリッツ公爵家を壊滅させ、指揮系統を失った領地の人間を食い荒らし、王族が気が付くころには騎士でも駆除できないような魔獣に成長していた。
そこで白羽の矢が立ったのが、ブランシュ伯爵家の血筋だった。
はるか古代より、その血には魔獣を鎮める力があると言われており、魔法協会が所有している古い文献にもブランシュ伯爵家の少女をささげると魔獣被害はたちまち収まり、魔獣は消え去ったと記載があったそうな。
そういう伝説があることは知っていたが、跡取り娘のハイディは、魔力的にも申し分ないと魔法協会からもお墨付きをもらってしまった。
急激な展開にハイディはどこか現実味がなかったが、王族が直々に頭を下げに来た時には驚いた。
「この通りだ。どうか、領民や家族、この国を守るためにその身をささげてはくれまいか」
ブランシュ伯爵家の屋敷の一番大きな応接室で膝を折った王。
ハイディが事を成せば、ブランシュ伯爵家には何でも与えられる。大きな領地、高い爵位、王族の血筋……本当に何でもそう約束してくれた。
さらに未来永劫、語り継がれ、子々孫々幸せに、贅沢な毎日を送らせてくれるという事だった。
「……どうか、お顔をあげてくださいませ。国王陛下。わたくしはそんなことをされては……困ります」
「いいや。いいや、ブランシュ伯爵令嬢、もう我々にはこうするほか手段がないのだ。このような事態が起こらないように国を……民を守ってきたつもりだった。しかし、もう、手がない。後がないのだ……伯爵令嬢、すまない」
「……」
そこにいたのは、いつも見上げていた、素晴らしく偉大で皆に尊敬されている賢王の姿ではなく、ただ老いさらばえて小さく震える老体だった。
哀れにも小さく、必死に乞う姿は無様なもので、憐憫を誘うものだった。
そう辛辣に思うと同時に、ハイディは深くため息をついた。
周りにいる王族の面々もひどい顔でハイディを見つめている。
まるで神様でも見ているような目線だった。
祈りをささげられているようで、それらの目線はハイディの気持ちを変えるのには十分だった。
自分に特別な力などあると思ったことはない。
属性魔法も持たない、単に家に変わった伝承のある家の普通の女だと思っていた。
しかし、窮地に陥り内なる力が解放され、すべてを丸く収めることができる。そんなおとぎ話のようなはるか昔の伝承を真実かのように受け取って一人の若い女に願いを託す。
それほどまでに追い詰められて、彼らはどうしようもないのだ。
あるかもわからない不思議な力の為に死ぬなどごめんだと思っていたが、この様子では、ハイディだけの問題では済まされない。
「こんな、こんな、たしかではないものの為に、魔獣に食べられろっていうの!?」
「……」
「お姉さまがどうこうの前に、私が、私たち家族がそんなの許せるはずありませんよ!」
王族に怯え、ぶるぶる震えながら言葉を紡ぐフローラは涙を浮かべながらも必死に訴えていた。
彼女は自分も同じブランシュ伯爵家でハイディではなく自分が選ばれていたかもしれないということに思い至っていないらしい。
……まったく、仕方ありませんわ。
そう思って、ハイディは了承の返事をして、マルトリッツの魔獣を鎮めに行くことにしたのだった。
当日、迎えに来た王族の馬車が到着したという知らせを受けてエントランスへと向かう。
するとフローラはハイディが着ているのと同じ生贄用の純白の衣装を着て現れて、エントランスの前でハイディにこっそりと言った。
「お姉さま! お姉さまはこんなものの犠牲にならなくていいの。逃げて、裏に平民の別の馬車を用意させているから。侍女たちも協力してくれる!」
「……」
「私は大丈夫、近くまで言ったらハイディお姉さまじゃない事を明かすわ!」
「……」
「これで完璧! でしょう?」
間抜けな妹は白いベールで顔を隠してハイディの振りをして王族を欺こうとしている様子だった。
その様子にハイディはまったくいつもの能天気な彼女に仕方なく笑って、無視して玄関扉を開けてもらって外に出た。
「え? え! お姉さま、そっちじゃない!!」
「わかっていますわ。フローラ、あなたったら、本当に……可愛い妹ね。愛していますわ。幸せになりなさい」
「待って、待ってよ! お姉さま!!」
駆け出すフローラを振り返らず、ハイディは馬車のそばについていた護衛の騎士に声をかけた。
「妹がわたくしのお役目を嘆いて自分も共に行くと言っていますわ! 止めてくださる? ブランシュ伯爵家の血筋を絶やすわけにはいかないでしょう?」
「はっ、はい!!」
すぐにとらえられて、丁重に部屋に戻されていくフローラを見て、ハイディは馬車に乗り込んだ。
もし、フローラが考えた作戦を実行していたら、きっと彼女が役目を代わりに遂行することになっていただろう。
結局、どちらかが犠牲になるしかないのだ。
こうなった以上は、仕方がない。
ハイディはより生産的で、より良い方を選んだ。それにもし何かしらの素晴らしい力が眠っていたとして、まだ育ち盛りのフローラでは魔力が足りずに死んで国も助からないというのは一番どうしようもない。
……これが正解ですわ。そうよね。ハイディ。
自分に問いかけて、過ぎ去る我が家を見つめる。見送りに来ていたフロレンツと一度目が合ったような気がしたがすぐに逸らした。
そうしてハイディは、マルトリッツの魔獣を鎮めるためにマルトリッツ公爵領に向かい、伝承の通りにマルトリッツの魔獣は消え去った。
そしてその領地には人間は一人もいなくなった。
国を救った英雄の為に捜索が行われたが、まったく見つかる気配もなく、伝承の通り血をもって魔獣を鎮めたのだと結論づけられた。
「もう一年もたつのよ! あれから、お姉さまがいなくなってから国は平和になって、ブランシュ伯爵家はとても良い待遇を受けてる!!」
「なんだ、まだ悲しんでいたのね」
「見つかったのはフロレンツが持って帰ってきたこのネコだけ!! これだってどうせフロレンツが私をなだめるために買ってきただけのペットでしかないわっ!!」
「顔がひどいわ、フローラ」
「お姉さまの部屋で飼ってみたって、意味なんてないわよ!!」
「言っても意味はないのね、わかっているけれど」
「せめて、亡骸があればっ、っ~~! ……どうして? どうしてお姉さま、私お姉さまの物なんて何もいらなかったのに」
ハイディの声は届かない。
フローラは今までただハイディの部屋で一人でネコに向かってしゃべりかけていただけに過ぎないのだ。
けれどもハイディはそこにいる。フローラにはハイディの声が聞こえないだけで妹を見守りたいという願いを抱えてここにいる。
「フロレンツも、お姉さまの婚約者なのに、どうして私の事を愛しているなんて言うの!?」
「あれはそういう男よ。別に嘘ではありませんわ。あなたの事、妹のように愛しているのですから」
「お父様だって、何もできない私に優しいし、なんでもしていい何でも買っていいって!!」
「あなたを大切にしたいからですわ」
「誰も彼もそう、お姉さまは怖い思いをして死んだのに、称えて祀って、何よ!! 生きてる時には悪口を言っていた子たちだって皆ニコニコ!! 大嫌い!! ……っ、う、うぇっ、うわぁ~ん」
「フローラ……そんなふうにレディが泣いてはいけませんわ。あなたはもう、ブランシュ伯爵家の跡取り令嬢なんですもの」
そう言って、そっと彼女の頬に手を添える。
五歳年下の妹はまだあどけなく、一度泣き出すと手が付けられない。
フロレンツが様々な思惑を持った人間が近寄ってくるようになったフローラを守るために婚約者になったのも当然の流れだ。
誰だって、小さな彼女を愛している。
ただそれだけの事だ。
「お姉さま、私のハイディお姉さまっ、どうして魔獣なんかに食べられなくてはいけなかったのっ……う、ゔっ、どうして逃げてくれなかったのっ?」
「あなたを置いて逃げられるはずもないでしょう、わたくしの事は忘れなさい」
「寂しいよ。お姉さま、フロレンツは良い人よ。愛してるって言ってくれる。でもお姉さまのものだわ」
彼女の瞳からは、ぽたぽたと涙が零れ落ちている。
大きな瞳がひどく潤んでいて、解け落ちてしまいそうなほどだった。
「私、お姉さまの物をたくさんたくさん奪ってしまった、なにも、お姉さま以外はいらなかったのに」
「わがままねぇ、フローラ。……あなたが忘れられないとわたくしどこへも行けないじゃない」
「っあ、う、うう~っ、ネコ、ネコ、慰めて……」
フローラはネコを自分の頭に近づけて少しでも姉に撫でてもらう感覚を思い出そうとする。
しかしネコはフローラの髪を爪でぐっとひっかけて、びょんとフローラの上に乗る。
「ギャッ、いたい!」
「ま、もう仕方ないですわね」
ぴょんと飛び降りて、ネコは敏感な耳でこの部屋にとある人物が近づいてきていることを知っていた。
そして扉がひらかれると、その人物に向かってぴょんと跳躍する。
「っと、どうしたの? ……って、ああ、ここにいた。フローラ、侍女が美味しいチーズケーキが出来たって呼んでいたよ。ここに居たら悲しい事を思い出すだろう。私と一緒にケーキを食べよう」
「いや!! 思い出しちゃいけないっていうの!? ハイディお姉さまが連れていかれてちょうど一年なのに」
「……」
「私、今日はここでネコと過ごす。フロレンツはあっちへ行ってて!!」
頭を爪でひっかかれてフローラは涙ながらに頭を押さえながら頬を膨らませてフロレンツに言う。
彼は片手でネコを抱えたまま、フローラのそばによって、困ったような表情でフローラの頭を撫でた。
しかし、主張するようにネコはザリザリとフロレンツの頬をなめた。
「いたっ、え、痛い。なにするの」
「フロレンツ、もう仕方ないからやりなさい」
「え? なに? いいの? つけちゃって」
ハイディの声はもちろん届かない。しかし、ミャウミャウ鳴けばフロレンツは流石に察して首輪に手を移動する。
「早くしてくださいませ」
そう言って肉球で、たしたしっとフロレンツの頬を攻撃する。
「わーっ! わかったやるやる、わかったよ。ハイディ」
突然始まった婚約者とネコのやり取りに、フローラは非常に不可解だと思い視線を奪われていた。
フローラはとっても悲しいけれども、ハイディはすでに死んでいて、もう二度と会えないし、このネコはどこぞの見知らぬネコだということもちゃんと理解している。
彼はそうではないのか、まさかフローラを愛していると言いながら心の底ではハイディを求め続けて、本当にネコをハイディだと思ってしまっているのか。
だとしたらよっぽど重傷でお医者様に見せなければならない。そこまで考えた。
しかし、ネコの首輪についている宝石が光をはらんで、それが魔石であることに初めて気が付く。
今までみゃうみゃうと言葉に相槌を打っていたネコは、突然レコードから流れるような音で『フローラ』と声を出す。
『あなたったら、本当に困った子ですわ。幸せになりなさいというわたくしの最後の願いすら叶えてくださらないのですもの』
口を開けるとそこからは最愛のハイディの声がする。少し音にノイズがあるような気がするが、それでもその言葉の抑揚、話し方、鋭い目線、そのすべてがハイディだと物語っている。
『受け入れることも貴族として生きるには大切な……って、フローラ、聞いていますの?』
問いかけられてフローラは、ネコが同時に首をかしげているのを見て、ぶるぶると震える。
そして様々な事を次から次に考えてそして、最終的にカッと目を見開いた。
「キャァーッ!! ネコが喋った!! お、お姉さまの声で!!」
キーンとするような大きな声をあげて、自分が泣いていたことなどすっかり忘れた彼女はソファから立ち上がろうとしてつまずいてドテンッと頭からローテーブルに激突した。
『あぶなっ…………あら、ダメですわ失神してますの』
「こうなるし、フローラは嘘も苦手だから隠していたのに。……言ってよかったの、ハイディ。今ならまだ、無かったことに出来るんじゃない?」
そういって、フロレンツはフローラをすぐに抱き上げて、額の傷を見てやる。
こぶが出来ているだけで血は出ていない様子だった。
ぐったりしている彼女を抱えてフロレンツはハイディに向き直る。
『出来たとしてもしませんわ。フロレンツ、子供の一年ってとても長いでしょう』
「うん」
『それなのにかかさずに覚えていて、一年経ったことを悲しむなんてきっととても深く傷ついたのだわ。これでは、幸せになんてなれないでしょう?』
「……そうだね」
『しばらくは、この子のそばにいるわ。まだまだ研究はかかるのでしょう』
「うん。ごめんね。君を人の姿に戻すのにはきっと、まだ、とても時間がかかる。でも成し遂げるから。君を見つけたからには必ず……私は……」
フロレンツはとても思いつめたような表情で言い、表情を険しくする。
事件の後、魔獣を鎮めたハイディを見つけてくれたのはフロレンツだった。
彼は魔獣や野生動物がうろつく危険な場所になったマルトリッツをハイディを探すために徘徊し続け、姿の変わったハイディは仕方なくその様子を見て彼の前に姿を現した。
もう死んだものとして貰おうと思っていたし、彼らに早く忘れられるためにもこの奇妙な状況も無視しようと思っていたが、フロレンツがこのままハイディを探し続けて魔獣に襲われたら流石に後悔する。
それに魔法を研究している彼に会ってわかったこともある。
ハイディの……ブランシュ伯爵家の血筋の魔法は、魔獣を生贄として鎮める魔法ではなく、自らの身の内に沈める魔法だったらしい。
取り込むと言った方が正しいのか、魔力を適応させて同一化し、自身の中に沈める、封印とも呼ばれるその力は奇妙なものだった。
そして、あまりにマルトリッツの魔獣の力は強大だったらしく、ハイディは体は魔獣の元の姿、中身はハイディという何とも微妙な封印をしてしまった。
なので言葉を発すると他人にはもちろんにゃあに聞こえるし、こうして魔法道具がなければ人間に伝わる言葉を発することができない。
だからこそ、もう野生のネコとして自由気ままに生きていこうと思っていたが、誰も彼もがそうさせてくれない。
『あなたも背負いすぎですのよ。みんな重くとらえすぎですわ。まったく……良いじゃありませんの。生きてるのだから死ぬことだってありますわ』
「そういうこと言わないで。私だって、君が捧げられたことに納得いってないから」
『はぁ。怒らないでくださいませ。まぁ、結論としては生きていてよかったと思っていますわ。フローラにも寄り添う事が出来るし、あなたのそばにもいられる』
「君はいつも頓着がなさすぎなんだよ。……きっと救って見せるから、愛してるんだ、ハイディ」
『あら、フローラへも言っているんでしょう?』
「うん。フローラも愛している。私は君たち姉妹が大好きだよ」
『…………』
「もちろん、一番に愛しているのはハイディだよ?」
『あら、いらない補足ですわ』
「そうかな」
『ええ、もちろん』
「ふふっ」
フロレンツはそう言って笑って、ハイディはまたぴょんと飛んでフロレンツの肩に飛び乗った。
フローラとハイディの二人の重量を受けることになったフロレンツだが、なんてことない表情で、ハイディの部屋を出ていく。
子供とネコ一匹ぐらいはフロレンツの一人でも支えられる。
それはハイディもわかっているが、戻ってきたからには、ハイディも彼の支えになるべきだしなりたい。
もうあれから一年、妹は彼に支えてもらっている。
だからこそハイディはそろそろネコの軽い体としても、彼に乗るのはやめて、またたくさんの責任を持てるだけの人間に戻ろうと思う。
フローラもハイディも一人の人間だ。それぞれ歩く道がある。そのためにも動くべきだ。
そうしてハイディはまた、人として生きようとやっと決意して一年というモラトリアムを終えて、動き出す。
そんな、出来事だったのだった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
最近、主人公が実は……! という展開が流行っていると聞いたのでやってみました。ただ、死んでいると悲しすぎるので、救いがある方向にもっていきました。意外な展開だった! と思ってくださるとうれしいなと考えております。
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