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ハイキックはおやつに入りますか?

作者: 小林芍薬

「先生! バナナはおやつに入りますか?」

 

 うっわ。そんな使い古されたギャグを堂々と言うやつがまだこの世に存在していたのかよ。


 クラス全員が思わず鼻で笑ったのは、桜も散り、新緑が目に眩しい四月の下旬だった。


 高校に入学してもう一か月が経とうとしている。当初は不安だった人間関係も始まってみればあっという間に友人ができ、進学校ではないので勉強の進度もそこまで早くはない。一か月前まで中学生だった少年少女は、それなりに快適な生活を送っていた。

 

 クラスの人間関係も一段落し始め、ようやく落ち着いて高校生活を送れるようになったタイミングで学年ごとの遠足が催される。生徒たちのやる気がなくなり授業が手につかなくなる六時間目、担任の鈴木修二から遠足の事前指導を受ける時間だった。 


 別になんてことはない、中学の時と変わらぬ内容だ。携帯電話の持ち込みは許可されるものの、それ以外は規則でがんじがらめにされている。高校に行ったら中学とは比べ物にならないくらいに自由になるという過去の期待は、クラスの至る所から漏れる溜息によって溶けていく。


 そうして興味を無くした生徒たちの半数があくびを噛み殺し、もう半数が校庭を見ていた時に、誰かが言ったのがそのギャグだった。


 鈴木は鼻で笑い、「自分で考えろ」と受け流した。定年間近の者が多いこの高校の教員層で言えば、相当若い分類の英語教師はそれなりに生徒から好かれていた。この場合の「好かれていた」は「尊敬」とは似て非なるもので、寧ろ鈴木に馴れ馴れしく接する生徒が多いという事を指している。


 くだらないギャグを飛ばしたのは吉岡だった。クラス一のお調子者だが、あまりギャグセンスが高くない。「俺は勢いで笑わせるタイプだから」と言っていたが、吉岡は憎めないが抜けているところがあるので、周りからしてみればウケを狙って話すより自然体で話したほうがずっと面白いと思われている。


「他に質問はないか?」


 鈴木に受け流された吉岡は諦めずにもう一度挙手をした。粗方遠足についての説明は終わってしまって、時間を持て余していたため鈴木も面白がってもう一度吉岡を指名した。


「先生、牛丼はおやつに入りますか?」


「米入ってるだろ。三時のおやつで牛丼食べるやつ、この世界のどこにいるんだよ」


 力の入っていない突っ込みをする鈴木に、クラスから小さい笑いが起きる。それに気を良くした吉岡が、もう一度挙手した。今度は指名される前に、発言をする。


「先生、マシュマロはおやつに入りますか!」


「バリバリに入るよ。ここにきて正解出してくるんじゃねえ」


 クラスのほぼ全員が笑った。言っている内容云々より、張り切りすぎて一周回ってボケていない吉岡とやる気がなさそうに突っ込む鈴木の対比が面白かったのだ。熱量あるセンスのないボケを適当にさばいていく、その緩さがどうもツボに入ってしまっていた。


「あー、もう吉岡はいいよ。次ボケたら絶対滑るから。引き際が大切なんだ、こういうのは」


「勉強になります!」


 恭しくお礼をして、吉岡は座った。クラス全員を笑わせてやったぜ、という達成感が顔に浮かんでいた。それが自分の力ではなく、鈴木のやる気のなさがあってのことなのだと気付くにはまだ人生経験が豊かではない。

 

「あー、授業もあと五分だからそろそろ終わりにしようか。後は聞いておきたいことはないか?」

 

 鈴木が気怠そうに質問を促すも、もうそれを求めていないのは誰の目からも瞭然だった。質問は出ずに、はいじゃあ遠足頑張ろうね、という流れを頭に思い描いている。


 しかし、鈴木の目論見はある女子生徒の前に崩れ去ることになった。


「先生」


 指先までそろえられた美しい挙手で発言を求めたのは、加納恭子だった。烏の濡れ羽のような髪の毛を後ろで一本に結い、綺麗に整えられた眉毛の下から覗く凛とした瞳でくたびれた中年を見据えた。

 

「おお。なんだ。加納も大喜利に参加するのか」


 冗談めかして発言を促す鈴木。言った本人も、加納が冗談をいうとは一切思っていない。美人で成績優秀だが、あまり冗談が通じない女として既に有名なのだ。


「いいえ。至極真面目な質問で恐縮です」


「ああ。そんな畏まらなくてもいい。至極、とか恐縮、とか俺でも使ったことのないような言葉を使わないでくれ、こっちこそ恐縮しちまう」


「すみません。それでは、要点だけ」


 今まで加納が積極的に発言したことはほとんどなかった。普段の授業も指名されたらそつなく答えるが、自分からは発表しようとしない。そんな加納が挙手までして発言を求めるのは異様な事態だった。クラスの全員が、彼女の発言に耳を傾ける。




「ハイキックはおやつに入りますか?」




 数秒間、時間が止まった気がした。滑ったのではない。加納は冗談をこんな場面で言わない女のはずだ。彼女が何を言い放ったのか、誰も理解できなかったのだ。


 永遠にも思える数秒間の後、沈黙を破ったのは鈴木の返答だった。真面目な顔で答える。

 

「それは、現地で決めることにする」


 またしても数秒間の時が止まった。もはやこの二人以外は、今自分たちが聞いている会話の真意を掴むことが全くできずにいた。私たちは今、何を聞かされているのだろうか。得体のしれない疑問が教室を渦巻く。


「そうですか。ありがとうございます」


 晴れやかな表情でそう言った加納は、一瞬で元の涼しげな無表情へと戻り席に着いた。お調子者の吉岡でさえ、どう反応していいのか困っていた。


 冗談で言ったにしては、二人の会話は終始真面目な雰囲気が漂っていた。生徒たちが自分の混乱を口にする前に、六時間目終了を告げるチャイムの音が黒板の上のスピーカーから響き渡った。


 もやもやした気持ちを抱えたまま、終わりの挨拶をする。


 ハイキックはおやつに入るか、だって? 


 ハイキックは立っている相手の首や頭部を狙った蹴りの名称で、食べ物ですらない。


 それだけでも謎なのに、「現地で決める」という鈴木の返答も輪をかけて意味不明だった。


 学校が終わり、各々の家に帰る。


 生徒達の疑問が氷解しないまま、遂に遠足の当日を迎えた。




 暦の上や世間の認識ではもうとっくに春なのだが、その日は冬の再来を思わせるほどの寒気が流れ込んできている。生徒たちはその異常気象に対して、マフラーやタイツなどの防寒具を着込んで遠足に参加した。


 外ではそれで問題はなかったが、暖房の効きすぎたバスの中は地獄だった。外との気温差でバス酔いをする者が出て、決して快適なバスの旅とはいかなかった。それでも鈴木のクラスの生徒たちは不満を漏らさず、黙って教師の指示に従っていた。


 ハイキックはおやつに入るか確かめるのだ。鈴木のクラスの心は一つで、それが組まれてからひと月も経っていないクラスとは思えない程の団結力を見せていた。


 目的地にたどり着き、簡単に教師の説明を行った後に解散となった。思い思いのメンバーで一時間半の自由時間が与えられる。他のクラスが散り散りになっていくな中、クラスの全員が待ちわびたその瞬間が訪れた。


 鈴木が欠伸をしながら伸びをしたときだった。


 制服姿の加納の足が突然、地面を蹴ったかのように跳ね上がる。日焼けとは無縁な白くすらりとした足は、自身よりも身長の高い鈴木の首に一直線に向かっていった。


「鈴木先生!」


 誰かの悲鳴にも似た声が聞こえた。


 骨と骨がぶつかり合うような音が鼓膜を震わせる。クラスの生徒は皆突然のことに驚き、慄き、手で顔を覆っている女子生徒が多かった。


 鈴木がいきなり女子生徒に暴行を受けた。衝撃的な光景に、ただただ事の成り行きを黙ってみているしかない。下手をしたらかなりの重症になってしまうのではないか。そんな不安が生徒たちの間で渦巻く。


「なるほどね~」


 加納の全体重を乗せた蹴りをまともに喰らったかのように見えた鈴木から、雰囲気にそぐわない間の抜けた声が聞こえた。


 目を凝らしてみると、鈴木は自身の首に蹴りが食い込む寸前で右の手のひらでガードしていたのだった。泥の付いたローファーが手のひらに食い込んでいる。鈴木が加納の足を掴みながら口を開く。


「先生が油断したタイミングを狙う作戦は悪くなかったなあ。ただ踏み込みや蹴りの角度なんかがいまいちだったね。まだまだ甘い。どれくらいかというと生クリームくらい甘い。これじゃあ、君のハイキックはおやつに入るだろうね」


「はい……」


 無念さを隠そうとせずに、しゅんとした表情で返事をする加納。


 クラス全員が呆気に取られている中、お調子者の吉岡が叫んだ。 


「なるほど! 恭子ちゃんのハイキックの完成度を測るための試験だったのか!」


 その発言を皮切りに、他の生徒からも納得の声が上がる。いつしかそれは勇敢にもハイキックを試みた加納に対する賞賛と拍手に変わっていた。


 しかし、加納は自分の自慢だったハイキックが軽くあしらわれたショックから抜け出せないでおり、悔しそうに唇を噛みしめる。


 そんな加納の姿を見て、鈴木は彼女を励ますために明るい声で告げた。




「――でも、ハイキックをした瞬間や、今も見えている桜色の下着はとてもいいと思うよ。いかにも春らしくて可愛い君のパンツによって、君のハイキックの甘さの中に程よい青春の甘酸っぱさを生んでいると思う」



 

 後日、鈴木修二は複数の生徒からの証言で生徒へのセクハラ発言が認定され、学校を追い出されることになった。


 セクハラ高校教師に対する世間の目は、おやつに入らない事が分かった。

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