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死者の祭り

作者: 岸田 一彦

【今でもわたしのことを想ってくれているのなら、会いに来て下さい】

 思いがけず君から一通のメールが届いた。


 指折り数えれば十年という月日が流れていた。あの日、僕たちは握手して別れた。

 君との出会いはありふれたものだった。大学のサークルで知り合って、なりゆきで転がり込んだ君のアパート。それからなんとなく同棲が始まって、就職を機に別れた。君が地元の愛知県に帰ると言い出したのだ。僕は強く引き止めはしなかった。そして、君の方にも特に引き止めてほしいという仕草はなかった。ただ、就職して落ち着いて、お互い気にかける気持ちがあったら再会しよう、と言って別れた。だから、いつでも連絡が取れるように、メールアドレスだけは変えずにいようと約束した。

 十年も会っていないのに、君を懐かしく遠い人だという感覚がない。なぜなら、心の片隅にいつも君を思い描いていたから。

 社会人となって五年後に僕は他の女性と結婚した。子供も生まれ、それなりに幸福な日々を過ごしていた。君の存在など遠い過去になってしまっていた。そう思うことで、僕は自分自身をこれまで欺いてきた。そう思うことで、君を忘れようとした。だが、僕の中で君は消えていなかった。君の瞳、声、笑うとできる片えくぼ、そして、細い肩。なにもかもが別れた時のまま若い姿の君がずっと僕の記憶の中にいる。無論、四六時中君を思っているわけではない。ただふと、何気ない記憶として蘇るのだ。それは驚いた瞳であったり、怒った声であったり、可愛らしい笑顔だったりした。きっとそれは、僕の満たされぬ心の欲求が現われたものだろう。仕事で面白くないことがあったとか、私生活の中で些細な不満があると、ふと君を思い出すのだった。君と暮らした記憶はいつの間にか僕にとって青春の宝物となっていた。ともすれば荒みそうになる心を一時避難させる陽だまりのような存在。あの当時は思ってもいなかった感情が、時間を経るとともに、幾重にも積み重なっていった。君を思うと、拾い上げる記憶の一つ一つが淡く輝く宝石のように見えて愛しい。

 僕が本当の自分の気持ちに気づいた時、すべては後戻りできない状況になっていた。僕は既に家庭を持ち、君も風の噂で結婚したと聞いた。それを知った僕は素直に喜べなかった。どうして君の相手が僕ではないのかと自問した。なぜ君を手放してしまったのかと深い後悔が残った。

 だからといって、今の結婚生活を後悔しているわけではない。それはそれなりに良かったと思っている。ただ、妻がもし君であったら、と思うことがある。ずっと君への恋慕を断ち切れずにいる。僕はなんて未練がましい男なんだ。

 そんな日々を過ごす僕に届いた君からのメール。君もアドレスを変えていなかった。表示されたその名前を見たとき、僕は胸が熱くなるほどに感動した。

【私は今、岩手県南部の一関市というところにいます】

 岩手? 僕は君とその東北にある一地域との関連が思いつかなかった。君が結婚したのは同じ地元の人間だと聞いている。旦那の転勤か何かで移住したのだろうか。それくらいの想像しかできなかった。

 突然舞い込んだ君からの誘い。僕は迷った。迷うということは、君に会いたい気持ちが強いということだ。関東近郊であれば何とかなるにしても、東北とは厄介だ。だが、そう悩み始めたこと自体、僕の気持ちが東北へ傾きかけている証拠に他ならない。難しいなと首を傾げながらも、僕は岩手に行く手段をあれこれと模索していた。

「まあ。また遠くでお式があるのね」

 僕の話に妻は目を丸くした。思案した結果、得意先で不幸ができたと妻には告げたのだ。しかも会場は岩手県。妻が驚くのは当然だ。

「翌日は告別式があるし、折角だから東北にある他の取引先も何軒か回ってくるから、三、四日は帰れないかもしれない」

 僕はなるべく妻とは目を合わさずに、事務的な口調で簡単に日程だけを伝えた。


「気をつけて行ってらしてね」

「ああ」

「これ。お数珠」

「いけない。忘れていた。ありがとう」

 翌日、いつもと変わらぬ顔をして、僕は自宅を出た。

 東京駅に向かう途中で、会社にも休みの連絡を入れた。理由は妻へついた嘘と同じ葬儀への参列だ。ただ、会社には得意先ではなく、僕の個人的な付き合いとした。そして、取引先をついでに回る点は合わせた。これでアリバイの辻褄は、まあ何とかなるだろう。

 新幹線に飛び乗ると、彼女へ到着時間を報せた。彼女から連絡が来て以来、何度かメールでのやり取りはしていた。

【突然の連絡に驚いています。どうしたのですか?】

【どうしても会いたくなったのです。私の我がままを許して下さい】

【わかりました。なんとか都合をつけて、行きたいと思います。だけど、僕が行って大丈夫だろうか。君にもご主人がいるのでしょ? 平気?】

【会いに来て下さい。あなたに会いたい。ずっと待っています】

 君の返信は核心に触れたくないようだった。何かあったのだろうか。何か君にとって悪いことが。旦那と別れたのだろうか。

 旦那と別れた。そう思い至った僕の胸中に危ない囁きが聞こえた。

『彼女が独り身に戻っていたら、どうする。会うだけ会って、おめおめと引き下がってくるのか。彼女はお前の温もりを求めているのだぞ。お前を必要としているのだ。その想いを見捨てて、お前は立ち去れるのか?』

 君を置き去りに……。できるだろうか。自信がない。再会してしまったら、君を手放す自信が、僕にはない。


 でも……もう一度会いたい。


 新幹線から送ったメールの返信には住所が書き込まれてあった。そこに君がいるということだろう。その住所をインターネットで検索すると、観光地が表示された。幽幻峡。舟下りの名勝地らしい。どうしてここに? なぜか、言い知れぬ胸騒ぎを覚えた。

 一ノ関駅から大船渡線で揺られること三十分。なんとか昼過ぎに幽幻峡駅に着いた。駅からもう一度メールすると、舟下りに乗るようにと返ってきた。まるでスパイ映画の秘密指令のようだ。

 しかし、行き着いた山間で僕は迷子になった。なぜ迷子になってしまったのか。記憶が曖昧だ。舟に乗ったことは覚えている。他に数人の観光客がいたことも。若いカップルが川面に餌を撒くから鯉や鴨たちが舟の周りに集まってきた。ああ、可愛いなと思った。しかし、その後の記憶は断片的な残像でしかない。いや、それさえも確かにそうだったのか、わからない。舟を降りたら、君が迎えにきていた……のか? そこから君に手を引かれて歩いたようにも思うし、反面、僕はずっと一人で、君から届くメールを頼りにその指示通りに歩いていたようにも思う。だが、本当は、僕は僕の勝手に、気の赴くままに彷徨っていた、のかもしれない。こんな山間に君がいるわけがないと思い至って、急に不安になって、帰り道を探していたような気がする。なるほど。きっとそうだ。そうに違いない。なぜなら、僕はまだ君には会えていない。再会を果たしてはいないのだ……たぶん。

 少しずつ記憶が蘇ってきた。舟下りの折り返し地点で僕ら乗客は降ろされて、しばらく歩いたのだ。他の客たちが去り行く後ろ姿を見送りながら、僕は君からの連絡を待っていた。だが、その時の僕はもう、君がここにいないのではないかと疑い始めていた。案の定、携帯の表示は圏外になっていた。君からのメールなど届くはずがないのだ。あっと思った直後、僕を激しいめまいが襲った。立っていられなくて、その場にしゃがみ込んだ。そして、気づいたら、僕は一人山中にいたのだ。そうだ。そうだった。

 しかし、それからのことがわからない。なぜ僕はここにいるのだろう。誰かが僕をこんなところまで連れてきたのだろうか。どうして? 意識のない僕をなぜ?

 ふいに君の呼ぶ声が聞こえた。

 君が待っている。君を見つけなくては。君に会いに行かなければ。僕の頭の中は君に会いたい衝動で埋め尽くされた。

 しばらくまた山道を歩き続けていると、思いがけず人に会った。それも一人二人ではない、多くの人々がいた。この人の群れはなんだ。こんな山奥にどうしてこんなにも大勢の人々が集まっているんだ。何か大掛かりな集まりでもあるのだろうか。例えばお祭りのような。だが、それにしては、みな静まり返っている。ざわざわとした、これから夜を徹して騒ごうという浮かれた雰囲気がない。まるで葬儀へ向かう行列のようだ。田舎ではこんな習慣があるのかもしれない。確かにみな俯いている。見れば見るほど薄気味悪い。ただ、葬式にしては、みなが喪服ではないのは奇妙だ。よく目を凝らせば、派手な衣装の女性なんかも混じっている。それなのに、彼らからはどんよりと白濁した色合いしか感じられない。まだ日暮れ前にもかかわらず、大きな暗がりが行列の上からかぶさっているような、全体が薄靄で包まれて、まるで古いセピア色の映像を見ているみたいだ。

 しばらく茫然と行き過ぎる不気味な行列を眺めていた。すると突然、最後尾から手が伸び出て僕の腕を掴んだ。物凄い力で引き込まれた。抵抗しようとしても成す術もなく行列の後尾を引き摺られた。

 行列をおおう薄靄の中に取り込まれた所為か、妙な違和感に襲われた。まるで魂をごっそり抜き取られてしまいそうなほどに背筋が震えた。僕はたまらず、僕の腕を掴んでいた手を必死で振りほどこうともがいた。懸命に抵抗する中で、急にその手が離れた。反動で僕は地面に転がった。その時、小石のような粒が散らばった。立ち上がった僕の右手には、千切れた数珠が握られていた。

 あの行列はいったい何だったのだろうか。いつの間にかいなくなっていた。もう一度恐怖心がぶり返した。そしてふと、この数珠が救ってくれたのか、と手のひらに残った残骸を見つめた。数珠は妻が出がけに渡してくれたものだ。妻の微笑みを思い出した。しかし、それはすぐに君の面影に切り替わった。

 また一人になった僕は当てもなく山中を歩いた。君を早く見つけて、こんな不気味な場所からとにかく抜け出してしまいたい。まもなく深い谷を流れる川が見えた。蛇行する川べりをしばらく歩くと、川は右に大きく折れて、その先に木造の橋が架かっていた。橋には一人の女性が立っていた。その姿に気づいた僕は思わず息を飲んだ。あれは……。

 近づくにつれて、驚きは喜びへと変わった。その女性は君だった。白いワンピースに身を包み、長い黒髪を風にそよがせて微笑んでいる。僕は急ぐ足ももどかしく一心に君を目指した。抑えようとしても、自然と口元が緩んでしまう。

「や、やあ」

 情けないが、第一声はそんな言葉しか出なかった。山中を彷徨い迷子になりかけて、しかも恐ろしい目に遭いながら、やっとの思いで辿り着いたというのに。どうしても会いたかった君に、僕は何一つ気の利いた言葉を持っていなかった。

 しかし、そんな僕を優しい眼差しで君はずっと見つめてくれた。僕の記憶の中にある君よりは少し老けて見えた。でも、ほんの少しだけだ。美しさは却って増したようにも思える。

「元気だった?」

 小首を傾げて君が問いかけた。その仕草は昔のままだ。僕はコクリとうなずいた。すると、君の頬を涙が落ちた。僕は驚きで言葉を失った。君は泣き顔のまま僕の胸に抱きついた。その細い体を抱き締める。愛しさが溢れる。もう止められない。頬を寄せ合い、ほとばしる感情のままに口づけした。


 君に手を引かれるまま僕は山道を歩いた。不思議と不安はなかった。君がそばにいてくれるからだろう。このまま何処へでも行ける。そんな気持ちになっている。


 いきなり目の前が真っ暗になった。気づくと、部屋に横たわっていた。途中の記憶がまた飛んでいる。山道を歩きながら追いかけていた君の背中がいきなり暗い天井に切り替わってしまった。薄暗い部屋の中にいるようだ。僕は半身を起こして辺りを見回した。なぜか懐かしい匂いがした。遠い昔に感じていた匂いのような。君はどうしたのだろう。そう思った僕の視界にぼんやりとした光が生まれた。何もなかった空間に一個の球体が淡く輝きながら僕に近づいた。そして、それはやがて君となった。暗闇から現れた君の姿がきっとそう見えたのだろう。淡く輝いて見えたのは君の白い肌のせいだ。

 君の息遣いが僕の首筋をくすぐった。君の腰に手を回してゆっくり抱き寄せる。甘い香りが僕の神経を痺れさせていく。もう後戻りできない。なにもかも忘れて、このままずっと背徳の深淵へ落ちていく。


「お願いします!」

「ならん!」

 なんだか騒々しい。真っ暗な中で言い争う声がする。どうしたというのだ。何があった。僕は起き上がった。隣にいるはずの君がいなくなっていた。たちまち不安にかられる。争う中に君の声が聞こえたような気がした。僕は玄関へと急いだ。

「これは掟だ!」

 いきなり野太い声が響いて、僕はドアノブを回しかけた手を止めた。尋常な声ではなかった。この世のものではない。

「お願いします。もう少しだけ待って下さい」

 それは君の声に間違いなかった。僕は意を決してドアを押し開いた。そして、視界に飛び込んできた光景に一瞬で戦慄した。そこは人界ではなかった。真っ赤な空。荒涼とした岩ばかりの渓谷。あまりのことに動転した僕は足を踏み外して転げ落ちた。いや、本当は、足元にあるはずの地面がなかった。幸い川には落ちなかった。流れ下る水から逃れた僅かばかりの窪地があって、僕のからだはそこで止まったのだ。どうなっているのかと振り返ると異様なものが見えた。空中にドアだけが突き出ている。しかし、そんな奇怪な光景も些細な現象でしかなかった。え?と思いながら戻した視線の先に待っていたのは、とんでもないものだった。鬼。そいつらは確かに鬼と呼ばれるものに違いない。全身に血を塗りたくったように真っ赤なからだ。やたらでかい。人の倍はある。それが二人。いや、二匹か。四つの目が僕を睨みつけた。見てはならないものを見たな、という目で。

「お前は誰だ」

 鬼が聞いた。すると、僕を庇うように君が前に立ちはだかった。君の背中越しに見える鬼の顔がにやりと笑った。僕たち二人の関係に気づいた笑いに思えた。卑しい笑い顔だ。

「ほう。そういうことか」

 鬼は手を顎にやって笑い続けている。

「こいつはお前の亭主か」

 聞いた鬼に君はかぶりを振った。

「それでは想い人か」

 それにも君はかぶりを振る。

「では、なんだ」

「大切な人。私の生涯をかけた大切な人」

「なんだと? よくわからん」

 鬼たちはさかんに首を傾げた。一方の僕は言い知れぬ感動に包まれていた。

「とにかく、これ以上は待てん。何度も言うが、お前のためにならんのだぞ」

「わかっております。ですが、ようやくこの人に会えたのです。もう一日。もう一日だけ待って下さい。お願いします」

 君は深く鬼たちに頭を下げた。いったい何が起きているのか。僕は事の次第がわからずにいた。

 鬼たちはうーんと唸ったきり、しばらく押し黙った。そして、半ば諦めたような顔を見せて、「わかった。では一日だけ待ってやろう。明日の日暮れ前、ここに来る。お前を迎えにな」そう言い残して、姿を消した。

 鬼たちが消えても、君は背を向けたまま僕を振り返ろうとはしなかった。僕にはわかった。君はどう説明すべきか迷い、懸命に言葉を探しているのだと。

「ごめんね」

 ふいに君が言った。背中越しに。君は泣いていた。その背中が震えている。

 僕は説明を聞きたくなかった。現実を受け入れたくない。君の真実を知った瞬間、僕は君を失ってしまう。それが怖い。何よりも怖い。

「説明なんて要らない。聞かなくてもだいたいの想像はつくから」

 僕はやっと声を絞り出した。ところが、

「だめ」と言って、君は振り返った。「だめなの。しっかり私のことをあなたには覚えていて欲しいから。あなたの記憶の中で私はずっと生き続けていたい。だから、私の話をちゃんと聞いて」


 そのあと、僕たちは部屋に戻った。横たわる僕の胸に頬を寄せて、君は自身を待つ運命(さだめ)について語った。

「もう気づいていると思うけど、私はこの世のものではないの」

 想像できたはずだった。しかし、僕の感情が思考を止めてしまった。無防備となった僕の心に君の告白が鋭く突き刺さった。

「膵臓癌よ。実はあなたと暮らしていた頃から兆候はあったの」

 恐ろしい言葉が次から次へと僕を襲う。

「いつかは発症すると思った。だから、あなたとさよならしたの。幸せの絶頂でさよならしたくなかったから。本当は、怯えて生きる私を見せたくなかったのかもしれない」

「……」

 返す言葉が見つからない。優しく包み込むだけの強さが今の僕にはなかった。

「それでね。やっぱり死んじゃった。それが二カ月くらい前」

 淡々と話す君。今はもうこの世にいない君。まるで他人事のような口調。それが却って君の悲しみを僕の心に沁み込ませる。

「よく四十九日って言うでしょ。単なる迷信だと思ってた。でも、違うのよ。私、死んでからもうすぐ四十九日を迎えるの」

 君の意図がおぼろ気にわかった。君はもうすぐ昇天するのだ。先ほどの鬼たちはそれに関わっているのだろう。姿こそ恐ろし気だが、彼らは極楽からの使者なのかもしれない。あるいは、姿かたちが示す通り、逆らったり、逃亡を図ったりする者たちを捕らえて地獄へ突き落す刑の執行人か。

「四十九日は死んだ魂がこの世に留まっていられる限界点なんだって。それを越えてこの世に留まっていると、悪霊になってしまうらしいの。鬼たちは亡者になると言ったわ」

 悪霊。亡者。その言葉の意味を小説や映画でしか知らない。人として恐ろしく不気味な存在というくらいしか。しかし、死んだ者にとってはもっと深刻な運命が突きつけられるのかもしれない。

「鬼たちが言うのよ。亡者になれば永遠に彷徨うことになると。しかも、常に痛みを抱えて、誰かを恨み、誰かに怒っている。そのおぞましい感情を抑えられずに、自分の意思とは無関係に誰かを襲い不幸にする。いいえ。亡者には不幸にしているという認識さえないの。亡者の存在自体がこの世に不幸を蔓延させる。……私、そんな亡者になりたくない」

 君は顔を僕の眼前まで寄せた。

「私、もう亡者かもしれない。怖い?」

「……怖く、ない」

「強がらなくてもいいのよ。正直に言ってくれて」

「……」

「私は怖い。とても。でも、どうしてもあなたに会いたかった。会ってから、この世からいなくなりたかった」

「君は本当にいなくなってしまうの? こんなに君を感じることができるのに。君は本当にもう……」

「死んでいるのよ。あなたが私を感じられるのは、あなたの心に私が入り込んでいるから。私のからだはもうどこにもないの」

 僕の頬を涙が流れた。なんて悲しい宣告なんだ。

 君は僕の頬に口づけした。君の唇が濡れて見えた。僕の涙に君は口づけしたのだ。僕の悲しみを君は吸い取ってくれたんだね。僕は君の濡れた唇を僕の唇でそっと包んだ。やわらかい感触が唇に残る。これも脳が勝手に作り出した錯覚なのか。

「この世からいなくなる前にお祭りをするんですって」

 僕の胸に頬を寄せて君が呟いた。

「祭り……」

「この世の記憶をすべて消してしまう儀式。それがここ幽幻峡で行われるの。全国から死んだ魂が集まって来るのよ。そして、儀式を終えた魂はまっさらな傷一つない魂となって、また何処かに生まれ変わるの。だから、私はあなたのことも忘れてしまう。それを聞かされたとき、どうしても最後にあなたに会いたくなった。そして、あなたには私を覚えていてほしかった。ひょっとして生まれ変わった私をあなたは見つけてくれるんじゃないかと」

「見つける。必ず君を見つける」

 きつく君を抱き締める。

「ありがとう。その一言だけで、私には何ももう思い残すことはない。……本当はね。あなたが来なかったらどうしようかと思っていたの。よかった。来てくれて」

「いっそ僕も君と一緒に」

 僕の言葉を人差し指で遮って君はゆっくり首を振った。

「だめよ。そんな感情的に死を決めてはいけない」

「しかし、君を失った僕に何が残ると言うんだ」

「あなたには大切な家族があるじゃない」

「……」

「私、知ってるのよ。実は死んだ後、あなたに会いに行ったのよ。そこで見たの。あなたの奥さんと可愛らしい娘さんを。あなたには家族を守る責任があるわ。それを犠牲にするなんて考えないで。それは私にとっても悲しいことだから。でも、どうしてもあなたを諦めきれなかった。会いたかった。こんな処まで呼び出してしまって、ごめんね」

「いいんだ。僕も君に会いたかった。……噂で君が結婚したと聞いたけど……」

 その問いかけに君は首を振った。想像した通りの反応だった。なんて僕は愚かなんだ。君はずっと待っていたんだ。僕への一途な想いを抱えて。何て言えばいいんだ。どんな言葉で君を包んでやれる。どんな思いを君に送ることができるのだ。しかし、迷った末に僕の口から出た言葉はありふれたものだった。

「幸せだったのか?」

 顔を上げてじっと見つめ返す君。その眼差しが僕には痛かった。どんな言葉よりも僕の心をえぐる。なんて愚かな質問を僕は……。

「あなたと出会って、一緒に暮らした四年間は楽しかった。あなたと別れてからは寂しかったけど、最後にこうしてまた会えた。概ね私の人生は幸せであったと思います。人の生涯を計る物差しは時間の長さじゃないと思う。そこにどれだけ幸せな出来事が積み重なっているかだと思う。私の中に、あなたとのかけがえのない思い出がいっぱい詰まっています。よって、私はとても幸せでした。以上、報告おわり」

 君は敬礼の真似をして見せた。その瞳から涙がこぼれ落ちた。僕は君をもう一度抱き締めた。たまらなく愛しい。

「ごめん。本当にごめん」

「あなたが謝ることはないよ」

 君はそう言ってくれたが、僕は何度も「ごめん」を繰り返した。

 あの頃の僕は君の本当の気持ちを拾い上げることができなかった。そんな僕に君はいつまでも変わらぬ愛情を持ち続けてくれた。君のすべての思いに、僕はただ謝ることしかできなかった。


 朝が来た。この異世界でこれを朝と呼ぶのか知らないが、辺りは明るくなっていた。もしかしたらと思っていたが、やはり僕たちがいる部屋は、昔二人が暮らした部屋だった。君がそれを願って、僕の心の中に出現させているのだろう。そこで君はあの頃のように朝飯を作った。君の手料理だ。それが架空の世界とは思いながらも、口にする味噌汁や焼き魚はあの時の味がして旨かった。こんなつつましやかな生活を君は幸せと言った。それを僕もわかる気がした。懐かしく、愛しい。この時間が永遠に続いてくれと願わずにはいられない。しかし……。


 無情にもその時は来た。それまでもっと多くを、いろんなことを語り合うべきだったかもしれない。だが、言葉は必要なかった。心が寄り添えば、言葉なんていらない。言葉は心を伝える道具に過ぎない。そうなんだ。僕たちはただそばにいるだけで、他に何もいらなかったのだ。こんな単純で根本的な事実に気づくまで、なんて遠回りをしたのだろう。それとも、遠回りの中で身に着いた辛苦があって初めて、本当の幸せに気づくものなのだろうか。

 君はしっかり覚悟を決めていた。その姿は清々しいほどに。その気持ちが伝わったから、君を微笑んで見送ろうと僕は決めた。

 コンコン。ドアがノックされた。鬼が来たのだろう。いきなり乱暴に開けないところを思えば、彼らはやはり極楽からの使者なのだろう。僕の中で、鬼に対する恐怖心はすっかり消えていた。

 君の代わりに僕がドアを開けた。姿を見せたのが僕であることに初め驚いた鬼たちだったが、僕の背後にいる君を認めて安心したようにうなずいた。

「刻限だ」

 鬼たちは多くを語らなかった。今更君の覚悟を問いただしても、いたずらに迷いを生じさせると承知してのことだろう。

 鬼たちの背後には長い一本道ができていた。きっと天上へとつながる道なのだろう。その途中で君の記憶は消されてしまうのか。

 部屋から出るとき、君はもう一度、僕に口づけした。最後の口づけ。別れの口づけ。やわらかくて冷たい感触が残った。

「じゃあ、行ってきます」

 まるで何処かに出かけるような言い方だった。戻って来ることが前提のように。もう戻ることはないのに。片道だけの行きっ放しなのに。

「きっと君を見つける。僕はいつまでも忘れないから」

 つないだ僕の手を名残惜しそうに離して、君は微笑みながらうなずいた。僕は微笑んで見送ろうと誓ったのに、溢れる涙で君の姿さえ滲んで見えない。それでも追いすがろうとした。しかし、その僕の前に立ちはだかって鬼が通せん坊となった。僕は無理にでも鬼を押しのけて行こうとした。だが、はたと立ち止まった。鬼の目から涙が落ちていたのだ。

「ここは堪忍だ。お前を通すわけにはいかん。お前には果たす約束があるはずだ」

 憐れみに満ちた鬼の顔に僕はゆっくりとうなずいた。

「……わかりました。彼女には迷惑をかけない。どうか伝えて欲しい。君をいつまでも愛し続けている、と」

「わかった。しかと伝えよう」

 僕にうなずくと、鬼は君の元へ駆け寄り、何か耳打ちした。きっと僕の言葉を伝えたのだ。すると、鬼の横で、君が振り返って手を振った。大きく手を振った。その姿が徐々に遠ざかっていく。僕も手を振った。いつまでも、いつまでも振り続けた。


 我に返った僕は橋の上に立っていた。対岸では観光客たちの歓声があった。そこでは、何もなかったように継続した時間が流れている。あれは夢だったのか。いや、違う。君の残した唇の感触をしっかり僕は覚えている。そして、僕は天に向かい誓った。

 必ず見つける。生まれ変わった君を、必ず見つける。

(了)


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