第陸拾玖 降り積もる思いと紅い雪。
「雅相! 待ってってば!」
後方から幼さの残るやや低い男子の声が耳朶を打つ。薄い赤色の目を持つ朋の菅原行信の声だ。
しかし当の呼び止められている雅相は、イライラを微塵も隠すことなく行信の声を無視して歩を進めていく。
雅相の苛立つ理由は主に二つであった。
一つ目は、正午の鐘楼の音が鳴るまで安倍分家に当たる安倍為平をどう捕縛するかを調べていた。
のだが、その結果が思うように奮わなかったこと。
二つ目は唯一有力と言えそうなことを見つけたのだが、残酷なやり方しかなかったこと。
それも密教験者の残したとされる、秘書の中にあった“不動金縛術”という、神様さえも捕らえられる術しか今の雅相には選択肢がなくなったことだ。
故に今度は自邸へと戻って、祖父の留守の間に書倉を漁ろうとしていた。
それも、総代にしか許されていないような書物類などを。
だが時は幾何も猶予がないのが実情。
先見は、直近に起こることを予知するものだ。それが三日後ないし、明日かもしれない。
一番可能性を秘めているのは、精霊を送る日である本日。
盂蘭盆会の最後の日である本日は、逢魔時から夜更けにかけて精霊たちは黄泉へと去る。
その最中に、精霊たちは縦横無尽に飛び立ち、精霊棚に飾られた精霊馬に乗って黄泉から逃れようと彷徨いながら帰るのだ。
故に、結界の解かれた見ず知らずの邸に誤って侵入したり、見鬼の才のある者の力に引き寄せられて生者に被害を出してしまう。
陰陽師や力のある者にとっては、極めて厄介で*庚申の日さながらに結界を張って怯えながら去るのを一心に願う日でもあるのだ。
だから、先見の内容が行われるとすれば高確率で本日なのである。
それと憶測になるが、先見で見た為平が獣へと変じた理由として体に精霊が入り込んだせいではと踏んでいる。
(たぶんだけど、精霊が為平の体に入ったことによって為平の中にある白狐の力が目覚めた)
無論あくまで推測の域を出ないが。
後は先見の内容通りに、どこかの山奥で雅相と為平は遭遇することとなる。
ようやく探して出して、涙ぐましい感動の再会を果たすように。
されどその結末は……祖父の手により始末されるという残酷な未来だった。
先見の中で聞いた山海経にあった通りのように、霊狐の血肉などを悪用されないために。
肉体や魂魄はおろか、灰塵も残さずに現世から存在そのものを消されてしまう。
だから、それを阻止せねばならない。最悪祖父に、絶縁されようとも。
――――もしかしたら、これを好機と祖父は捉えて雅相を殺しにくるかもしれない。
その時は、きっと“しようがなかった”と情に諦めを付けて抵抗せずに死を選べる。
もう、祖父を喰むか喰まれるかで悩まなくて済む。実に喜ばしいことだ。
……なのに、もやもやとする薄気味の悪い感覚が、心の臓にとぐろを巻いて残っている。
「……今考えることじゃない。今は、この後どうするべきかを考えないと」
雅相は薄い縹色の空を見上げた。
日は既に下りへと差し掛かっており、黄昏まではまだ時はある。
今日は祖父の帰りも、養父の帰りも恐らく遅いだろう。調べる余裕はまだ多少ある。
ただし無いものもある。雅相の情の在り方だ。
果たして、先見の通りに獣に変じた為平を現実に間近に見て受け入れられるのか。
無論朋であるわけだから、拒絶はしたくない。
でも、いざ目の当たりにしたらどうなるのだろうか? それは雅相自身でさえも分からない。
また為平を傷つける行動を、取ってしまうかもしれない。それが一番怖かった。
実はその他にも、難関な箇所が幾つもある。
総代のみに許されているとされる書物類を見るには、書倉を守る式神を説得しなければ結界を解いてはもらえないのだ。
安倍家の秘書を、そう易々と見せるわけにも行かない。
今まではそう納得させてきていた。
しかし今朝の祖父の話を聞いた後ならば、大事な書倉を式神に守らせる理由も分かるというもの。
雅相は今、かの蘆屋道満と同じことをしようとしているのだ。
罪悪感と言ったら相当なもの。
而れども、そうは言っていられないのが現状。
仮にそれを掻い潜った(強引に説き伏せるか武力でもって)としても、そこから更に難所が待っている。
祖父の留守を預かる式三体だ。
現在はいつもの如く青龍、それと六合。
あとは祖父のことを何故か快く思っていなさそうな炎縳が結界の解けた安倍家を勿怪から守っている。
炎縳は何とかなるとして、もし六合や一番知られてはまずいだろう青龍に見つかってしまえば……。
死ぬとはいかないまでも、恐らく何日も寝込む羽目になるだろう。それか、捕縛されて今日を無駄にするかもしれない。
どうすれば、これらを解決できるかと苛立ちに険しい顔をする。暑さによってもたらされる、頬の汗を乱雑に拭いながら。
「雅相! 私を、無視しないで!!」
すると、横から聞き慣れた喚き声とともに突如誰かの手に掴まり、汗を拭っていた腕を横から捕られた。
この暑さに似つかわしくない、病的なまでの真っ白で、やけに冷えた手。
後ろでずっと雅相の後を追ってきていた行信のものであった。
雅相は鬱陶し気に隣にいる行信を睨むと、行信はやや怯んだようで掴んでいた雅相の手をそっと外す。
血の気の薄い、公家みたく白粉でも塗ったような白い顔。
そして、雅相は暑いと袖で汗を拭っているのに、行信は汗一つなく涼し気な面差しで雅相を頼りなげに見ていた。
――――忌々しい。
いつもは、その涼しい顔をしている行信が羨ましく感じていたが、今の雅相にとっては苛立ちを増幅させるだけのものだった。
それでもと、先程の勢いを失速させたにも関わらず行信は、おずおずと雅相へと詰め寄る。
「どうしたのさ雅相、なんでそんなに苛立ってるの?」
震える声で、戦慄く口調で雅相に問う。
その怯えた眼差しも、伺うような言葉も今の雅相には全て癪に障るというに。
雅相は舌を打つ寸前でなんとか思い留まり、奥歯を噛み締めるだけで憤懣を抑えた。
本当ならば、行信に今の状況を話して協力を仰ぐべきなのだろう。
(いや、だめだ。行信には話すべきじゃない)
雅相の上背よりもやや低い、頼りなげに上目遣いで見上げてくる目の前の朋。
確かに人手は欲しいところだが、行信は見た目からして病弱で身体が弱い。その上、相手は黒露より劣るとは言え、雅相より確実に上手な者だ。
覚醒も何もしていない、徒人同然の行信が為平に勝てるはずがないわけで。
足でまといとなる可能性の方が高いのだ。
それに、そこまで親しい間柄とは言えないまでも、ここ一月ばかりほぼともにしていた知人でもある。
非常に戦いづらい相手なことは間違いない。
それは雅相とて同じこと。
先見で為平の先のことを知っているとはいえ、今でも不安なのだ。
更に何も知らない行信が、獣の為平と対峙すれば――――。
戦いの場で、動揺を見せた方が敗ける。
黒露に、戦いに慣れているきらいのある相棒の黒猫にそう教わったのだから。
だから行信に協力を仰ぐべきではない。そう判断した。
そしてこれは、言い換えれば安倍家での騒動だ。
菅家である行信には関係の無い話であり、他所に痴態を晒すわけには行かない。
安倍家から化物を出したと知られるのは、不味いのだ。
今朝祖父が話してくれた騒動とて、雅相は知らなかった。
あんな大事がなにも記録に残っていないことを考えれば、何故祖父が隠していたのか――――それ以前の者たちが隠していたのかは一目瞭然。
だから、総合的に見て行信には頼れなかった。
頼りないくせに、ずっと雅相の言葉を待つ真摯な赤い眼差しが直視できずにふい、と顔を逸らす。
「行信には、関係ないだろ」
しかし行信は、そんな雅相の気持ちなど汲み取れなかったのか、一度引き結ぶと薄く口を開いた。
その口元は、酷く震えた笑みを貼り付けて。
「関係は、あるはずだよ。私は、雅相と何年も、ともにいるのだから」
そして腫れ物にでも触れるような弱々しい動きで、雅相の手を取ろうとする。
――――が、その手はばしりと、広大な西洞院大路で乾いた音を反響させて弾かれていた。
雅相が、その手を咄嗟に弾いたのだ。
再び相見える、酷く動揺した薄い赤色の瞳と怒りに満ちて瞳孔の開いた墨色の瞳。
ぶわりと、雅相の中で一気に拡がった不快感。
手は痛いわけでも赤くなっているわけでもない。のに、やけにじんじんと鈍く麻痺したような感覚が襲った。
――――咄嗟にでたものだった。
無意識で、無自覚で、ただ焦燥が頂点に達してしまったが故の行動。
はっと、やってしまったと我に返り、手を弾いた行信に意識を向けた。
しかし行信は、ただ何も言わずただそこに立ち尽くすのみだった。
薄い赤みのある目をまん丸にさせて、ただ雅相だけを見つめていた。
「ごめ、ゆき……」
早く謝らなければ。そう思い必死に言葉を紡ごうと声を絞る。
だが雅相の口から出るものは、途切れ途切れで言葉とも取れないものばかりで。
内心に広がる深い極まりない感情が、邪魔ばかりをしてきて行信に謝らせてはくれない。
そうしてしばらくの間しどろもどろにしていると、突然行信が雅相の謝罪を遮る形で「ははは」と乾いた笑い声を発した。
「そっか。雅相は、疲れていたんだね。そうか。そうだったんだね、あはは。そっか! 気付いてあげられなくて、済まない」
「……行信?」
先程まで驚きに目を見開いていた行信は、そのままの眼で高らかに笑い始めたのだ。
いつも以上に大きく開かれた目は、雅相を見ているようで何も見ておらず、ただ虚空を映しているようだった。
常軌を逸した声高に笑う行信の異様な姿に、先日の安倍家で話し合った時のことを思い出して怯みそうになる。
だからと、このままにしておくわけにも行かず。今度は言葉ではなく、行動で示そうと怖々と手を伸ばした。
が、伸ばした手は直前でぴたりと止まり、行信に触れることは無かった。
(僕、僕は。行信に、触れる資格が、ある、のか?)
朋に触れる直前で、山篭りの際に見た夢を思い出してしまったのだ。
『行信は都合の良い暇つぶし相手だ』
墨色の瞳に黒髪で、同じ上背に同じ声色という鏡に映る雅相をそのまま出したみたく、歪んだ笑みを浮かべた“何者か”の夢をみた。
そしてその者は、無意識に行信へ向けていた感情を突き付けてきたのだ。
否定しようと、思った。
でも、雅相の内心から出たのは――――行信を利用していたという知らぬ間に溜まった膿を、ただ抉り出されただけであった。
手を引いて、ぎゅっと胸の前で手を握り締める。
ズキズキと最近痛むことの多くなった、心の臓を悟らせぬように。
その一連の動作を行信が見ていたかは定かではないが、行信はさらに笑声を大きくして腹を抱え始める。
ついには行き交うものたちが、何事かと行信と雅相に注目し始める始末だ。
「おい、行信。もうやめろって」
流石にいた堪れなくなり、衆目からの視線から逃れたくなった雅相が制止をかける。
がしかし、行信の高らかなる声は止むこともなく、彼はそのまま大路をゆっくり歩き出した。
まるで泣き喚く子のように。
親を亡くして彷徨う孤児のように。
「僕は、雅相のことを、一番理解しているから! 雅相の考えていること、全部分かるから! あはは!」
広大な西洞院大路をゆらりゆらりと、雅相のことを言っているのに、その当人を置いて行信は歩いていく。
奇異の目に晒されているにもかかわらず、構うことなく空に現を抜かして虚しく叫ぶ。
流石に何かがおかしいと気付いて、雅相はその後を追いかけた。
「行信!」
このまま行信を一人にすれば――――二度と会えない、そんな気がしたから。
手をめいっぱい伸ばして、今度は躊躇うことなく触れようとした。
が、それは叶うことは無かった。
不意に全身が、大岩でものしかかってきたかの様に重くなったのだ。
突然の出来事に、為す術もなく地面に倒れ伏す。受け身もままならず、何が起きたのかも理解できずに。
(え、なに。から、だが)
指一つぴくりとも動かせないほどの見えない何かが、雅相の身体を地面へと圧していく。
声を上げて助けを呼ぼうとしても、喉さえ潰されている感覚で出ずじまい。
辛うじて目線だけを配れば、突然雅相が倒れたことで心配して近寄ってくる野次馬が見えた。
彼らが何を呼びかけているのかは、鼓膜を塞がれた感覚がして遠くで聞いている心地でうまく聞き取れない。
わけが、わからなかった。
己の身に何が起きたのか。
助けてと言いたい。誰か、誰か。……じっさま、助けて、と。
「――――相? お――――! 早く安倍――!」
その野次馬の中に、見知った顔の人物がいた。駆け寄ってきたのは、陰陽学生にともに属する雅相より一つ上の史充だ。
いつもは冗談ばかりを言ってくる史充が、今は土の色よりも濃い涅色の瞳を大きく開かせて何かを言っている。
仕舞いには、後ろにいる見知らぬ男に何やら指示を出していた。
“安倍”という単語が聞こえたから、恐らく安倍家に知らせに行ったのかもしれない。
そして史充が雅相の体を起き上がらせようとする。が、地面に縫い付けられたかのようにびくともせず、あえなく断念して手を離した。
「なん――――? 大丈――――? 今安――――誰かを――」
何故地面から離れないのか、と疑問に顔を顰めているのだろう。それは雅相も同じく思っている。
でも、こうして見知った人物がいるというだけで安心してしまうのが人というもの。
混乱する中でも、少しだけ冷静に戻れる存在だ。
手を伸ばして、史充に礼を言いたい気分だった。勿論叶わないのだけれども。
「何を心安らいでおるのだ。其方」
しかし安心するのも束の間で、何やら聞き覚えのある声に、雅相の緩みそうになった意識が一気に緊張の糸が張りつめた。
幼い女童のような声。
だのに、雅相を嘲笑う音を含んだ声。
動揺とともに揺れる視界のまま、雅相は女童の声がした方へと目だけを向けた。
ひたひた、ひたひた。
目に映るのは、野次馬たちの中で異質に一人佇む女童。
海のように青く澄んだ衣をまとった女童は、ゆるりと近づいてくる。
まるで床板を素足で歩くかのごとく、軽い音を立てて野次馬の体をすり抜けながら一歩ずつ迫ってくる。
誰の目にも止まることなく、誰にも触れられぬままに真っ直ぐと雅相を目ざして。
深藍の、長い髪を川の流れを彷彿とさせながらやってくる。
そうして雅相の眼前で、日の照る最中でも異様に浮かぶ女童が見下ろした。
全身を深緋の紅い色に身を包ませた状態で。
「(あ、なたは)」
黒露と同じ赤い眼が、口さえ動かない雅相を見遣る。
当の黒露自身は衆目があるためか、ただそれを傍観することしか出来ないようで。
雅相の傍らでじっとしていた。
女童が屈み込むその様さえも、だだ傍観したいた。
恐怖が雅相の全身を支配する。
日差しの暑さではない、冷えた汗が全身を覆い尽くしていく。心做しか、足先や指先までもが冷えた心地がして、顔からも血が引いていくのを覚えた。
忘れていたわけではない。ただ、雅相の中に巣食う存在から目を逸らしていた。
なぜなら、目の前で歪に笑うその女童は“神様”なのだから。
普通は体内に宿らせるなんて、*梓巫でなければ危ない存在。
そして、雅相にとって敵か味方なのかも不明な神様。
「(貴布禰の宮の、祭神。高龗神)」
震える声で、発したと思う言葉。
しかし高龗神はそれに構わず、雅相の墨色の眼へと手を伸ばした。
「ねむれやねむれ。深き夜の海に」
色のあった、形のあった全てが夜の帳の如き黒に塗りつぶされる。
暗い――――。何もない、闇。
感じるのは、じっとりとした汗が全身にまとわりつく感覚。ただそれだけ。
目元を覆っているはずの高龗神の手は、物体としての感覚がなかった。
怖い。ひたすらに。
何も無いことの恐怖が、何も聞こえない寂しさが雅相の情を蝕んでいく。
必死に助けを乞おうと、喉と手で意思表示をする。
だがそれすらも、きちんと示せているのか不安になる。
そして、徐々に薄まっていく意識。
雅相はわけも分からず、助けを乞えぬまま高龗神の手に伏せられて意識を手放したのだった。
庚申の日……道教にある三尸虫(上尸、中尸、下尸)が庚の申の日に夜、寝静まった人の体内から脱して罪過の一々を天帝に告げる日。
平安時代には、この日に限り天皇なども夜な夜な宴を開いて眠りを防ぎ、三尸虫が抜け出ることを恐れて朝まで起きていた。
梓巫……梓弓の弦を打ち鳴らして神霊・生き霊・死霊などを呼び寄せ、自分の身にのりうつらせて託宣をする女。イタコ。仏・神降ろし。




