第陸拾陸 脆夢。ーさいむー
頬を伝う汗。
鋭く切られていく短い息。
呼吸もままならない中、辺りは完全なる闇に溶けていた。
その最中をひたすらに走り抜けていく。
身にまとう狩衣が杉の木に引っかかっても、転びそうになって沓が脱げてしまったとしても。
そんなことよりも、もっと大事なことがあったから。
『――――待って!』
ずっとずっと、先にある大きな影に向かってあらん限りに手を伸ばす。
ずっとずっと、心配で探していたものだった。だから、必死に手を伸ばした。
地面に敷かれた乾いた落ち葉を音立たせながら、立ち並ぶ杉の木を縫っていく。
前方の陰を追いかけているうちに、気が付けば木々が避けたような開けた場所に出ていた。
さっきまで耳朶を打っていた己の足音が止めば、響く音は己の乱れた呼吸音と風に揺れる木々のさざめきのみで。
そっと大きな影へと近づいていく。
『ねえ、ずっと探してたんだよ。今までどこに行ってたのさ』
浅く呼吸を繰り返しながら、一回りも二回りも大きな体躯をそっと見上げてみる。
それなのに、向こうはこちらを見てくれず……。無言を貫かれるのがどれほど苦しいか。何日分も溜まっている話したいことや聞きたいことがあるのに、だ。
だからか、気が付けば焦れが先行してしまい思わず手を伸ばしていた。
……のに、大きな影はするりと伸ばしていた手をすり抜ける。いや、正確にはすり抜けたのではない。突然、巨躯を無造作に地面へと横倒れさせたのだ。
『え?』
何が起きたのか、理解できなかった。
何故倒れ伏した大きな影の周りから、血腥い匂いを放つ溜まりが広がって行っているのか。そして何故、大きな影を挟んだ向こう側に居るはずのない人が佇んでいるのかも。
だが、全てどうでもいいことだった。
今はただ、倒れたもののことしか頭にありはしなかったからだ。
震える体が頽れて、震える手足で這って近づいた。
そっと巨躯の顔に手を乗せれば、ふわふわした毛並みが触れた手を飲み込まんと沈みこむ。
すると誰かに触れられたことに気が付いたのか、巨躯の閉じていた瞼が薄く持ち上がる。瞼の奥からこちらを見つめる瞳は、月よりも何よりも淡く輝く黄金の色だった。
『やっと、捕まえた』
まるでこちらの言葉に答えたのではと、巨躯の持ち主が『グルル』と獣の如き嘶きを静かに鳴らす。
それがまた痛ましくて、心の臓を鋭利なものでズタズタに切り裂かれていくようで呼吸もままならず、胸が苦しくなっていく。
――――どうしてこうなってしまったのか、もっと他に方法はなかったのか、何を間違えたのかといくら思考を巡らせども、目の前の結果は一切変わらなくて。
口惜しくて何もできなくて、溢れる涙が獣のふわふわな被毛へと落ちていく。
『ごめん。僕が、関わったせいで。本当に、ごめ』
不意に、ほたりほたりと伝う頬に触れる長毛。そっと触れられた頬を見ると、月夜に照る温かな淡黄色の長尾が、優しく頬から涙を奪っていた。
止めどなく流れる涙を、心地よい被毛が何度も何度も拭ってくれる。
――――直感的に、慰められているのだと理解した。
途端に込み上げるのは、胸が詰まりそうになるほどの熱と嬉しさだった。それと同時に湧き上がるのは、やはり後悔と口惜しさで。
『はは。ほんと、そういうところは変わらないね。さりげなく慰めてくれるところ』
緩慢な動きで頬をくすぐってくる尻尾が、まるであの夜の日に触れてきた手のように思えて、それがまた胸を痛めつけてくる。
止まらない涙、大きくなっていく嗚咽。
咽び泣く姿なんて見せたくはないけれど、それでもそうせずにはいられなかった。
今後のこの獣の処遇を考えれば、きっと生かしてもらえるはずがないから。
『別れの言葉は、もう交わし終えたかい』
『じっさま……』
ずっと闇夜の中で控えていた人物が、のそりのそりと月の照らすこちら側へと近づいてくる。手には月の光を鋭く反射させる太刀が握られていた。
ほたり、ほたりと赤黒い雫を足跡代わりに引きながら。
血の匂いを漂わせながら、無感情で何もかもを吸い込みそうな空ろな黄金の眼がこちらを見下げる。
まるで塵芥でも見るような、侮蔑の籠った視線だった。
『あまり惜しむと、後々苦しくなるから程々にしておきなさい』
祖父のあまりの口差がない言葉に、食ってかかろうとした。が、それは飲み込む言葉とともにできなかった。
月に当てられた金糸の如き繊細な長髪に、全てを蔑むような黄金の眼に、圧倒されて全てを奪われたのだ。
いつもの知る人物ではない。これが、恐らく祖父の一族を率いる長としての本来の貫禄と荘厳さなのだ、と。
しかし、ゆらゆらと目の前で佇む祖父は待ってはくれないようで、唐突に手に持った太刀を高々と掲げる。
呆然とその様を見つめていれば――――太刀が月の光を切り裂いたのではないかという勢いで、素早く振り下ろされていた。
刹那に、生い茂る木々を揺るがすほどの迸る咆哮。
『っやめてくれ、じっさま! 痛い思いだけは、させないで!!』
咆哮を劈かせたのは、痛みに悶え苦しんで暴れる淡黄色の獣のものであった。
祖父の突き立てた太刀が、深く深く腹の奥へと刺さったが故に痛みで反抗しているのである。
しかし祖父はそれでは飽き足らないようで、突き立てた太刀をぐりぐりと回し、臓腑を抉っていく。
絶叫。痛いと泣き叫ぶが如く夜空を裂く悲鳴。
『やめて……お願い、だから。もう、四肢も切られて、逃げられないのに。それ以上の痛苦は、やめて、あげて』
『なにを甘言を弄する。よく見ておきなさい、霊狐の誅す方法を』
臓腑より火花の如く飛び散る赤黒い血潮。
むせ返るような錆ついた匂いに当てられて、胃の腑のものが一気に駆け上がり、口からは食べたものと胃液が無遠慮に吐き出されていく。
もはや、涙と吐瀉物で顔面は汚いし見ていられないほどである。
されども、余所見は許すまじと祖父が顎を浅く動かす。と、突如、嘔吐く最中で背後から何者かに羽交い絞めにされ、無理矢理顔を上げさせられた。
焦点の定まらない視界に映るのは、びくりびくりと引き付けを起こす巨躯と、臓物を掻き混ぜられた大きな腹の穴。
『霊狐というのは、中々にしふねき勿怪でね。こうして、まずは霊力の巡りを断たなければならないんだ。傷を癒す力が非常に速いからね』
太刀で穿られた獣の腹を、祖父はさらに抑揚のない声音で解説しながらこれでもかと抉っていく。
色褪せていく視界。
まるで全てのものが葬送の際に着る喪の色のようになっていく。
ただただ鮮明なのは、獣から吹き出る鮮やかな血の色だけ。
『霊力の道を断てば、あとは肉体を灰も残さず消さねばならない。そうでなければ、少量の灰でも霊薬だったり妙薬として悪用されかねないから』
そして、祖父の発した言葉と同時に太刀に灯る喪の色の焔。
太刀を覆うその焔は、ゆふるりと獣へと流れていき巨躯を優しく包み込んでいく。
生類を焼く際の、独特な焦げる匂いはない。
あるのは、虚ろに半開きになったままの濃い喪色の目見が光を遺失してただそこにあるだけ。
それを静かに巨躯の端から、存在そのものを無かったことにするみたく、喪色の焔が骨はおろか灰すらも残さず焼き尽くしていく。
『為平、』
ただそれを、眺めることしかできなかった。
祖父の狐火によって、この人世から消されていく朋の終局を――――。
***
「為平!!」
叫び声とともに、勢いよく上体を起こした。
しかし、視界に映るのは暗がりの中で薄く闇を纏っている見慣れた己の私室の調度ばかりで。
静まり返った室に響く浅い呼吸音と、耳を打つ己の心の臓が拍動する音。
先程まで見ていた探し人の姿は、どこにも存在しなかった。
あれは夢かと、雅相が気が付くのは直ぐであった。
「もしかして、先見の夢?」
未だに鳴り止まない心の臓を宥めすかしながら、先ほどの夢について振り返ってみる。
過去を見る力はその名の通り、他人の過去を見る力だが先ほど見ていたものは、明かに雅相が関わっていることなのに知らない出来事だ。
しかし為平は、安倍一族だが“人”なのだから決して化け物などではない。
まず雅相や祖父である安倍相良のような、覚醒者ではないからだ。
祖父の話では、今の安倍一族の血には白狐の血はだいぶ薄まっているという話だったはず。なので、覚醒者でもない限りは徒人と同じはずなのだ。
(だったら、さっきまで見ていた夢の説明がつかない)
未だにはっきりと浮かぶ淡黄色の被毛を持った巨躯の生類を振り返ってみた。
顔立ちは明らかに狐で、夢の中の祖父はあの生類を“霊狐”と呼んでいた。そしてその霊狐に向けて、雅相は【為平】とも呼んでいたのだ。
信じたくない。
絶対に、雅相よりも何倍も大きなあの巨躯の霊狐が為平だということを。
だが、二月前に都で暴れた黒露の時もこういった先見をしていた訳で……。
あの夢がこの先の現実だと信じざるを得ないのが現状。それに、為平のこれまでの身体能力が桁外れなのも垣間見ているわけで、絶対に違うとも否定できない。
何が起きるか分からないのだ。
ならば、以前のように事前に支度を整えておけば何とかなるのか。と、自問自答をするが、肝心の為平の行方が分からず仕舞いでは、対策のしようもない。
完全なる八方塞がりであった。
「どうすれば。でも、僕に何ができるってのさ……」
そうこうとうだうだしていると、遠くの方より開諸門鼓の合図である鼓の音が聞こえる。
恐らくもうしばらくすれば、世話役であるひさめの姿がひょっこりと遣戸の方から現れるだろう。
その前に、やっておかなければならないことがいくつかある。
己の属星に対する祈願、それと祖父よりもらった具注歴に昨日のことを記すことと占いだ。
兎にも角にも出仕の支度はせねばならないため、諦めて属星である文曲星の真言を七回唱えた。
そして、具注暦の巻を広げて確認すれば、昨日の出来事を憂鬱げに記す。
が、そこで筆がぴたりと止まった。
暗がりの私室でぼんやりと、締め切られた蔀の向こうの外へと思いを馳せる。
今日は盆の当日だ。
凶星が現れてから、祖父とは八日も顔を突き合わせていない上に、あれから内裏からの通達もない。
本来ならば凶星の後の行事などは執り行わないのが慣例なのに、だ。特に何も言われないということは、これまで通りに行うつもりなのだろう。
きっと陰陽寮の官司たちは、内心邸に引き籠らせてくれたらいいのに……なんて今頃考えているかもしれない。
何といっても、盆の当日は精霊が黄泉へと去る一番活発に動く危うい日でもあるからだ。
だからこそ、未だに為平がどこにいるのか分からないのが不安でならない。
昨日、朋の菅原行信が言っていたように雅相たちには安らぎなどないから。
「じっさまさえ帰ってきてくれれば……」
思いっきりにため息を吐き出して、書く気が失せたため巻を丸め直し厨子棚へと置く。
そこでようやく遣戸の向こうから「若様ー」と、暢気に雅相を呼ぶ世話役の幼い声が私室に反響した。
無論反応してやろうと声を出そうとしたのだが、そんなものはお構いなしとばかり不仕付けに遣戸を開いて、平然とした顔で入ってきたのだ。
雅相よりも上背の低い、大きな金の瞳が雅相の目とかち合った瞬間、驚きに目を見開く。
「珍しいですね。いつもは起こされないとご起床されないのに。どうされたんです?」
「べ、別に。自分で起きることくらい、僕にだってあるもん」
ひさめは「ふーん?」と怪訝な顔をしながらそのまま雅相の傍へと歩いてくると手に持っていた膳を置く。
そして、さっと本日着る衣を櫃より出し、手際よく糊で張った着づらい狩衣を着用する手伝いをしてくれた。
「相変わらず、手際良いね」
「当たり前ですよ。若様がこちらに来られる前は、御主人様のものをお手伝いしていましたから」
「はい終わり」と抑揚のない声でひさめが着付けを終えれば、脇に置いていた膳を雅相の座る前へと据えてくる。
「近頃あまりお召し上がりなさらないから、今日は香物と湯漬けです。胃の腑も温まるし、少しは気分も落ち着くはずですから、少量でもお召し上がりになってみてください」
「……うん」
無論、これから出仕のため食べないわけにはいかない。大内裏の大膳職より出される朝餉まで腹を持たせなければならないからだ。
しかし、ひさめは勿論この邸にいる全ての者たちのことがもはや信じられなくなっている上に、為平がまだ見つからない不安、他にも色々と悩むことが多くて食欲が湧くはずもなく。
なのに無常に、膳に乗る芹の塩漬けと湯のかけられた姫飯が静かに優しく湯気を立ち上らせていた。
ひさめが見ている手前、この暑い季節に胃の腑を落ち着かせられるからと水飯ではなくわざわざ手間のかかる湯漬けを出してくれたのだ。
箸をつけないわけにもいかず、添えられている香物に箸をつける――――前に、遣戸の前に人の気配を感じて、箸を止めた。
「雅相、」
それは、八日も顔を合わせていない人物のもので、久々に聞いた水面のように静かで低い声の持ち主、安倍相良のものだった。
何事だろうとひさめとともに首を傾げ合うが、流石に待たせるのはよくないとひさめが立ち上がって遣戸を開ける。
やはりそこに佇んでいたのは祖父で、やや頬が痩けて疲れた色の滲む表情で微笑んでいた。




