第陸拾参 互いの距離。
意識が浮上していく感覚に抗うことなく、雅相は薄くゆっくりと瞼を開けた。一番最初に雅相へと情報が来たのは、いつも見る格子状の天井で。
次いで伝わってきたのは、頬から流れてくる温かくて少し筋ばった感触。
雅相がゆったりした動作で温もりの伝う方向に顔を向けると、雅相の寝ている隣で座している人影があった。
辺りはどうやら、夜も更けてしまっているようで夜目術を解いてしまっている状態だと、裸眼で景色に馴染むには少し時間が掛かってしまう。故に今、雅相の頬を撫でる人影が誰なのか分からなかった。
「誰?」
人影に向けて雅相が掠れた声をかけるが、人影からの反応はなく……。人影はそっと、雅相の頬に触れていた手を目尻へと添わせてくる。
しかし、訝しんだ雅相が眉を思い切り跳ね上げれば、ようやく人影は手を引いていった。
「済まない。そろそろここを立とうと思って、雅相に一言告げに来たんだ」
「……なり、ひら?」
聞き馴染みのある声に、雅相が為平の名を呼ぶ。そうすれば、闇夜に溶けている人影が浅く首肯した。
どうやら怪しい人物ではなかったことに、雅相はかすかに安堵する。
(あれ? ここ、安倍宗家だよな)
しかし安堵も束の間で、ふと疑問が湧き上がってきた。
まず、ここの天井は雅相がいつも見ている自身の私室の天井であるため、宗家の邸に違いはないだろう。ならば、何故分家の為平がここにいるのかと言うことになる。
何が何だかと衾の中で首を傾げていれば、傍らにいる為平がふふ、と可笑しそうに声を零した。
「私が、ここに居るのが不思議でならないんだね」
「まぁ、うん。なんでここに為平が?」
ようやく視界が馴染んできたようで、傍らに控える為平の笑みが薄く映りこむ。
「話では、君の式神が気絶した私たちを宗家に運びこんだそうだよ。本人から直接そう窺った」
「黒露が、」
あの面倒くさがりで、野草のことか祖父にしか関心を示さない横暴な奴が、と目を瞬かせた。だが、よくよく考えてみてあの鬼はわりかし世話焼きな部分もあったのを思い出し、ふと笑みを作る。が、笑みはすっと消えて、雅相は息を細く吐いた。
「ごめん。為平」
「いきなりどうしたんだい?」
「……あの黒猫のこと」
雅相が突然謝ることに、首を傾げる為平だったが、いつも雅相の傍にいる黒猫のことを思い出したのか「あぁ」と思い至った表情をした。
「気にしてないよ。というか、良く考えれば君の式神だったら、日中でも活動ができると思い至れなかった私の落ち度さ」
「あの一瞬で、そう理解できる奴なんていないと思う。ちゃんと為平に伝えてなかった、僕のせいだ」
ギュッと衾の中にある手を握りしめた。
確かに、あの時は為平の力量を測るには打って付けな瞬間であったかもしれない。どんな修行を重ねれば、半月で膨大な霊力を手に入れたかもわかるだろうし。
きっと、黒露はそう考えたからあえてあの時名乗らなかった恐れがある。
しかし雅相は、二人に戦ってほしくはなかった。
無論、膨大な力を持つ者同士の戦いは見物だろうが……為平には怪我を負わせる訳にはいかないのだ。
黒露はあれで、傷を自然と再生させる力があるから問題ないだろうが、為平はそうではない。どんなに常人を逸した者でも、所詮は人なのだから傷を負えば早々に治ることはないのだ。
そうしたら、春葉に、彼の双子の姉にどう申し開きをすればいいやらか。
そんな好戦的なくせに面倒くさがり屋な黒猫は、現在雅相の私室にはおらず気配の位置からして釣殿辺りでまったりしているようだが。
「ははは。君って、意外と全ての物事を自分のせいにしちゃう性質?」
「いや、べつに、そんなこと」
からからと傍で笑う為平が良く分らなくて、雅相の言葉がまごついてしまう。
だが、何を思ったのか為平は雅相の解かれている髪にそっと手を這わせてきた。
「君の式神と戦うことを望んだのは私なんだ。君のせいじゃない。それに、あぁみえて結構楽しかったよ」
「たの、しかった?」
「そ、」
優しい手つきで、皮の厚い筋のある手が雅相の黒髪を梳いていく。
「あんなに強い者と戦えたのは、私の人世の中では初めてだったからとても心が躍ったよ。まあ、瞬殺されたけれど」
どうやら楽しかったと語る為平は、情の底からの本音のようで薄暗い中でニッと笑っていた。
「だから、雅相は何も悪くない。だからそんな顔をしないでくれ」
髪を撫でていた為平の手が、次第に下降していき雅相の眉間へと触れてくる。そこでようやく雅相は、己が眉間に力を入れていたことに気付き、慌てて顔を逸らした。
無論、見つめられるのが少し気恥ずかしかったのもあるけれども。
「な、為平はなんでそんなに僕に優しいんだ。まだ出会って日も浅いのに」
「朋に日が浅いも長いもないと思うが」
「そりゃ、そうかも……しれない、けど」
ずっとずっと気になっていたことだった。匂いがどうとか、その辺りは良く分らなかったが距離の取り方や接し方が常に近かった。
最初は近すぎると思ったし、危ない奴かとも思った。
もしかしたら、何か意図があるのでは、と。でも、その考えも次第に為平の純粋な優しさに当てられていって、絡まった糸が解けていくように強張っていた肩の力が抜けていった。わずかな時の中で、だ。
「僕は、じっさまの後継なのに、落ちこぼれだし。みんな占術もできないのかって嘲笑ってくる。そんな奴の傍に居たら、得業生の為平まで覚えが悪くなるだろ」
これは、菅原行信に対しても同じ気持ちだった。行信も、本来ならば雅相に合わせていなかったら今頃頭のいい行信は得業生になっている頃合いだったかもしれない。雅相よりも年下のあの少年はれっきとした菅家の人間なのだ、そのくらいの実力はあるだろう。
「それに、僕の近くに居たら、妬みとか嫉みの対象になりかねない。実際、行信が以前呪詛まがいの被害を受けたし」
当時の行信の床に臥せった中で辛そうにしていた顔が、雅相の脳裏に蘇ってしまい目をぎゅっと瞑る。
無論、今行信が生きていられるのは全て祖父のお陰で、行信に掛けられた未熟な呪詛を完膚なきまでに返したため事なきを得たのだが。
だからこそ、今でもなお雅相の傍に居る理由が分からない。怖い思いをしているのに。
(分からない。行信のことも、為平のことも)
こんなに近くにいるのに、雅相には二人の気持ちが理解できなかった。
こんなに話すし、行信に至っては七年の歳月を共にしているのに未だに理解できなかった。それに元を辿れば、祖父の後継が落ちこぼれでなければ、こんな事態にはならなかったはずなのだ。為平のような、聡く優しい者が後継であったならば、とそう思わずにはいられなかった。
すると、背けた方向からか細い吐息が耳朶を打った。
「雅相は、私のことも、行信のことも厭わしいのかい?」
「っなわけ、ないだろ!!」
背けていた顔を反射的に、為平の方へと振り向かせる。そこで、雅相は息を飲む。
「なら、それでいいんじゃないかな」
雅相が目にしたのは――――御簾越しで薄く差し込む月明かりの中、微かに照らされた為平の見たことの無い穏やかで優しい微笑みであった。
「私も行信も、君がいいから傍に居る。雅相も、私たちが厭わしく思わないのなら、変に考える必要はないだろう?」
「で、も」
「自分の身に起きたことは、自分で何とかするさ。駄目なら誰かに頼る。私ならそうするよ。だから、君が私たちの分まで背負う必要はない」
神々しいとさえ言える為平の様に、雅相はただ釘付けだった。いつの間にか、為平の片手が髪に添えられていることにさえ気付かなかったほどに。
そして、雅相の視界が影を差したことでようやく我に返った時には、額に何か熱を帯びたものがこつんとぶつかっていた。
眼前には、為平の伏せられた瞼と閉じられた眼を縁取る長い睫。
「な、りひら。なにを」
「雅相、」
為平の顔が余りにも近くて、彼の息遣いが僅かな距離で聞こえてくる。
驚きとともに、何が起きているのか混乱してしまい、雅相の脳内は真っ白になっていた。上手く呼吸できているのかも怪しいところだ。
「ただ君の隣で、笑いあっているだけでは物足りないのかい」
雅相の黒髪に添えられていた為平の手が、乱れた前髪を優しく流す。その柔らかい手つきが心地よくて、雅相は薄く目を細めた。
「私は、君という人を好ましく思うから好き勝手に傍にいるだけさ。君はただ、それを甘んじて受け入れてくれればいい」
「ひと、とし、て」
為平の言葉の一つ一つが、雅相の不安な気持ちをじわりじわりと溶かしていく。
生家で受けた傷のせいで、人を信じることが怖くて誰に対しても密かに壁を立てて信じることをやめた情に。
(為平は、僕を、人として見て、くれる?)
その言葉がどれほど嬉しいことか。
生家でもただの道具として間引かれて、宗家でも祖父を生かすための道具として買われたに違いない。
さらに言えば、白狐という化け物の力を覚醒させてしまって、物理的にも人からかけ離れた存在となってしまった雅相を、なのに為平は人として扱ってくれるのだ。
まるで、そこに居ていいのだと言われているも同然である。
「為平は、僕を、人として見てくれるの? こんな、僕を」
静かな声音で、決して大きくない声量で雅相が言葉を紡いだ。
その瞬間、為平の動きが止まる。
どうしたのか、と不安になって瞼を押し上げて為平の瞳を見つめれば、彼の錫色の瞳が眼前で大きく開かれていた。
「どういう、意味だい?」
震える声で、為平が雅相に問う。雅相は、思わず口を開きかけたが、怯んでしまって一度口を噤む。“人として見て欲しい”という意味を理解してもらうには、雅相のこれまでのことを洗いざらい話さなければ伝わらないということで。
言ってもいいのかを、躊躇ったのだ。
しかし為平は、雅相を人として好ましく感じていると直接言ってくれた存在で。唯一にして、初めて、雅相のことを認めてくれた大切な存在に違いはなかった。
唇をきゅっと一度引き結んだが――――雅相は意を決して口を開いた。
「……僕は、ここに来る前から人として見てもらえてなかった。実の兄にも、母にも父にも気味悪がられてた」
一拍置いて、言葉を区切る。誰かにこの話をするのは初めてだった。ずっと、怖くて口にさえ出来なかったから。
でも、為平ならばと信じてみようと――――。
衾に仕舞っていた両手をそっと出して、間近にある為平の頬を包み込んだ。ほんのりと、熱を持った人の温もりを放つその頬を。
「そして、生家から間引かれてここへ来た。でも、僕はここでも人として見てもらえてない。みんな優しいけど、見せかけに過ぎない」
やがて雅相の墨色の瞳から、大粒の雫が筋を描きながら落ちていく。止めどなく、とめどなく。
「そんな、生家やじっさまの調度品のような存在で、価値のない惨めな僕を、人として見てくれるの?」
しん、と虫の声さえ遠い雅相の私室の中で、ごとりと為平の背後から静けさに似つかわしくない、重たげな物が落ちる音がした。
しかし、そんな奇妙な音さえ気にならないほど、雅相はただ一心に目の前にある見開かれた錫色の眼差しを受け続ける。
長い長い沈黙。
為平は何も応えず、ただひたすら互いに視線を交わし合った。
その間の生きた心地のしない様が、とれほど恐ろしいことか。信じてみようと思った矢先に裏切られたら、きっと雅相は立ち直れなくなるだろう。
だから息を詰めて、為平の返事を待つ。
そうすれば、見る間に為平の瞳が薄く柔らかく細められていった。
「俺と同じだね。雅相」
そのまま為平は、雅相の手をすり抜けて顔を離した。為平の温かな熱が、鼓動が、息遣いまでもが遠くへ行ってしまう。
「俺も、人として見てもらった試しがないから」
「為平」
為平の熱が恋しくて、雅相は為平へと手を伸ばす。それを、彼は難なく隠していた手で受け止め指と指をピタリと合わせると、まるで鏡さながらに手をくっつけてきた。
じんわりと伝わる温もりに、思わず安堵の息が漏れていた。
「ねえ、雅相」
「なに?」
空いた手で雅相の落ちていく雫をすくい上げていく為平。それがまた心地よくて、祖父に以前された時とはまた違った温もりを雅相の心の臓へと浸透させてくれる。
「もっと、君の話が聞きたい。君の抱えるものとか、君の過去とか」
すとんと、重荷が降りていく感覚がした。以前からその言葉を、ずっと望んでいたような――――。
無論、為平に対しての答えは「うん」以外考えられなかった。
「為平も、為平自身のこと教えてよ。僕、為平のこと何も知らないからさ」
「そうだね。でも、俺の話をするなら春葉のことも付随するけど、いいかい?」
「うん。為平にとって、春葉が大切なの知ってるから」
そして、互いに自分の出自や過去を闇が明け仄に転じる手前まで語り合った。
もちろん、雅相は白狐のことを話したし黒露が鬼で、呪印で繋がっていることも話した。さすがに、過去見までは言えなかったけれども。
為平は母の出が貧乏な下級貴族で、作法や漢学などを童の頃に仕込まれ、分家に元服してすぐ引き取られたことを話してくれた。
過去見で見た、分家の当主に下された使命については語ってくれなかったものの、春葉を守るために官職を得ようとしていることや、過酷な(本人はそう思ってないが)苦行をしていることなども語ってくれた。
掴みどころのない人物かと思っていたが、為平は本当は――――影で頑張る人間なことを知るのだった。
***
「少し話しすぎたね。出仕には間に合いそう?」
「大丈夫さ。ここから分家まではそう遠くないからね」
そっか、と気恥しさを隠すように雅相は視線をさ迷わせる。
一方の為平も、照れくさいのか頬を掻いて苦笑していた。
「それじゃあ、また大内裏で」
「あぁ、そうだね。また」
そう言って、門前で雅相が手を振れば、為平も手を振り返した。なんだか夫の出仕を見送る妻になった気分で、少しむず痒い心地だ。
だが雅相は、ずっと溜め込んでいたものを吐き出せたことで、清々しい気分になっていた。
(なんだか、今日はすごく気持ちの良い朝明だ)
遠くへと消えていく為平の姿を目で追いながら、微かに微笑んだ。
――――それを最後に、まさか為平が忽然と行方を晦ますなど微塵も考えが及ぶはずもなく、ただ雅相は彼の背を見送るのだった。




