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陰と陽の狭間にて。(仮題)  作者: 熨斗月子
二目。憑き物と撫で物
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第伍拾肆:疑心。

 菅原行信(すがわらのゆきみち)視点




 月明かりだけが唯一の光源の中、淡い白光が薄暗い室で横たわる少年の顔を微かに照らす。


 室内で木霊するのは、短く息を吐き出すことを繰り返す苦しげに呻く声だけだ。


「うっ、う゛ぅ……」


 全身に大量の寝汗をかいて、体に掛けている着物の端をぎりぎりと握り締めていく。


 そうして顔を照らしていた月明かりが陰りを差し始めた頃に、このだだっぴろいだけの虚しい室の主である少年が薄く目を開けた。


 その瞳に浮かぶのは、薄暗い室の中でもよく映える薄く赤味のかかった瞳であった。


「今、のは」


 菅原家の別邸と化した、この菅原旧家の主である菅原行信が、のそろりと肩までかけていた着物から這い出ると天井を仰いだ。


 その拍子に、普段は烏帽子の内に仕舞われる長い黒髪がさらりと背をなぞるように流れる。


 今は家人や誰もいないことをいいことに、烏帽子を脱いでいるのだ。


 とは言っても、夜廻(よまわり)などの走り回ったりすることの多いときにも、着用をしないようにしているため、貴族一般のような羞恥など最早持ち合わせてはいないのだけれども。


 そんな少年は、ぼんやりと映り込む格子状の天井の升目を、ゆっくりと目でなぞっていった。


「最近、変な夢ばかり見てしまう」


 疲れたような小さな吐息が静かな室に零れる。

 思い返すのは、先程まで見ていた変な夢。


 行信は言い得ぬ不安と気持ち悪さを払拭するべく、起き上がると御簾の外へと出る。


 そしてひたひたと庇を歩いて、全て閉じられている空間の中で、唯一簀子(すのこ)へと出られる妻戸を押し開いた。


 開け放たれた瞬間、ふわりと少年の鼻腔をかすめるのは、少しじっとりとした風の中にも感じられる稲の香り。


 そろそろ稲穂の収穫の頃合いに差し掛かった時節と言うわけだ。


「少し前に大祓だとか、七瀬の祓などしたばかりなのに。もう秋の香りが漂い始めてる」


 思わず幼い口元に笑みが零れる。


 水無月のあの忙しさがまるで嘘のようで、あれは幻術か何かの類だったのではないかとさえ錯覚してしまうほどだ。


 ――――突然の都の騒動からちょうど二月ほどが経つ。


 それは朋である安倍雅相(あべのまさすけ)が、七七日と物忌という体で、大内裏や行信の前にさえも姿を見せなくなった頃でもあった。


「ひどいよね。私は雅相の代わりに、学生の仲間たちに事情など説明するので大変だったっていうのに、雅相は修行するために山にこもってたなんて」


 肩を揺らして笑う行信。


 たった二月の中で、これほど濃密な時を過ごしたのはきっと行信が生きてきた中では初めてだろう。


 大規模且つ迅速に処理されたあっけない都の騒動。


 騒動の当事者として数少ない陰陽師たちから取り調べを受けた日々。


 ついでに同生である学生たちや、好奇心旺盛なものたちへの繰り返し行った説明。


 しかし、どれも大変だったとはいえ、行信には一つだけ誇らしいことがあった。


「でも、雅相が。落ちこぼれって言われてた雅相が、鬼を倒すなんて」


 簀子に立てられている、手近な柱に寄り掛かる行信が、そっと宵色の雲に隠れ気味の月を見上げる。


 赤みがかった瞳に映るのは、白光を淡く放つ美しげな月ではなくて。


 行信は、皆が寝静まって誰も見上げていないだろう空に向けて「すごいな」とささやく。


「本当に、すごい。雅相は、すごい。誇らしいな。私の知己なのがすごく、とても、とって、も、ほ、こらし、い……な」


 無理に笑いながら発した言葉は、やがて尻すぼみとなっていき、ついには稲穂の風にさらわれていった。


 胸中に渦巻くのは、誇らしい気持ちに相対するようにふつふつと募る鬱屈とした感情。


「ずっと、一緒だと思ってたのに」


 それらをあえて言葉で表すのならば、“寂しさ”と“疎外感”だろう。


 年七つの頃らずっと共に育ってきたのだ。

 そんな片割れとも言える雅相が、突然時の人となってしまえば、こんな気持ちも持ってしまうはず。


(私が、雅相と並ぶには何をすればいいのかな)


 行信はふうと大きな瞳を閉じて考える。


 瞼の裏に浮かぶのは、大宰府にいる父と母の顔。そして、都の大内裏で働く同じ赤い瞳を持つ二人の兄の顔。



『行信、お前は菅原の人間なんだから大学寮に身を置くのが当然だろう? 御家再興は、大学寮での我々の地位なんだ』


『あの、逸脱者の先祖の真似をするな。お前も菅原道真公のように紀伝道を学び、儒職の世襲を目指すんだ』



 いつも押し付けてくる、兄二人からの菅原の栄光。


 行信の属する菅原家は、先祖の今までの多大なる功績や祖父や父の功績によって、行信を含む三人の子に自動的に叙位される蔭位(おんい)の制が適用されていた。


 無論、菅原倖人(すがわらのゆきひと)の起こした騒動のせいで、二度目の大宰府左遷は免れなかったが、それも安倍相良(あべのさがら)の昇殿が決定したのと同時、彼が前法皇(当時は今上)へ菅原の処分について取り計らってくれたお陰で、官位などは存続となったのだ。


 菅原倖人の晒し首と、菅原には知らされていない別の何かの条件を飲むことで。


 しかし、菅原家が本格的に復帰できたのはほんの数十年前の祖父の代からであった。


(それでも私は、大学寮で、腐りたくない)


 ぎゅっと拳を握る。


 今の*大学寮と言えば、上級貴族たちの子息の肥やしのような場所だ。


 現実は不正が横行して、実力で*寮試(りょうし)を受けたりはしない。


 受けるのはもっぱら、中・下級貴族ばかりだ。


 しかし、大学寮では菅原道真(すがわらのみちざね)の祖父菅原清公(すがわらのきよきみ)の時から現在も、連綿と大学寮で菅原が幅を利かせているのも事実。


 西曹(せいそう)東曹(とうそう)という、菅原清公が大内裏に建議した文章生(もんじょせい)専用の*大学直曹(だいがくちょくそう)(寄宿舎と講堂を兼ねた場所)の内西曹を菅原家が現在も管理している。


 故に、行信が菅原の恩恵を賜ってしまえば、蔭位の制で寮試など受けずに入学ができる。


 わざわざ陰陽寮で一から苦労してまで上り詰めていく必要はないのだ。


 それに大宰府にいた頃は、行信も兄たち同様に大学寮に入るために漢学などを学んでいた。

 大内裏で官吏に登用されるために。


『お前も、兄たちの様に大学寮を出て官吏になると思っていたのだがな』


 大宰府を出立する別れ際に言われた、父の言葉が行信の脳裏に久々によみがえった。


 皺が少し刻まれつつあった穏やかな目元に、淡い黒の煤色の瞳を寂しそうに細めて幼い行信を見ていった別れの言葉。


 ずっとずっと、情に小骨のように刺さっていて、忘れようとしても錆の様にこびり付いて、ふとした時に顔を出す呪いの言葉。


「やめて! 許して父様!!」


 耳の奥から響く声を遮りたくて、両耳を手でふさぐ。


 それでも最奥から響く声は鳴り止まなくて、行信はそのまま柱にもたれ掛かるようにして、ずるずると体を沈ませていった。


「許して、ください。こんな、親不孝者を」


 陰陽寮と大学寮でのその後の官吏への成業を考えれば、確実に大学寮の方がいいに決まっている。


 陰陽寮で官吏登用など実例がほぼないのだ。


 安倍晴明(あべのせいめい)の様に、または安倍相良のように殿上人に入って*地下家にも関わらず、帝に二度も叙せられて昇殿を許される陰陽師は稀だ。


 いや、今では陰陽師で昇殿が許されているのは安倍家のみと言っても過言ではない。


 共に陰陽家として台頭していた加茂家は、今では安倍家に陰陽頭の地位を取られて以降低迷期に入っている。


 すなわち、安倍の人間でもない限りは陰陽師として官位を賜ろうと所詮は*地下人として終える道しかない。華々しい道はないのだ。


(ゆくゆくは、雅相も陰陽頭様の跡を継いで、遠くの存在になる。なら、私は――――僕は?)


 耳をふさいでいた手を眼前に持ってくれば、寒くもないのに細くて幼い手が真っ白になっていて、怯えるように震えていた。


 本当なら、安倍宗家の後継者である雅相がいずれ陰陽頭になって、その補佐として陰陽助にいけたらと望んでいた。


 だが、恐らくこのままいけば陰陽助を世襲している、加茂家の加冠を終えていない童が着任することになるだろう。


「兄様たちが、出世する中で、僕は、地下人で、菅原の恥に、なる」


 陰陽師になると決めたあの日、陰陽寮の内情がこんなことになっているだなんて、当時七つの童であった少年が知る由もなかった。


 きっと、見送る父であれば知っていたからこそ、行信の決意を聞いてきたことが今更ながらに理解できる。


 陰陽頭も、陰陽助も、陰陽博士も暦博士も漏刻博士も、将来雅相の助けとなる有望な職には安倍と加茂が占めている。


 それに、このままでは父を説き伏せてまでここへ来た、叶えたい夢にまで遠く及ばないだろう。


「やめよう。こんな、こと考えるのは。明日雅相と、どんな顔で会えばいいのか、分からなく、なってしまう」


 頬を濡らす温かい雫が、ほたりほたりと行信の輪郭をなぞって落ちていく。


 それを不安と共に拭うように、指で雑に払った。


「あーあ! それ考えたら、安倍分家の為平殿はうらやましいなあ。安倍一族な上に、*品官(ほんかん)以上を既に叙されてるようなものだもの」


 無理に笑顔を作ったせいか、行信の吊り上がった頬に筋を作った雫の乾いた痕が不快でたまらない。


「いいなあ。雅相の側で働けるの」


 何度も鬱屈する情と相対的な明るい声色で繰り返される「いいなあ」という行信の声。


 しかし、思い出される今日菅原旧家に遊びに来た際に見た、安倍分家の安倍為平(あべのなりひら)の表情は全く面白くなさそうな顔であった。


 雅相が突然どこかへ行ってから、行信は為平からそれとなくいろんなことを聞いていた。


 その中でも特に印象的だったのは、年に一度行われる得業生から役人へと上れる*課試(かし)は来年受けるのか――――。


 そして、無論返ってきた答えは至極単純だった。


『受ける』


 の、たった一言。

 実につまらなそうな声音と、行信の先祖が遺した日記をはらはらと速読しながら言った言葉。


 そして日記を読み終わった彼は、ぱたりと閉じると行信の赤みを含んだ瞳へと視線を移した。


『私には、どうしても蹴落としたい輩がいる。そのために、早々に役人となってその者の官位に任ぜられて、その者から全てを剥奪したいと思ってる』


 為平の光を吸い込む暗い錫色(すずいろ)の瞳が真剣そのもので、行信の瞳を射抜いていたのは今でも覚えている。


『だから、来年の課試は、必ず受ける』


 力強い言葉と共に、行信の瞳の奥を貫通した先にいる誰かを見据える為平。

 率直に言って、恐怖でしかなかった。


 そのあとは、転がるようにその場から逃げて雅相を探した。


 誰を蹴落としたいのかとか、何故そんなこと考えるのとか聞きたいことは沢山あったけれども、それと同時に聞きたくないと思った。


 だから行信は、純朴で何も知らないだろう朋を探した。


 ――――雅相の傍が、一番穏やかで自然と居られる安心の場所だから。


 行信は、力強く己の肩を抱く。

 体はすっかり冷えてしまっていて、どうやら夜風に当たり過ぎてしまっていたようだ。


「戻ろう。明日は夜廻だし」


 そうして身を翻し、先ほど出てきた妻戸に向けて行信は歩を進めた。


「それにしても、為平殿は一体誰を蹴落としたいんだろう」


 ふと浮かんだ疑問を口にしてみたが、無論誰かが答えてくれるわけもなく。

 行信は一度足を止めて、再び月を見上げた。


 不気味にも見えるその白光をまとった月が、これから起こる不穏なものを孕んでいるようで。


 ふるりと身震いをした後、今度こそ寝殿へと戻るのだった。

 注釈


 大学寮……律令制下の式部省直轄の官僚育成機関。

 明経道、算道、紀伝道、音道、書道、明法道と各学科ごとに分かれており、それぞれに博士や学生がいる。


 寮試……大学寮で行った学生の試験。合格後は擬文章生に進級する。


 地下家……昇殿が許されない廷臣の家格。反対に公卿や昇殿を許された家(世襲)を堂上家と言う。


 因みに安倍家(のち土御門家)も室町時代に、堂上家の仲間入りをする(堂上家の中にも格があり、最下位の半家(公家)となる)


 地下人……官人の身分の一つ。また、後に官位を持たない庶民や名手にも使われるようになった。


 大学直曹……文章院とも呼ばれ、文章生の寄宿舎になっていた。

 東曹西曹二つの宿舎の建議自体は大学頭・文章博士、菅原清公が成したとされるが、その後菅原家が一時低迷したため、大江家が代わって中期頃まで文章博士を占める。

 それに際し、文章院への影響力を強めたため、中期以降は東曹を大江家が、西曹を菅原家の管理下に置くこととなった。


 品官……律令制下の四等官とは別系統にある専門職員。例えて言えば、陰陽寮の陰陽師や大学寮の博士等。


 課試……官吏の登用試験。課題を与えて試験をする。


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