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陰と陽の狭間にて。(仮題)  作者: 熨斗月子
二目。憑き物と撫で物
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第伍拾参:忘却の彼方。

 



 為平(なりひら)と合流してから、雅相(まさすけ)は菅原旧家で待っていた朋の行信(ゆきみち)とも合流を果たした。


 しかし、折角書倉で三人仲良く菅原旧家所蔵の様々な書物を読み漁ろうとしていた矢先、黒露(こくろ)が一人どこかに行こうとしていたのを見止めてしまい、雅相も二人に言い訳をして泣く泣く抜け出してしまう。


 そして雅相と黒露は現在、主屋(おもや)から離れて建てられていた、朽ち果てる寸前の建物に来ていた。


「ねえ、どこ行くの?」


 ギシギシと古びた廊を軋ませながら、黒猫を追いかける。


 しかし黒猫の足音は一切していない。軽いせいなのかもしれないが、不思議な感じだ。


「着いてこなくていい。お前は行信たちとともに、書倉で何か見てろ」


「いやだ! 黒露が言い出したんだろ。ここで何か確かめたいって。だったら、連れてきた僕はそれを知る権利がある!」


「面倒なやつだな。ほんと」


 黒露が呆れた風に息を吐くが、語気を強めて言うほど拒んでいるようではないので、雅相はそのままついていく。


 そうすれば、蔀戸が全て降りている中で黒露は腐食の進んでいる締め切られた妻戸の前で足を止めた。


「あれ、ここって確か菅原の傑物が生前使っていたっていう私室じゃ?」


 以前行信に邸の改修を終えた際に、ここの室にも案内されたことを思い出す。


 どんな意図で、主屋から渡殿さえ造られていないのかは分からないが、隔絶された異質な場所だったために記憶していた。


 だがそんなことよりも、何故黒露が迷うことなく真っ先にここにこれたかが疑問である。


「なんで黒露がここを知ってるの?」


 雅相が疑問を率直にぶつけるが、黒露の赤い双眸はただ真直ぐに締め切られた妻戸だけを見ていた。


 兎にも角にも埒が明かないと踏んで、仕方なく黒猫の代わりに両開きの妻戸を引く。


「うっ埃臭い……」

「そうだな」


 雅相が妻戸を開けた瞬間、しばらく開けられていなかったのか、中に溜まっていたのだろう埃が一気に巻き上がって外へと拡散される。


 ごほごほ咳き込む雅相に、黒露はくしゃみが止まらないようでしきりに「へっくし」とくしゃみをしていた。


「随分長いこと清められてなかったっぽいっぐし!」


「そうみたいだね。もしかして、案内してくれた時以来開けてないのかな」


 恐る恐ると内部へ足を踏み入れれば、室内はおよそ八畳ほどの広さで、数年前に行信とともに見た時よりも埃が溜まっているきらいが伺える。


「猫の姿だと埃に埋もれそうだな。しかたない」


 同様に室に入ってきた黒露が足を止めると、黒猫の体が淡く白光の神気をまとい小さな体を飲み込む。


 そして次第に小さな体を包み込んでいた白光が、徐々に大きくなっていき、終いには雅相の上背よりも頭二つ分近く高い、一本の白い角を備えた見目麗しい鬼が立っていた。


 と思いきや、サッと袖で埃が入らないように鼻を隠す黒露。相当辛かったと見える。


「ねえ、ずうっと聞きたいことがあったんだけど」

「なんだ」


 袖でほぼくぐもってしまった声で黒露が答える。


「なんで黒露はこっちに戻ってからまた黒猫の姿なの? そっちの姿でいてくれた方が」


 そこで雅相は、とっさにばっと勢いよく何かを何かを滑りそうな自分の口を塞いでいた。


(僕、今、なに、言おうとしてた?)


 ふと脳裏に浮かんだのは、胡散臭い笑みを浮かべた実兄の顔で。


 上背も同じくらいであったせいか、黒露と実兄の面影が重なってしまっていた。


 あんな実兄ではなくて、黒露のようなやつが本物の兄だったら、と。


 訝しむ黒露に、雅相は首を左右に振って「なんでもない」と否定した。


「黒露は、黒猫が好きだから猫に変化してるってこと?」


「まさか。と言いたいところだが、猫は特段好きと言うわけじゃないが、猫の身体能力が中々に優れているから選んだ、程度だな」


「なるほど」


 そも猫は上級貴族の飼う動物なので、遠目でしか見たことがないため、猫の能力的なことを言われても正直良く分らないのが本音である。


 なので雅相は、生返事に近い相槌ばかり打っていた。


 そんな突っ立つ雅相を黒露が通り過ぎて、室を見回しながら言葉をさらに重ねる。


「それに、変化するには神気で身を包むため多分に消費するから、小柄な小動物が一番いい」


「確かに。猫の姿の時は分かんなかったけど、今はぼんやり神気で包まれてるのが見える、かも」


 雅相が何げなく呟いた言葉に、微かに黒露の体が揺れて一瞬だけ背後にいる雅相を一瞥する。


 その流すような赤い眼差しに心の臓が嫌に跳ねてしまう。が、黒露の視線は一瞬だけで、直に逸らされた。


 そこからの少しの間の沈黙。

 雅相は声を掛けようとして、でも委縮してしまった喉からは声が出なくて。


 勇気を振り絞ってもう一度声を掛けようと口を開きかけたが、雅相よりも先に口火を切ったのは黒露だった。


「……これは」

「ど、どうしたの?」


 慌てて黒露の方へと近寄れば、黒露は屈みこんで何かを見ていた。


 背後からそっと顔を出してみてみれば、ぼろぼろで黄ばんだ壁になにやら物を長いこと立て掛けたせいで凹んでしまったのだろう経年痕であった。


「なんの痕だろ」


 問うた雅相に黒露が答えてくれるはずもなく。


 雅相の声がまるで耳に届いていないかのように、彼は目の前の埃の積もった痕へと指を這わせた。


「この、痕、何か」

「黒露?」


 珍しく歯切れの悪い黒露を不審に思い、黒露に呼び掛ける。


 しかし、やはり雅相の声は届いていない。それどころか、黒露の赤い切れ長の双眸が徐々に大きく開かれていった。


 何か言い得ぬ予感を感じ取って、雅相が黒露の肩に手を伸ばしかけた時――――。

 室の外から微かに雅相を呼ぶ声が耳朶を打つ。


「おーい雅相ーどこー?」


 その声の持ち主は、現在の菅原旧家の主人にして、声変わりもまだな聞き覚えのある幼い少年の声だった。


 声と共に次第に近づいてくる、古びた廊を軋ませながら近づく足音。


「雅相ってば! 霊力を辿ってみれば、こんなところにいた!」


「あっご、ごめん行信! この室が、その、気になって」


 妻戸からひょっこりと顔を出してきたのは、やはりと言うべきか行信であった。


 雅相はとっさに言い訳を考えようと試みるも、上手く思考がまとまらずにしどろもどろな返答で嘘に近いことまで言ってしまう羽目に。


「もう、戻りが遅いから心配したんだよ?」

「ごめんって」


 申し訳なさそうにする雅相に、眉を吊り上げていた行信が次第に雰囲気を緩めていく。

 どうやら本当に心配していたようだ。


「まあいいよ、無事ならなんでも。それより早く戻ろう? ここは危ういから」


「えっ何が危ういの?」


 きょとりと目を瞬かせる雅相に、行信が呆れた顔をしてぐるりと室を見回す。


「見ての通りさ。ここは離れだから、一切改修してないんだ。いつ崩れてもおかしくない」


 雅相も行信に倣ってぐるりと視線を巡らせる。


 確かに、先刻前までは古ぼけた場所だなあ程度に考えていたが、細部に目を向ければ、壁のいたる所に亀裂やら床が今にも抜け落ちそうな箇所などがあった。


 きっと当時は、この室の持ち主であろう菅原倖人の日記から伺うに、綺麗に整頓されていて且つ様々な書物などを保管していたのかもしれない。無論、現在は見る影もないのだが。


「そっか」


「前に案内した時も言ったよね? もしかして忘れてた?」


「そうかも。いや、うん。忘れてた」


 雅相が間抜けなほどへらりと笑えば、行信はついに片手で頭を押さえ出す。


 が、気を取り直す様に行信が勢いよく左右に頭を振ると、「戻るよ!」と語気を強め、雅相の腕を鷲掴んで室を出る。


 あまりの勢いに振りほどくことも忘れてしまい、雅相は一度黒露のいる方へと顔を向けた。

 そこで視界に映ったのは、こちらを振り向きもしない葵色の衣裳を着た背中だけだった。



 ***



 雅相と行信が去った後、黒露は微かに唇を弧に曲げる。


「なんの改修もしていない、か」


 ぽつりとつぶやいた言葉に含まれているのは、複雑な心境ばかりだ。


 その方がいいだろうという思いと、やはりそんなものかという遣る瀬無さと諦観した気持ちだった。


 だがそんなものは、()()には一切関係のない話でもある。


 首を左右に振って思考を切り替えれば、目の前の“何かの痕跡”をもう一度指でなぞる。


「何故、ここにあったものが思い出せない」


 黄ばんだ壁に違和感を残した傷のようなくぼみ。


 それは決して蒼生人が扱える代物でもないし、ましてや誰にも触れさせてはならないとあやふやな記憶の中で、唯一覚えている“もの”に対しての感覚。


 しかし必死に思い出そうと、脳内をかき回したところで……。


「っう、ぐ」


 結果は鋭い刃物で切られるような頭痛で思考は遮断されてしまう。


 それは、この現世で目を覚ましてから何度も繰り返してきたことだった。


 鋭痛に、黒露は深く息を吐いて思考を落ち着かせるように繰り返し深呼吸をした。


「まだ。まだ何か、足りないのか」


 瞳を閉じて、模索する。

 ここにあったものにたどり着くための手掛かりを探すために。


 そこでふと脳裏に過ったものがあった。


(行信の、腰に佩いた……太刀)


 飾り気の一切ない、実用向きなのだろう陰陽師が持つ禁刀(きんとう)(呪具)。


 溢れんばかりに怨気を放っていたあの太刀に、黒露は見覚えがあった。


 そっと己の手に視線を下げて、開閉を繰り返す。


「やはり、あれを先にどうにかすべきか」


 黒露の目には、あの太刀は確実に持ち主である少年には扱えないだろう代物として映っていた。


 あのまま太刀を持ち続ければ、近い未来に行信は情を蝕まれ、太刀の操り人形と成り果てて死ぬだろう。


 あれは九十九髪(つくもがみ)などという生易しい代物ではないのだ。


 太刀そのものが“生きている”のだ。


 さらにいえば、あの太刀は懐かしい気配を漂わせていた。


 尊敬するとともに、黒露をこの地に落とし、呪いを掛けて縛った張本人のものだ。

 そのせいで、()()()()()()()()()()()()()で思うように力が奮えないでいる。


「父様。貴方は、一体どこまで俺の周囲に息を吹きかけている?」


 指を交差させて、とんと額に押し当てる。

 眉間に皺を寄せて、とん、とん、と何度も打ち据えていく。


 蘇るのは、百年前に己が犯した過ち。

 数多の蒼生人を、黒露の災禍に巻き込んでしまった出来事。


 “清和(せいわ)の乱”。


 それを考えた瞬間、指同士に力を入れ過ぎて、指の骨がゴキリと嫌な音を響かせる。

 だが、黒露はまるで痛みを感じていないようなそぶりである。


「くそ、くそくそっ! もどかしい、乱の実態が思い出せないのが、もどかしい!!」


 さらに指を痛めつけるかのように、繋いだ指同士を指の股へと食い込ませていった。


 鳳仙花の様に赤い爪が、白い肌を抉り、ぷつりと鮮血を浮き立たせる。


 つっと落ちていった雫はまるで、黒露の欠けた記憶を表現しているようにほたり、ほたりと零れ落ちていく。


 黒露はそれにも構わず勢いよく手を放して、古ぼけた天井に向けて息を切るように吐き出した。


 だらりと垂れ下がる、いつの間にか傷はおろか折れた指さえ何事もなかったように、元通りの手で拳を作りながら。

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