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陰と陽の狭間にて。(仮題)  作者: 熨斗月子
二目。憑き物と撫で物
54/82

幕間:節折の祭祀。

 相良視点




 薄暗い室を、ゆらゆらと灯を燃やす火が微かに照らし出す。

 相良(さがら)は白一色の斎服に身を包み冠を着用した姿で、来る御方が参られるのを坐して待っていた。


 そんな相良の目の前にあるのは、研がれた小竹(こたけ)が置かれた漆の文台と供物類などの供えられた祭壇だ。

 他に、儀式を行うために室礼も整えられており、空間を仕切る几帳は取り払って広くなっている。


「帝の御成りにござります」


 外で控えている女房の声に相良が反応し、即座に身を翻して頭を垂れる。

 そうすれば、かさかさと御簾の上げられる音がして、人が入ってくる気配を感知した。


「久しいですね陰陽頭。息災でなによりです」


 幼さの残る中に含まれる品のある言葉に、相良の眉がひくりと上がる。

 しかし、相良は落ち着き払ったままで入室した人物が繧繝縁(うんげんべり)の畳に座されるのを静かに待った。


「有難きお言葉にございます。帝」


 そして、畳に衣が広がるのが見える。それも火の明かりに薄く照る黄櫨染(こうろぜん)の衣だ。

 それが意味するものは――――この国を統治する“日の御子”にして現人神(あらひとがみ)と崇敬されている今上、という事になる。


 今宵は、大祓の後に執り行われる今上のための斎行(さいこう)である節折(よおり)だ。

 別名御贖(みあが)の儀とも呼ばれている。


 それを行うために、今宵は現在内裏として使われている土御門烏丸殿(土御門内裏)より大内裏にわざわざ帝に足を運ばせたのだ。

 この意向は現法皇からのたっての頼みであったため、今上は参られたのである。


「して、今宵も去年同様に御贖の儀を行うのでしたね」


「左様にございます。ですが、今年は少々事情が違いまして、*御贖物(みあがもの)は明日行われる七瀬の祓の祓所七箇所でお流しさせていただきまする」


 床板に伏す相良に、今上の幼い口から微かなため息が漏れる。


「そう。それは、初耳でした」


「失礼いたしました」


 無論今上のため息の理由は、相良とて理解している。

 この雅相よりもやや年下の今上は、恐らく彼の後ろで院政を敷く、法皇に何も聞かされていないのだ。


 今上がいくらお飾りとはいえ、相良も影で皇族方を見てきたが故に複雑な心境であった。


「いいえ、其方に非は非ず。非は朕の未熟と不甲斐なさのせいです」


「決してそのようなことは」


 自虐的なまでの笑みを浮かべる今上に、相良が否定しようとする。

 しかし、それを手で制したのは今上自身であった。


「無駄話はもう結構です。お早く節折を済ませましょう」


「畏まりましてござります」


 今上の意に沿って、相良が文台に置かれていた小竹の入った器を手に持てば、しん、と静まり返る室でカラカラと音を出す。

 室の中には相良と今上と、今上に触れることを許されている世話役の女房一人だけだ。


 他には、年若い今上に皇后も御子もいない。


 そんな中で、相良が女房に小竹を差し出して今上の身に小竹を宛がって上背を計り始めた。

 九本の小竹を用いて、まず身長および両肩から足まで測り終えれば、女房が宛がった小竹を折っていく。


 さらに胸から左右の手先まで測れば小竹をぱきりと折り、左右の腰から足まで測れば折りと数度工程を繰り返していけば、今上の全ての長さを測り終えた頃には小竹も全て折られていた。


 それらが済めば、折られた小竹がようやく相良の元へと返却される。


「それではこれより、祓を奏させていただきまする」


 それを受け取った際に、相良が伏し目がちに今上を一瞥する。

 相良の視線の先にいたのは……薄暗い中で、淡く照らされた影のある幼い元服前の童の面差しであった。


 憂いの乗った夕日の色味のある瞳が、一心に床だけを見ている。


 しかし、相良は何も言及することなく今上に深々と一礼した後、身を翻して祭壇へと向き直った。


「高天原に神留坐(かむづまりましま)す 皇親神漏岐神漏美すめむつかむろぎかむろみの命を以て 八百万の神等を――――」


 そしてこの儀式に欠かせない、中臣祓(なかとみのはらえ)を読み上げていけば、室に木霊するのは遂に相良の声のみとなる。

 天照大神の皇孫のいる場だというのに、今にも闇に飲み込まれてしまいそうな雰囲気だ。


「これにて祓は終了と相成申し上げます」


 長い中臣祓を全て読み終えれば、相良が祭壇に一礼し、再び今上へと向き直って一礼に伏す。


「こちらの御贖物は、先ほども申し上げましたように七瀬の祓にてお流しいたしまする」


「えぇ。頼みましたよ」


 今上の微かな声音に乗った安堵の含む言葉に、相良は深々と再度頭を垂れた。


「必ずや」


 これにて水無月の神事にして、一年の内最も重要な大祓・節折が終わったのだった。

 相良も内心ようやく、この慌ただしい日々から少しは解放されるのかと思えば、微かな吐息が漏れそうになってしまう。


 無論その他にも、騒動で未だに聞き取りを行っていない二人の五大名家の倅らのことや、孫の雅相(まさすけ)と菅原行信(ゆきみち)たちとの話し合い、さらに次に来る秋季皇霊祭(しゅうきこうれいさい)やら神嘗祭(かんなめさい)、臨時で来る恐れのある神事や行事もあるので気は抜けないが。


 暫く考えに耽りながら今上のご退出を待っていたのだが、動いたのは女房だけで、今上は何故かその場に残ってしまっていた。


「陰陽頭、面を上げてください」


 女房が御簾より退出したのと同時に、今上が頭を垂れる相良に声をかける。

 今上に従い相良が彼に顔を上げれば、先ほどとは打って変わった柔らかな夕日の瞳で相良を見ていた。


「如何致しましたでしょうか、帝」


「其方に折り入って頼みがあるのです」


 そう言って、帝が立ち上がると相良の傍へと近づいて腰を下ろす。

 相良がそれを目で追いかけていれば、坐した帝がなんと相良の色白の肌の手を包み込んできたのだ。


 思わず、黒に塗りつぶされた相良の瞳が大きく見開かれる。


「実は、来る年の明け。朕は東三条殿にて元服することと相成りました」


「それは、誠お目出度きことに存じまする」


 相良にしてみれば、そのことに関しては既に左大臣藤原尹長(ふじわらのただなが)から伝え聞いていたため、特に驚くことでもない。


 入内に際して様々な祓を行うように依頼をされているためだ。


「それに際し、左大臣尹長の養女が入内することが決まっています」


 穏やかに微笑む今上に、相良は少々複雑な気持ちになりつつも、「左様にござりますか」と今上と同様に微笑む。


「そこで其方に、朕と尹長の姫に泰山府君祭(たいざんふくんさい)を行っていただきたいのです」


「帝御一人ではなく、左大臣の姫様と共に、でございますか」


「えぇ」


 驚きに相良の微笑みは一瞬にして引っ込んでしまい、目を瞬かせてしまう。

 泰山府君祭というのは都状(泰山府君都状)を作り一人に対して行う祈祷になる。その起源は先祖安倍晴明公からになり、安倍一族が最も得意とする祭儀の一つの秘儀に当たる。祭壇規模も大きく、主に延命長寿や病気平癒といった個人に対する祈祷だ。

 故に帝が泰山府君祭を行うこと自体に驚くことはないにしも、未だ見ぬ皇后に対して執り行うのは些か疑問である。


 帝のお考えに少々思うところはあれども、帝の頼みであれば頷かざるを得まい。


「畏まりましてございます。帝の、御心のままに」


 相良はそういうと、再三の一礼を行う。

 柔く握られた、今上の小さく骨ばった手を見つめながら。



 ***



 大内裏を出た相良は、既に日の明けを浴び始める都の広大な舗装路を歩く。

 本日は七瀬の祓が行われるということで、陰陽寮の者たちの大半は出払ってしまうため休みとなっていた。

 無論それは相良も含まれるのだが、恐らく個別に依頼される河臨祓(かりんのはらえ)で休む暇はないだろうけれども。


「本当に、(こころ)のお優しい方だ」


 そんな中、相良の脳裏に浮かぶのは先ほどまで共にいた幼く即位した今上の穏やかな微笑みであった。


 あの幼い今上もまた藤原尹長の養女と同じく、現法王である治天の君(本院)で実父に望まれて御子の産まれなかった上皇(新院)と皇后の養子に入った後、親王宣下後に立皇太子(りつこうたいし)を経て現在の帝となっている。


 故に互いに養子同士であることに親近感を覚えた今上が、あのような申し出をされるのも理解はできる。


 例えまだ見ぬ未来の皇后だとしても、だ。


「だが、今上は……」


 しかし、皇族の血を濃く受け継いだ者が持つ、夕日色の瞳をした童の手は……幼い童にしては細すぎるもので。


 それの意味することを、相良は雅相の未来と共に理解していた。


「私は、どうすればよいのだろうね」


 思わず吐息と共に呟くように独り言ちる。

 ふと顔を上げた朝焼けの空は、宵闇と朝焼けの入り混じった()しで儚ささえも孕んだ見事な景色であった。

 注釈

 御贖物……祓に用いる具。身の穢れや災厄を代わりに負わせて、川などに流す装身具や調度品。形代。

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