第肆拾玖:宮中祭祀(前編)
水無月の晦日(月末)に行われる神事が、ついに今日から始まる。
最初は、まず全ての民のために執り行われる大祓から始まり、その大祓が行われた日の夜に天皇・皇后(中宮含む)・東宮に対して節折が執り行われるのだ。
そして最後に、水無月の晦日に天赦日(大吉日)が重なった七瀬の祓で最後を締めくくる。
今年は異例ということで、大祓と節折は少し前に執り行われて、七瀬の祓を取り入れることにしたそうな。
どんだけ祓いたいんだという話である。
「じっさま、今頃どうしてるかな」
夏特有の底抜けに広がる晴れた空を眺めながら、雅相がぽつりと呟く。
雅相の祖父こと、安倍相良は高倉邸に赴いた翌日から安倍邸を出たきりである。
というのも、節折を行う前に穢れを落とすのと持ち込まない理由から、内裏で心身を清める*斎戒を行っているのだ。
無論その他にも、今上の穢れを人形に移す撫で物であったり、節折の準備もあるため三日間こもりきりなのである。
そんな、多忙な祖父の心配をしているというに、雅相にまとわりつく黒猫は興味なさそうにくあっと欠伸をしていた。
「知るかよそんなの」
「ほんと、黒露って薄情だね」
黒露のあまりな態度に対して、雅相が黒露に向けて険を帯びた眼差しを送る。
が、それに対抗するように黒露もまた、赤い双眸を眇めて雅相を見やってきた。
「まず節折というものがどういった祭祀で、且つどう行われているのか知らんのに答えようがあるかよ」
「ごもっとも」
完全なる黒露の正論に、為す術もなくうな垂れる雅相。
ふと、視線を下げた際に少年の目に映ったのは、今の自分の格好であった。
白一色の斎服に身を包み、纓の伸びた冠を頭に着用といった、重要な神事に義務付けられている礼装だ。
そして顔をもう一度上げれば、視界に入るのは人が何千人と入るほどの広大な舗装された道に、更に視線を巡らせれば巨大な朱塗りの朱雀門。
雅相は今、大内裏の入り口である朱雀門側の築地塀沿いに身を寄せていた。
「やば! 人が来るっ」
朱雀門前の中央に、今日この日のために設えられている、祭壇などからは外れた場所で黒露と話をしていたが、遠くから一人の少年が近寄ってくる。
その人物には、雅相自身見覚えがある人物で……共に陰陽学生に所属する一つ上の少年であった。
「おい雅相、何こんなところで油売ってんだよ」
「ごめん史充。さっきまで全国の*国司や*郡司たちから届いてた祓物を運んでたから、休んでたんだ」
まるで肩が凝ってますよと言わんばかりに、雅相が肩を揉む仕草をする。
それを見た、同じように見鬼の才を持つ史充が、茶味がかった黒の涅色の目を細めてからからと笑った。もちろん視線は黒露には一切向かれていない。
「へえ。都を脅かしていた鬼を、調伏した益荒男殿でも疲れるんだな」
「や、やめてくれよその言い方! 最近すごく言われるんだ」
笑う史充に嫌な顔をする雅相。
史充がいう、“益荒男”という名誉な言葉で揶揄されるのは有難いと思いつつも、雅相には縁遠いと思っていた単語な上に、史充が確実に敬意をこめて言っているのではないのは明らかなので素直に喜べないのだ。
「まあなんにしても、そろそろ大祓が始まるから早めに戻って来いよ」
そう言い残し、史充は雅相から離れて賑わう祭壇の方へと戻っていった。
少しして、ぼーっとしていた雅相に、肩に乗っている黒露が声をかけてくる。
「あんな弱い霊力持ちの奴なんざいたか? 陰陽寮に」
「いたよ!」
しかし黒露の言う通りで、史充は陰陽学生の中でも霊力が結構低い人物である。
性格は、落ちこぼれと言われる雅相に対しても分け隔てなく接してくれる善良な人物なので、別に気にするところではあるまい。
「ふん、陰陽寮とはあんな雑魚でも入れなきゃやっていけんほど人材不足なのだな」
「そんな言い方するな! 史充だって、霊力が低いこと気にしてるんだから」
「なら辞めればいいだろ? 徒人同然しかない霊力を気にするくらいなら、よその部署に行くのも手のはずだ」
本来ならばそうするべきなのだろう。
しかし、それを良しとしていないからこそ、史充は今も陰陽寮にいるのだ。
黒露の物言いに、棘はあるものの正論なため雅相は軽く頷くことしかできなかった。
「陰陽学生ってさ、他の学生と違って貴族であって見鬼の才さえあれば入れるところなんだ。その上の得業生は、その学生が課試で合格すると入れるところで、霊力とか関係ないんだよね」
「ほお。つまり下級貴族どもにとっては、見鬼の才があるのなら使わない手はない、と」
「まあ、そうだね。得業生さえ修了すれば、後は官職持ちになれるから」
それが史充に当てはまるかは謎だが。
しかし、他の寮は上級貴族の血を汲み取っていて、且つ学生の段階から科挙を実施しているところは多いのも事実で。
それならば門戸は狭くとも、特異な見鬼の才があるのなら貴い血のない下級貴族は使いたいものだ。
なんせ学生の身分でも、菜料・燈油料といった支給物はあるのだから。
昔は違ったらしいが、今はそういう制度なのである。
「そうか。なるほど。……随分、変わったな」
黒露の小さな呟きが上手く聞き取れず、雅相は首をひねる。
しかし、それを訊ね返す暇はなかったようで、昼つ方を告げる太鼓の音が九度大内裏内から鳴り響いた。
つまり正午とともに、大祓が行われる合図だ。
雅相は黒露と共に、裾を翻して史充たちの待つ祭壇の方へと向かった。
***
(今年も見物客が多いな)
雅相他、朋である行信や史充ら陰陽学生十人が立ち並ぶ中、後方では男皇族方や官人たちが控え、その更に後ろには貴族たちの見物客がその様子をうかがっていた。
無論表向き彼らは、罪穢れを間近で祓ってもらう名目なのだが、その実態は単に水無月に行われる大きな神事を見に来ているだけに過ぎない。
「集侍はれる親王諸王諸臣百官人等諸聞食せと宣る……」
陰陽頭に代わって、陰陽助である五大名家が一人の加茂保紀が立て掛けられている*大麻を前に奏上していく。
この祝詞は、中臣祓と言われており現姓藤原氏の祖が作成したものだ。
大祓詞・中臣祭文なんて呼ばれている。
(しかし、暇だなー)
祝詞奏上が始まれば、辺りはしんと静まり返って陰陽生はおろか、見物客でさえ誰も話さない始末だ。
ただ淡々と、保紀の荘厳な声がこの朱雀大路の中央広場に木霊する。
雅相は暇を持て余し過ぎて、視線だけを動かして今日の見物客をチラ見した。
ずらりと並ぶ様々な牛車。中には恐らくどこそこの姫君が乗っているのかもしれない。
他にも離れた場所からは、官人以外の男貴族たちがこぞって見に来ていたりする。
もしかすると子女たちの物色をしているのかもしれない。
そんな中で、身分の低い男貴族たちに混じって、笠を目深に被った赤い壺装束の女人が目についた。
流石に男の中で唯一の紅一点なため、だいぶ目立っている。
(なんだろ。なんか気になるな)
「――――高天原に神留坐す 皇親神漏岐神漏美命を以て八百万の……」
次に保紀の声音と言葉が変わり、前に立て掛けられている大麻をそっと触れる儀式が始まる。
雅相の耳に入ってくるのは、乾いた紙に触れる際の小気味よい音。
次第に心地よいかさかさ音に、微睡み始める視界で女人を見るのは不味いと考え視線を外す。
(いかんいかん。教えの中でならともかく、ここは流石に不味い)
しかし、派手な行動はできないので、自力で眼を開化させる他ない。
何か手立てはないかと、今度は保紀が儀式を行っている前方へと目線を移せば、補佐役として保紀の後方に控える二人の陰陽得業生が目に入る。
そして、その内の一人を目にした瞬間、雅相の船を漕ぎ始めていた脳内が一気に覚醒したのだ。
その人物は、五大名家の一人である三善斉経であった。
「斉経、此れへ」
保紀が奏上し終えて、祓物を受け取ろうと斉経が持つものを要求する。
しかし、当の斉経は顔を俯けさせてどこか上の空状態だ。
何か様子がおかしいのは一目瞭然であった。
「斉経?」
「っあ! し、失礼いたしました。どうぞ、お納めくださいませ」
再度の保紀の呼びかけでようやく我に返り、斉経は慌てて手に持つ祓物を保紀に渡した。
その斉経の動きに、雅相は不思議に思って首を傾げていた。
「なぁ行信。斉経、なんか様子可笑しくないか?」
流石に、普通の話し声では目立つため声をかなり潜めて、隣に立つ同じように白一色の斎服に身を包んだ行信に声をかける。
そうすれば、行信もちらと雅相を一瞥して浅く頷いた。
「実は、雅相が潔斎で籠ったころからあんな感じで上の空なんだ。まるで魂魄でも抜かれたみたいに」
「……なんだって?」
目を剥いて、再び斉経へと雅相は視線を向ける。
すると、斉経は先ほどと同様に顔を俯けさせて地面をじっと見ていた。
「なんだ彼奴。いつも凶暴なくせに、変なの」
ぽつりと呟いた雅相の声に、行信の反対に並列する史充に「静かにしろ」とついに叱咤されるのだった。
注釈
斎戒……飲食や行動を慎んで、心身を清めること。本来は一週間ほどが望ましいが、都合上相良は三日に短縮された。
国司・郡司……律令制下での地方官。国司が上官(都から派遣された貴族)で政務などを執り行い、その管轄下で郡司が郡務を司っていた。
おもに国司には守・介・掾・目の四等官があり、国衙(国庁)に勤める。
大麻……神道の祭祀において、修祓に使う道具の一つ。木綿や麻、後世には布帛や紙が用いられる。




