第肆拾弐:修行編十五 違え。
二つ視点あり。
荒れ狂う龍神様のお傍には、小さな村が幾つも寄り添うようにある。
その一つに過ぎない小さな村には、それはそれは情の優しい少年がいた。
父からも母からも、村の全ての者からも慕われた少年。
彼はいつも村の誰かの手伝いをする。
例えば腰の悪い老人がいれば、その者が生業とする田を手助けしてあげたり。
或いは忙しい女親たちから子を預かって、あやしてあげたり。
龍神様が暴れれば、川の近辺を村の男衆とともに土を盛り上げさせたり。
少年はいつも、墨色の瞳をにこにこさせて皆を勇気づけさせた。
それが父も母も誇らしかった。
自慢の倅であった。
しかし、ある日の事。
いつものように初夏に訪れる、龍神様の大暴れに男衆も少年もまたいつものように土を盛り上げさせていた時だった。
その日体調が悪かったのか、一人の初老の男が盛り土をしている最中にふらふらしだし、川に投げ出された。
村の皆は、あれでは助かるまいとあきらめかけていた。
だが情の優しい少年はあきらめなかった。
少年は初老の男を助けるため、一人川へと飛び込んでしまう。
村の皆は少年に戻れと何度も叫ぶが……少年は溺れかけている初老の男に夢中であった。
少年の勇気ある行動に村の者たちは感銘を受けるが、龍神様は非情であった。
流された初老の男と少年は、そのまま川の奥底へと食われるように飲まれていった。
それを聞きつけた少年の父と母は村の皆で必死に二人を探した。
たくさんたくさん探した。
そうして一番に母がようやく見つけた少年の姿は――――水を多分に含んで皮膚が膨張して水膨れのような形相をした、醜い姿に変わり果てた遺骸だった。
***
「大丈夫かい?随分うなされていたようだけど」
ハッと勢いよく瞼を開いた先には、眉を下げて心配そうに墨色の瞳でのぞき込んでくる、目元に少し皺の寄った女性の姿であった。
「ま、とい」
雅相が確認するように女性の名を呼んでみれば、目の前の女性はホッとしたようにそうだよと相槌を打つ。
先程夢で見ていた女性にそっくりな、がっしりとした体つきの真屓だ。
(あぁ、そうか。昨日真屓に触れられたから、真屓の過去を見たんだきっと)
さきほど夢に見ていたものが、真屓の過去だとすれば合点も行く。
きっときっかけは、昨日頭を撫でられたあの時だろう。
久しぶりの過去見に、頭が少し混乱してしまったが冷静に考えられる今ならば、過去見の件も分析できるというもの。
「聞いたよアンタ。昨夜一人で修業してたんだって?」
「へ?」
真屓からの衝撃的な言葉に、雅相の目がぱちぱちと瞬かれる。
確か昨夜と言えば、軽足と戦っていたはずなのだが……何故そんなことになっているのだろうか?
「アンタのお師匠様の、陰陽師様から聞いたんだよ。日が昇っても目が覚めないから、どうしたのかと聞いたら……昨夜雨の中で一人修業のし過ぎた疲労だろうって」
「あーなるほど。そういうことにしてるのか」
雅相が遠い目をするが、全く事情が掴めていない真屓は何のことかわからずに首をかしげるばかり。
昨夜の出来事は、恐らく寝ていた村民全てが何も知らないことだろう。
それも当然である。都での夜廻でもそうだが、基本的に周囲への被害を防ぐため、家屋のいたるところに護符を張るようにしている。
無論遮音性も高いので、護符の中にいる者たちは何も知ることなく健やかに寝ていられるのだ。
外が大惨事になっていようとも、護符の作成者の霊力が強ければ強いほど強固に守られるので、都の護符などは陰陽寮総出で作成していたりする。
今回は一村に過ぎないこの村に、護符が張られているとは思えなかっため、鬼である黒露が何かしらの結界を張って村全体を守ったのだろうと推測できる。
雅相はいきなり蔵を飛び出してしまって、何の準備もしていなかったのだから。
しかしそこで、雅相ははたと気付く。……日が昇っても?
「今って陽はどのくらい高いの?」
「もう一番高い頃なんじゃないのかねえ」
物凄い勢いで、雅相が飛び起きたのは言うまでもない。
黒露との修業の刻限を綺麗に破ってしまったのだ。何を言われることやらか。
「まあ待ちな。そんなぼさぼさな髪で外に行くきかい?」
慌てて外へ出て行こうとする雅相の袖を引いたのは真屓で。
すちゃっと彼女が取り出した木櫛が何故か煌いていた。
それを見て何事かと目を丸くする雅相。
そんな雅相を真屓は有無を言わさぬ勢いで強引に再び座らせると、元結で縛っていた少年の髪をなんなく解いてしまう。
「だめだよ。いくら男でも身嗜みが整っていない奴は、女に嫌われちまうよ?」
「別に。慕う人なんていないし、いつもは綺麗にしてるもん」
ふてくされたようにそっぽを向く雅相に、真屓はからからと笑いながら少年の黒髪を梳いていく。
「こうして誰かの髪を梳くのは何年振りかねぇ」
「誰の髪をよく梳いていたの?」
しかし真屓からの返事は返ってこず。ちらりと少しだけ振り返ってみれば、彼女は穏やかな笑みをして雅相を見ていた。
その視線だけで、流石の雅相だって真屓が何を言いたいのか少しは察せられる。
きっと先程夢で見た真屓の子に対してなのだろうと。
「さあ、できたよ。そういえばあんた、冠は?」
ささっと髪を梳いて、元結で雅相の髪を髻に縛ってくれるところ有難いのだが、生憎雅相は邸にいるときのような様相で、烏帽子も何もつけずに修行していたのでそんなものある訳がなかった。
よって言わば裸一貫である。
まさか人目にさらされる場所に近付くなんて、修業の場に連れてこられたとき微塵も思うわけがない。
雅相が苦笑いを浮かべてしまうのも致し方ないだろう。
「な、なくした」
少年の明後日の方向を向きながら放たれた言葉に、真屓は盛大なため息と共にたぶさ髪にまとめて冠のいらない髪型に直してくれるのだった。
実にお恥ずかしい限りである。
***
その後、陰陽師様は蔵にいるからとっとと行けと、真屓からたたき出される勢いで家屋を出た雅相。
外は昨日よりか幾分マシで、視界もそこまで悪くはないし小雨に変わっていた。
それでも初夏のはずなのに、少し肌寒く感じてはしまうのだけれども。
しかし雅相の情は、それよりも重たげな影が差していた。
(もしかしなくても、自分の子と僕を重ねてたのかな)
先程話していた真屓のことを雅相は考えていた。
彼女の話では、川に流された当時は雅相と同じ年頃で、夢で見た少年は墨色の瞳だったので目の色も一緒、後は危なっかしいとか雅相に対して言っていた気がする。
夢で見た少年もまた、情は優しい感じではあるものの裏を返せば危なっかしい人だったのは間違いないだろう。
ならば行きつく答えは……雅相と自分の子を投影してしまった、と言えるのかもしれない。
あくまで推測の域ではあるが。
「だから、あんなによくしてくれるのかな」
村長の大吉もそうだが、真屓とていきなり押し掛けてきた怪しい二人組を快く迎え入れてくれたのだ。
その他にも、病を見るために黒露と村を見回った時、村人たちは文句ひとつ言わずに受け入れてくれた。
これは邪推のし過ぎと切り捨てるには少し戸惑われる類かと思える。
考え事をしながら歩いていれば、村人から声を掛けられてふと横を見てみた。
「お弟子様ァ!あんたんとこのお師匠様のお陰でおらたち全快だわやー!」
「うんだー、この村さ来て下すってぇありがとなー!」
二人の直垂に袴を穿かない格好をした、みすぼらしい男たちが遠くの川縁で盛り土をしていた。
誰だろうと思いはしたが、口振りからして病を患っていた村人だったのかもしれない。
手を振る二人組に、雅相もがんばってと声をかけて手を振り返す。
「……ん?」
しかしそこで、雅相の頭に疑問が生じる。
だっておかしいではないか、昨日までは熱病や咳がひっくり返っていた村人が、たった一日で全快するなんて。
人間てそんな高速回復なんてできただろうか?
それとも彼らは軽度のもので、少し休めば治る程度の大したものではなかった?
疑問が疑問を呼んで、雅相は首をかしげるばかり。
ならばこの疑問を手っ取り早く解決する方法は一つしかない。
「取り敢えず黒露の所に急ごう」
村の端に置かれている、高床式の蔵へと足早に歩を進める。
真屓の心情については……雅相がいくら考えても詮無いことだし、村人たちの歓迎の雰囲気もきっと余所者を毛嫌いする人が少ないんだろうと結論付けて。
「遅い」
そうして蔵にやってきた雅相に浴びせられた第一声は、部屋の主化した黒露からの辛辣な一言だった。
そんな彼に謝罪しながら中へと入れば、中は野草で煎じられた湯液まみれであった。もはや足の踏み場を探すので一苦労だ。
「ねえ黒露、村人が」
「あぁそのことか。何、ちょいと湯液に細工しただけだ」
まだ言いかけの途中で言葉を重ねられてうっとなる雅相だが、流石黒露だ。即雅相が聞きたいことを察したようである。
まさか自身の情がまた漏れたのではないかと少し恐怖してしまうが。
それよりもと、湯液に何を細工したのかと雅相は首をかしげる。
「湯液に俺の神気を微量混ぜただけだ」
「神気を?」
黒露がこくりと頷いた。
「神気というのは、この世の理から外れていると教えたな」
「うん」
「ならばその応用で、煎じ薬に治癒の力を創造して入れただけだ」
「便利過ぎない?大丈夫?」
一種不安にもなるほどに神気というのがこれほど便利だとは、流石に思いもしなかった。
だが黒露は、指を立ててしかしと言葉を続ける。
「無論利点もあれば、欠点もある」
「欠点?」
「こういうのは、神を尊ぶ信仰心がなければ成り立たん。自分に使う分には大して欠点はないが、他人に使う場合は同調が不可欠だ」
全く理解できずに首をひねってしまう。
この国が仏教や神道、密教などを信仰しているのは言うまでもないが、同調とはこれ如何に。
「つまり、蒼生人の体に干渉するには彼らの願いや思いが必要ということだ。今回を例えるなら、彼らは“洪水を鎮めてほしい”と“病を治してほしい”の二つがあった」
「ほう、ほう?」
「だが、俺には洪水を鎮める手立てはない。ならばもう片方の“病を治してほしい”を叶えてやることにした。よって、ここで俺と村人たちの心が同調したということだ」
さらに混乱してきたため、雅相は一度頭の中を整理する。
つまり黒露が言いたいのは……この神様の力が干渉されない現世で、唯一神様が干渉できないのが人間の体であり、情であり、魂魄と。
それらに干渉するには、人間側の信仰心つまり穢れのない思いで、それらに付随する神様に叶えてほしい願いと、信仰心に報いるためにそれを叶えてやろうとする、神様の思いが結び付けられて初めて干渉できる。ということだろう。
待て、そうなると黒露が神様みたいではないか。
「前々からほんっとうに思ってたけどさ。黒露って何者?」
「ただの鬼」
「絶対違うよね」
間髪を入れずに言い返せば、黒露がぐっと言葉を飲み込んだ。
今までおかしな鬼だ、で済む話は当に限界を超えていたわけで。ついに雅相は我慢ならずに口からぽろぽろと言いたかったことが零れていく。
「黄泉側の鬼が、神気使うってどう考えてもおかしいもん。それに、神様のことばかり詳しいし」
口から疑問が溢れていくたびに、雅相のしわは険を帯びて皺を刻んでいく。
一方の黒露は、ただじっと雅相を見据えて耳を傾けるばかりだ。言い返しもしない。
「昨日の件だって、何か訳知りだったよね?それに、じっさまのことだって何か知っている風だし」
たった半月。されど半月。
短いようで長い、この修行で彼と過ごした日々は……確かに黒露を知るには十分で。
しかし知れば知るほど良く分らない存在で、これから長くこの関係が続くと思うと雅相にとっては耐えられなかった。早めにすっきりしておきたかった。
自分の言動は慎重になんて誓っても、得体のしれない相手に対しては早めに理解しておきたいのだ。
わがままもいい所である。
「ねえ教えてよ。呪印とやらで、僕の傍にずっといるんだったら、僕は君を知る権利があると思うんだ」
「まあ、そうだな」
飽きたのか、それともなんなのか。黒露は雅相から視線を外して、刀子で野草の葉を刻み始めた。
「答えてよ、黒露。それとも、君は」
今までずっと言おうか悩んでいた言葉を言うなら、きっとここしかない。
雅相は、あの人との契りを破ることを覚悟して、息を深く吸って、肺が空になるまで吐いた。
「――――」
「どうした」
しかし、言いたかった言葉は何故か言葉にならずにただ静かにはくはくと口を開閉するだけだった。
(あ、あれ?なんで?倖人殿かって、聞きたかっただけなのに)
それは、どこかの誰かの情の中で初めて出会った、傑物菅原倖人のことであった。
百年前に都を勿怪の集団で襲い、名家の内御三家の安倍と菅原と蘆屋を壊滅状態に追い込んだ張本人。
でも実際彼に会ってみたら、噂とは違った人物。
祖父の過去で見たときにも出てきた人であった。
黒露が物知りで祖父の事を知っているのならば、何でも知っていて逸話の多い倖人ではないかと結論付けられる。そう思っていた。
でも最近は違うのではと思い直して、でもやっぱりそうかもしれないと永遠に悩んで。
倖人と交わした契りを破ることに関しては、躊躇ったけども覚悟を決めた。
なのに、全てを覚悟して口から出たのは空気だけだった。
「――――」
「お前は真魚か?」
呆れてため息を出す黒露に、必死に言葉を紡ごうとしても……やはり言霊はでてくれなかった。
雅相はがっくりと肩を落としてその場に頽れてしまう。
「あの契りって、本当だったんだ」
言霊を以て契りを交わすというのは、陰陽師にとっては大切なものだ。無論他の人たちにとっても言えるだろう。
違えれば契りを交わした際に負った呪いやら罰が下る。
だから皆違えないように、むやみに契らないようにするのは当然。そうして重んじるからこそ、契りとは大切なものなのだと古来より伝えられてきたのだから。
無論それは雅相も知ってのことではあるが、それを違えてでも聞きたかった。
故に大いに落ち込んでしまうのは無理もない。
「お前が何を言いたかったのかは知らん。だが」
そこは察せよ。呪印で情でも見てくれよと思ってしまう雅相。
しかしそんなことは露ほども知らないだろう黒露は、今一度雅相を視界に捉える。
「いずれ、お前には協力してもらいたいことがあるから、時が来れば伝える」
「本当に?いつ?」
せっかちな雅相に、黒露が目を眇めた。
「そのうちだ。せっかち莫迦め」
それは果たして信じられるのか、それとも嘘なのか。
顔をしかめる雅相に、黒露がいきなり煎じ薬を突き出してくる。
「長話は終わりだ。とっととこの薬を配ってこい」
そうして熱々の湯液を両手に強引に持たされた雅相は、黒露から邪険に扱われるようにしっしと手で行けと祓われてしまう。解せぬ
「あぁ、そうだ雅相」
「なんだよ、野草莫迦」
戸の前で足を止めた雅相が、剣呑な表情で持って振り返ってみれば――――ヒュッと何かが雅相の頬を風のような速さで掠めていった。
その後、からんからんと音を立てて木の階にぶつかったのは、どうやら黒露が研いだ木の棒のようだ。
「昨日言った通り、お前の事認めてやるよ。有難く思え」
物凄く上から目線の有難いお言葉に、雅相は大仰に首を上下に振り乱す。
ここでまた下手なことを言えば、次は何が飛んでくるかわからないのだ。何も言わずに素直に頷いておくのが吉と言えよう。
そうして雅相は、一目散に転がるように逃げて湯液を配りに行くのだった。
***
一人ぽつんと蔵の中に残った黒露は、じっと少年が出ていった方を見据えていた。
「まだ、雅相の中ではアレを打ち破るほどの決意はできていないんだな」
彼の発した声は、どこか物寂しさの残る声音で。
アレを打ち破る方法はただ一つ。己の中に巣食う“魔物”に打ち勝つこと、それだけだ。上辺だけの決意など、アレの効力の前では簡単に見破れるというもの。
そして雅相の中に巣食う“魔物”というのは恐らく、不意に見た少年の過去に該当するだろう。
あとは以前雅相の実兄と名乗った男にも起因してそうだが。
しかし黒露が雅相の過去を見たのは……不可抗力であった。
黒露とて好きで見たわけではない、あれ以降はこちらで呪印によって流れてくる全ての雅相に関するものは遮断している。
他人のものを易々と見るわけにはいかないのだ。彼はそこまで節操無しではない。
まあ、そのせいと言うわけではないが、黒露の持つ怨気と神気が不安定になってしまったのだけれども。それもまた、致し方のないことだと彼は割り切っていた。
「しかし、あいつが幼過ぎたせいで視点が低すぎて何がどうなったのかわからんな」
外見的にだいぶ幼かった雅相が、何か巨大な黒いものと対峙していたのは黒露も理解していた。
だが、少年の視点で見ていたためそれが何なのかまでは流石に分からない。
幼い雅相の視点から見て感じ取れたのは唯一ただ一点のみ。
それは禍々しい力を放出させていた、恐らく黄泉の怨気を操る類のものだ。
(まあ、彼奴がちゃんと決意して言うまで待つか)
何も言わない少年の事をいくら考えても仕方ないと、黒露は大きく息を吐き出して、それ以後は思考を遮断し黙々と自分の為すべきことに取り組むのだった。




