第肆拾壱:修行編十四 鬼の所業。
「ぐぎい!?うでェ!!わ、シの、うでがァっっ!!」
くすんだ赤い肌色をした鬼が、激痛に悶えもんどり打ちながら地面を転げまわる。
そんな光景を雅相はただ茫然と見ていることしかできなかった。
なんてたって、目の前で鬼の腕が突き出された瞬間、怨気でできた悍ましい半円形の膜を展開し、その膜に鬼の腕が触れた途端に蒸発してしまったのだから。
呆然としてしまうのも無理はない。
(黒露は、もしかして安倍邸の襲撃の時……手加減をしてた、てこと?)
前回の襲撃から考えてもそうとしか考えられなかった。
一度対峙した時は、こんな強力な結界もどきなんて使っていなかったはずだ。
もしこの結界を使われていたら、確実に共に闘っていた天后も順風耳も千里眼もろとも彼に触れる事すら叶わなかったはず。
それでなくとも天后抜きでの三対一でも黒露には勝てなかった。
千里眼に関しては、その際に死んでしまったが故に二度目の蘇生と共に記憶を失くしてしまっている。
「おい、茨木童子は頼光たちの代わりに俺が封じてやったはずだぞ。何故今になって、あの阿保の名を出す?」
黒露の嫌悪に満ちたその声音にようやくハッと我に返れば、前方に対峙する赤鬼が脂汗を滲ませながらも、ニタリと嫌な笑みを浮かべていた。
「ぎは!ギハハハッ!!おめぇが、おめ、があ!いあら、いどうじが、いってた!!」
「すまんがもう少し聞き取りやすい言葉で言え。聞くに堪えん」
しかし、呆れる黒露を差し置いて、赤鬼はぬかるんだ地面を蹴飛ばしながら問答無用で襲い来る。
まだ結界もどきが存在しているというに、何故まだ突進しようと思えるのか甚だ疑問だ。
「わ、シはぁ!かる、あシィ!!おめのくび、を、もらうぅぅ!!」
ばしゃばしゃとはしたなく泥の飛沫を上げる“かるあし”と名乗った鬼が、ぼろぼろの衣裳の懐から瞬時に取り出したのは、刃毀れ甚だしい鈍らの刀子であった。
刃物類に慣れていない雅相は、当然そんなものを見せられたら驚いてしまう訳で、前方に敵が迫っているというに、驚きと恐怖で思わず顔を両腕で覆って防御態勢に入ってしまう。
だが、それを許してくれなかったのは黒露だった。
「目を瞑るな。戦うときは、絶対に目をかっぴらいてろ」
(っなんて、無茶苦茶なことを)
それでも黒露の言葉が一理あるのは分かっている。
だからといって、そう簡単に怯えた体がすんなりということを聞いてくれたらどれほどよかったことか。
震える体の頭上から降ってきたのは、黒露の呆れたため息。
その刹那に、赤鬼かるあしが鈍ら刀子を膜に向かって突き出すも、先ほどと同様に刀子はどろりと溶けてしまっていた。
「おい雅相」
「な、なに?」
腕の隙間から雅相が視線を向けると、いきなり黒露の白い細腕に覆っていた腕を強引に掴まれる。
そうして引き寄せられた拍子に、黒露の方へと強制的に向けさせられた視界に飛び込んできたのは。
まるでせせら笑うような、明かに面白がってますよと物語る赤い双眸を弧の字に曲げた表情であった。
「神気操作は、どこまで進んでいる?」
「今それ関係ある?」
「ある。だからさっさと答えろ」
どう考えても嫌な予感しか湧き出てこない訳なのだが、ここで嘘をついたところで恐らく呪印の効果で覗かれる可能性がある。
ならば嘘をついてまで黒露を怒らせるより、正直に答えるべきではないだろうか?その先に待ち受ける未来が、どう足掻いても戦闘にしか結びつかないとしても。
「神気の練り上げと、神気と霊力の切り離しは……できる、けど」
「まあ、たった数日で憶えられた類にしてはマシな方か」
吐息を漏らす黒露。非常に解せぬ。
「なら、この戦いで神気操作を一気に覚えつつ、アレに勝ってみろ。そうしたら認めてやるよ」
「ですよねー!」
悲鳴にも似た絶叫をする雅相を、有無を言わさぬ勢いで襟首を引っ掴むと、黒露はそのまま膜の外へと投げ放ってしまった。
雅相は、流石に顔面からの着地を避けるために、体を軽やかに一回転させて着地する。
そんな最中に、後ろに隠れていた青白く発光する童のたいまのみこが、慌てて雅相の方へ駆け寄ろうとするも、怨気でできた膜がその進路を易々と阻むのだった。
「へ、けへへ。おめら、がだべってるあいだ、にぜんぶ、なおしちまったぜ。あ、りが、とよ」
「くっ」
ほんの少し黒露と話している間、かるあしがやけに静かだと思えば、どうやら鬼はこの機を逃さずに己の溶けた腕を再生していたようだ。
確かに言われてみれば、黒露の怨気の膜で溶けたはずの筋骨隆々の腕は、袖は溶けたままだが赤い肌をした腕だけはきれいに元に戻っていた。
もしかしなくても、鬼という類の勿怪は皆傷を治す能力のようなものが存在するのだろうか?黒露も確か、傷を再生させていた記憶がある。
だが、都で調伏していた鬼などは再生などしていなかったはずだが。
「雅相、俺からの餞別だ。ちゃんと受け取れ」
「え!?」
この鬼に果たして真言や祝詞の類が効くのか、黒露と同様に恐ろしいほどに強い鬼ではなどと緊張感に呑まれ掛けていた矢先、後方から声を掛けられて雅相は弾かれたように振り向く。
――――そうして、放り投げられたものをなんなく受け取った雅相は、ソレに目を丸くした。
「木の、棒」
「普通の木の棒じゃない。俺の神気を含んだ、物を斬ることの出来るほどに鋭利に研ぎ澄まされた、謂わば妖刀だ」
え?と雅相が呆気にとられたのと同時に、雅相の持つ木の棒から一気に黄金色の神気がぶわりと膨れ上がり迸る。
その凄まじいほどの神気が、一瞬で雅相の指から全身へと鋭い痛みを走らせ、思わず手を放してしまった。
しかし木の棒は、雅相の手から離れたにもかかわらず地面に落下することなく、なんと宙に浮いているではないか。
「だから離すなと言っただろうに。全く」
「無理無理無理!こんなん絶対持てないからぁ!!」
いやいやと首を左右に振る雅相。だが黒露は無慈悲且つ非情で、腕組みをした彼がふんと鼻で笑う。
「今のお前如きの力で、あの鬼が倒せると思うなよ」
なんとなくそうだろうなと分かってはいた。分かっていただけに、苦い気持ちだけが情に沁み込んできて顔を歪ませるのだった。
***
「う、ぐう……っ」
仕方がないので、雅相は雷の如く鋭い痛みを発す木の棒を握り締めて、かるあしと対峙する。
びりびりと響くその痛みは、ここ最近にも葬儀の際に味わった、あの神気の感覚にも似ていて、いやそれ以上の痛みで雅相の全身を駆け巡っていく。
(くそっ加護は。倖人殿が施したっていう加護はなんで僕を守ってくれないんだ!?)
雅相に一方的に様々な制約を交わした代わりに、餞別として与えられたはずの加護は為す術もなく貫通され、黒露の神気が雅相の体内で暴れ狂う。
それに、第一何故黒露が神気を保有しているのかも謎だ。黒露は鬼ではなかったのだろうか。
「きひひ。もう、まんし、そう、いじゃ。ざこ、は、さ、さとしねェ!!」
しかし雅相の痛みなど露ほども知らないかるあしが、瞬時に雅相へ詰め寄り鋭利に研がれた長い爪で襲い掛かる。
「くっ!!」
なんとかそれを最小限に避けてみるが、だが、かるあしの猛攻はそれだけでは止まらなかった。
次から次へと繰り出される軽やかな長爪の連撃が、さほど体力のない雅相をじわじわと追い詰めていく。
攻撃事態は荒削りで随分隙だらけであるものの、如何せん雅相の方は不慣れなものを扱う上に、しょっぱなから満身創痍なのだ。
雅相がギリギリで避ける度に、木の棒を持つ手から滴る鮮血も舞う。
「はっぜえ……、はやいっくそ!」
「げははは!その、て、どか、よこわ、ぱァ!!」
戦う相手が雑魚だと分かったのか、高笑いの止まらないかるあしが雅相の肩を深めに抉っていく。
その瞬間に、痛みに苦悶の表情をしながらも一度体勢を立て直そうと一歩身を引いた。
所謂肉を切らせて骨を切る捨て身戦法だ。
「くそ!何か、何か手はっ」
「お前、莫迦だろ」
息も絶え絶えで思考の鈍りかけてきた雅相の脳内に、すんなりと入り込んできた声は――――雅相を小ばかにした黒露の言葉だった。
「お前の手に持っている妖刀は、痛みだけを施す飾りか?」
「っ分かってる!分かっているけど、使い方がわかんないんだよ!!」
怒号を響かせる雅相。黒露のいつもの嘲笑めいた声音が、今は焦りの浮かぶ脳に支配されて苛立ちしか湧き出てこない。
だが黒露はそんな雅相にもお構いなしに声を張って、おもむろに創造だ、といった。
「その木の棒に宿る神気を、お前の神気で支配する創造をしろ」
「はあ!?いきなりそんな」
「御託はいい。やれ」
間髪入れずに言葉を被せてきた黒露の方へちらりと一瞥してみれば、彼は先ほどの嘲笑などのものではない、ふと息を漏らした笑みを浮かべていた。
まるで、お前ならできるだろう?と問いかけてくるような、期待と信頼の感じられたものだった。
(ほんと、どこまでも無茶苦茶な鬼だな!)
しかし、無論そんな表情をされたら悪い気がするはずもない上に、なんだかんだと色々と教えてくれる黒露を雅相は師として尊敬している。
故に彼に応えるためにも、やるしかなかった。
……主従関係の立場が完全に逆転していようとも。
「む、だァ!ざこ、に、なに、おしえても、ざこは、ざこだ、ァ゛!!」
「うっさい!!麻呂子親王に倒された鬼と同じ名しやがって!」
何故か激昂するかるあしから一度意識を外し、雅相は木の棒に全集中力を以てして木の棒に注がれている神気を支配しようと試みる。
――――だが、そうは問屋が卸さない。
激昂したかるあしが雅相の腹部を長爪で貫かんと一気に間を詰めてきたのだ。
「前方、素早い動きで迫っている」
黒露のつぶやきに雅相の耳がひくりと動く。
それに呼応するように、雅相の体は無意識のうちに突進してくるかるあしから軽やかに躱していた。
「こ、しゃく、なァ!!」
「次、左より一閃の爪撃」
余裕をもって躱されたことにより、頭に血が上ってしまったかるあしが追撃に長爪を薙ぐが、これも雅相は軽やかに躱していく。
(なんだろう、黒露の言葉に体が勝手に反応する)
訳も分からないままに、かるあしから繰り出される爪撃を淡々と躱していく雅相。
何度も何度もそれの繰り返しをしているのに、何故か先ほどとは打って変わって雅相の息は全く乱れていない。
逆にかるあしの方が段々獣のように息を荒げてきていた。
だが、雅相にとってはそんな些細なことさえもどうでもよかった。
ただ今は、ひたすら体内の神気を練り上げて、霊力と神気を切り離す工程に集中する。
「その調子だ。次に神気だけ純度を高めろ。そして、膨大な神気で支配してみろ、雅相」
――――それは、修行の中で現在雅相が躓いていた難所でもあった。
だが、それでも何故か黒露に強く“やれ”と言われたらできてしまうような錯覚がして、雅相は力強く頷いていた。
徐々に今まで駄々洩れていた雅相の神気が、内々へと波のように引いていき、その膨大な神気が少年の体へと集合していく。
何故か肋がぎしぎしと痛み、何かが肺を圧迫して上手く呼吸できなくなってくる。
その感覚はまるで、体内で早く外へ出たいと暴れ狂う龍の如く。
「う゛があああああああ!!」
ついには獣の咆哮を劈かせ、怒りのあまりに白目を剥いて襲い掛かってくるかるあし。その顔にはこれでもかと青筋を立てており、血管が切れるのではないかというほどだ。
そんなかるあしに視線は向けていても、意識を雅相が向けることはなかった。
何故なら、黒露がきっと教えてくれるだろうと思って、彼を信じているから。
黒露だから、いろんなことを教えてくれる師だから、きっと大丈夫。
「右斜め上からの袈裟切り。大振りだ」
ほら。
思わず当たった自分の思考に、雅相は思わずほくそ笑んでしまう。
もちろん黒露の言葉を信じて、かるあしの攻撃からさっと身を引いて躱した。
「ねえ、黒露」
「なんだ」
ぶっきらぼうな声音をしているが、きっと素気無いものと言うわけではないだろう。
雅相はおもむろに黒露の方へと顔を向けるが――――その少年の瞳には、視界も悪く激しく打ち響く雨の中でも、はっきりと浮かぶ煌々と輝いた黄金色のものだった。
「神気を放つ、合図を、くれ」
少しの間、黒露は無言になっていたが、やがて彼はいいだろうとにやりと笑って頷いて見せた。
「こ、ばか、に、しお、てえええ!!わ、シはァ、かる、あしさ、まだああああ!」
黒露と雅相のやりとりが自分を莫迦にしたものだと思ったのか、ついにぶつっとどこかの顔の血管の切れる音と共に、呼吸もままらない中でかるあしが猛撃を仕掛ける。
大振りに下からの袈裟斬り、右からの一閃、さらにはもう片方の長爪で素早い左からの一閃、間を置かずして開いた右からの掬い斬りなど息もつかせぬ猛攻であったが……そのどれもが、黒露の指示の下全て雅相は最小限の動きと軽やか足さばきでもって躱していった。
そして、それまでまともに息をしていなかったかるあしが、ついにその足を止めてしまう。
それと黒露の合図は同時であった。
「やれ」
黒露の短いたった二言を、雅相は視界も音も雨に遮られていようとも耳聡く拾い上げる。
その刹那――――雅相の体から神々しいほどの黄金色の神気が迸り、膨大な神気はやがて木の棒へとまるで襲い掛かるように一点を飲み尽くしていく。
(この感じ、襲撃の時にも似た感覚を覚えている)
神気を放出するこの、全てを開放して虚を通り越した無の心地に覚えがあった。
確か、雅相が全く知らない言葉を唱えたときに何かを放出した時と同じあの心地だろう。
「いや、木の棒一本にどんだけ神気注ぐんだよ」
黒露が何かぼやいた気がしたが、今の雅相にはただただこの無の心地よさに夢中で聞き逃すのだった。
だがその心地も長くは続かず、雅相の神気は次第に木の棒に収束し終えると、黒露の神気を乗っ取り彼の神気よりも眩い光を放つ木の棒へと変貌する。
それを見て、絶句したのはかるあしだった。
「な、んだ、それ、は?」
「なにって、木の棒だけど」
だが、かるあしが、雅相の返事に返すことはなかった。心なしか、くすんだ赤い肌の足が震えている。
「雅相、仕上げだ。その木の棒を、俺が渡したそれと同じように太刀の創造をしろ」
「分かった」
しかし、かるあしのことなど興味がないとばかりに、黒露が木の棒の最終段階を告げる。
ここまでくれば、きっと難所も何もないのだろう。現に黒露の顔がふんと鼻を鳴らし腕組みをしてどこか満足げである。
雅相は黒露に言われた通りに、強く瞬く光を放つ木の棒に集中する。
そうすればゆらゆらと揺れていた、木の棒の神気が徐々に鋭い刃物の形を成していき、終いには細い刀身の、凛と美しげな白い神気を纏った太刀(木の棒)へと変わる。
「い、い、やだァ!わ、しィはまた、しにと、ないわ!!」
そう言って、全身から滝汗を出していたかるあしが途端に物凄い速さで回れ右をして逃亡の意思を示し出す。
だが、逃亡なぞ許さないとばかりに、突如出現した怨気の膜がかるあしを覆ったことにより脱走不可能となる。無論これを成したのは黒露だ。
「逃がすか。莫迦が」
「ひ、いいいい!?しに、とうない!いばら、いどうじィ!!みこ、よォ!おた、すけ、を!」
かるあしの助けを乞う声もむなしく、雅相は地面を激しく濡らす大粒の雫の中――――まるで水面を軽やかな足取りで伝っていくように走り出す。
目掛けるのはもちろん、かるあしだ。
「二度と、この世に生まれてくるな」
横一閃。
雅相が薙いだのと同時に、黒露が放っていた怨気の膜が泡のように破裂し、かるあしは怯えきってしまっていたために無防備となる。
だが前方の光景に驚いたかるあしだったが、腰が抜けてしまっていて逃げ果せること叶わず……。
雅相の初めて太刀を持ったとは思えない美しげなる体捌きの餌食になり、胴体が青い飛沫を上げて真っ二つとなった。
そして真っ二つになったかるあしの体が、どちゃりと音を立てて地面へともんどりうつ。
「ふん。まあ、及第と言ったところか」
雅相が張り詰めていた息を一気に出す様に肩で深く何度も息をしていると、黒露がかるあしと雅相のいる方へとたいまのみこと共にやってくる。
「で、だ。お前、何故復活した?軽足」
「あ、やっぱり、そうなんだね」
どうやら薄々思っていた、この鬼の正体が麻呂子親王が討伐した三鬼のうちの軽足なのは、黒露が言ったことによって真実味を帯びる。
対して軽足は、下半身は既に砂と化して落ち窪んでしまってはいるものの、上半身だけは何故かまだ微かに蠢いていた。
「ふ、ぐぶふ。なぜ、かだって?」
「早く教えろ。潰すぞ」
なんて言いながら、既に黒露は軽足の赤い腕を事も無げに踏みつぶしていた。
何て無慈悲。流石鬼である
そんな軽足は腕を踏みつぶされたことにより、未だ神経が通っていたのか、イタイイタイと喚き散らしてごろごろとぬかるんだ地面に転げ回った。
「い、う゛!みこ、だ!!と、つぜんやまに、やて、きて、おにのふう、いんやはか、をあばいて、はふ、かつさせて、るんだ!」
「巫女……?」
「い、づもの、かみのあら、みたまが、おこ、てるか、ら、て」
軽足のその言葉を聞いた瞬間、黒露の赤い双眸が大きく見開かれる。
「なんだと?」
「う、うそ、じゃな、い!だれ、かおび、きよせ、るために、やて、るて」
雅相にとってはちんぷんかんぷんであった。
正直、神気の消耗が激しくて体内の霊力を空寸前にまでしてしまったときのような感覚だ。
全身が重怠く、手足の稼働できる部分全てが一切動かない。まさに、ただそこに立っているだけ。
もはや意識もうつらうつらとし始めた頃だった。
――――一瞬、ほんの一瞬ピリッとした小さな、それこそ木か何かで引っ掻いてしまったような痛みが背を駆け巡る。
「巫女の名は?いや、待て。そも何故茨木童子は酒呑童子無しで三上山の指揮を取れる?」
「そ、れは。ぜんぶ」
軽足が何かを告げようと口を大きく開いた。一瞬の間、棒立ちの雅相の頬を何かが掠めていく。
そして掠めていった何かは、見事に軽足の頭を鋭く打ち抜いていた。
それは、仄かに神気を纏っただけの、どこにでもある矢であった。
「あ゛、ぎひ」
「軽足っ!?」
黒露は勢いよく矢の出所へと顔を翻すが……この悪天候で長距離を得意とする矢の出所など分かるはずもなく。
それを考えれば、こちらの居場所とて軽足を狙って射抜くなど不可能に近いはずなのに、軽足は綺麗に口封じのために脳を撃ち抜かれた。
つまり、弓に相当の自信のある者が軽足を射殺したことになる。
「雅相!」
もしかすると、再び矢の襲来があるかもしれない。
そう察した黒露はおもむろに、後方にいる雅相へと振り返るが――――。
「まさ、すけ?」
少年は、再びぬかるんだ地面へと倒れ伏していた。




