第参拾玖:修行編十二 彷徨う者。
生意気な鬼の黒露が言うままに、川守郷の一部である村の村長大吉に案内されたのは、雨に打ち付けられていく藁葺屋根の高床式のものでいわゆる蔵であった。
屋根は中々の厚みがあり、こんなにも激しく降る雨の中でも雨漏り一つせずに内部の物を守っているようだ。
「ここに乾燥させている野草などがごぜえやす」
促されるままに木の階を上って中へと入ってみれば、中は中々に広く壁に沿って野草らがびっしりと吊るされていた。
その他にも備蓄用の米俵や作物などが保管されている。
「ほう、糠荏(紫蘇)に銀杏葉か。ふむ、山菅(ジャノヒゲ)に久佐木に染物にも使われる鴨頭草(ツユクサ)がある。他にも色々あるな」
そう呟く黒露の赤い瞳は、これまでに見たことがないほどに眩く爛々と輝いていた。
物凄く楽しそうで何よりである。
「あのう、まっことに陰陽師様がお薬を煎じてくださるんで?」
「当たり前だ。俺を誰だと思っている?」
鼻高々に語る黒露だが、まだ出会って間もない村長が黒露のことなど知る訳がないので、困った風に眉を八の字に下げている。
雅相だって、こんなこと聞かれたらきっと村長のように困った顔どころか煙たい顔をしてやっかんでいたかもしれない。まず態度がでかすぎるのだ。
まあでも、得体が知れないのは今に始まったことではないので、頼りになる部分は太鼓判を押せるだろう。主に今のところ野宿関係だが。
「ねえ黒露、そっちが煎じ薬でも作っている間僕は何をしたらいい?」
「はあ?」
わきわきと興奮気味に両腕を開閉する雅相に、黒露は何言ってんだ此奴と言わんばかりに睥睨した目をする。
「なに莫迦なこと言ってんだ。お前は神気で火が灯せるまで修行だ」
「えー!!ひどい!言い出しっぺは僕なのにぃ!」
「うっさいわ!まだ神気操作のじの字もできないくせに、言い出しっぺもくそもねえんだよ!!」
ぎゃーぎゃーと二人でけんかをするが、間に挟まれた村長がひどく居心地悪そうに肩身を狭めて縮こまりだす。
流石の黒露もそんな村長を目の当たりにして哀れに思ったのか、一拍置いて大きく息を吐き出すと、雅相に向かって指をびしっと突き出した。
「なら、今から明日の明けまでに神気操作ができるようになってみろ。できたら手伝わせてやるよ」
黒露の力強い赤い双眸に気圧されつつも、雅相もそれにならって大仰に首を縦に振った。
――――のが、恐らく日も中ごろの事だったと思う。
無論外は雨がずっと降っているので、今が何時なのかは漏刻のないこの場所ではわかりようがない。
しかし一つだけ言えたのは、やはり何の成果も得られずにまたもや宵闇が近づいているという事実だった。
「なんで、全く進展しないの」
ぽつりとつぶやいた先には、轟々と怨気を帯びた炎が窯の中で燃えている。
ここは窯の他にも野菜などを切ったり調理したりする台盤所だ。
そして今、雅相の目の前で燃えている炎はもちろん黒露が火を付けてくれたものである。
当初は村長も火がいきなり着火した時は、それはもう顎が外れるのではないかと思うほどに口を大きく開けていたのは記憶に新しい。
だが、陰陽師だから……という、もはや陰陽師を人として扱うのを止めたことで、己を無理矢理納得していたけれども。解せぬ、非常に解せぬ
「うふふ、お弟子様は火を見るのがお好きなのかい?」
「え、あ。そういうわけじゃ、ないけど……」
雅相の隣で野菜を切っている、中々にがっしりとした体つきの村長の北の方がくつくつと笑っていた。
名は確か、真屓と言った気がする。
この村に病が跋扈する中で、存外逞しく健やかな女性だ。
「なんていうか、修業が上手くいかないなあって。思いまして」
「堅苦しいのはお良しよ。私はそういうの苦手なんだ」
「あ、はい。あっうん」
真屓のあまりにも男らしい物言いに、本物の男であるはずの雅相が尻込みしてしまう始末だ。
ぐりぐりと雅相の頭を乱暴に撫でるその手の厚みも、田畑や炊事などを長年行ってきた証だろう。
彼女の元結で括られた黒髪が、忙しない動きに合わせて楽し気に踊っている。
「それで、修業だっけ?あんたのお師匠がやったような火を出すやつかい?」
「うん。明朝までにできないといけないんだけど、からっきしで」
普通に考えれば、数日でできてしまうような修業なら雅相以外でもできるはずだ。
なので、これは確実に黒露からの嫌がらせだと言える。非常に腹立たしい限りである。
「なんて言うか、こう。秘訣みたいなのがないのかなあって思っているんですけど。あっ思うんだけど、全然わかんなくて」
黒露の炎の目の前で雅相がうな垂れる。
「そうさねえ。あんたがどんな奴かはまだ知らないけど、取り敢えず修業の事から離れて、一旦息抜きしたらどうだい」
そう言って、真屓が雅相の方へ箸を使って渡してきたのは、わらびを茹でたものだった。
一瞬戸惑いを見せる雅相だったが、何度も箸で早く食えと催促されてしまえば従うほかあるまい。
剰え夕餉の支度の邪魔をしている身であるのに、さらに台盤所に居座ることを許してくれているのだ。
雅相は観念して確実に味気がないだろうその茹で上がったわらびを勢いよく真屓の箸からぶんどれば……やはり想像通り味はなかった。
まあ、都でもよく食べていたので慣れたものではあるが、黒露が作る新鮮な真魚の塩焼き類を味わってしまっているため、随分舌が肥えてしまった感じは否めないが。
「ねえ真屓殿」
「真屓だよ」
全く雅相に目を向けてこないくせに、声だけは中々に太いせいで圧がある真屓。
一度出かかった言葉を飲み込んで、雅相は小さく息を吐き出した。
まずもって言いたいのは、何故そう易々と諱を打ち明けるのかを問いたいところだ。これはあれだろうか?自分を男としてみろという、一種の暗喩?
「ねえ真屓、」
「んー?」
やはり真屓は雅相の方を振り返りもせずに、土師器の甕を真剣に覗いている。
自邸では見ることのできない、女性が調理をする姿は中々に新鮮な気分に浸れるが、落ち着かなさと迷惑をかけている罪悪感はかなり湧いてくる。
「どうして、押し掛けた僕たちを快く受け入れたの?どう見てもこんな時に来るなんて、怪しいのに」
「押し掛けてきたあんたがそれを言うのかい」
ぷっと真屓が軽く吹き出した。
「まあ、一つ言えるのはさ。あんたみたいな、まだ成長しきれてない奴を放っておけなかった。からかねえ」
「僕これでも元服済ませてるんだけど」
「あんたの未熟で危なっかしい雰囲気だよ」
言い得て妙である。雅相自身でもそれは痛感していた。
何か役に立ちたいと思い立ったら、突っ走ってしまいがちなのは雅相も直したいところではある。
よく周囲からもっと周りに視野を広げろとか、そそっかしいとか散々言われていたから。
しかし、まさか雰囲気でそれを当てられるとは……なんとも女人の勘とは恐ろしいものである。
なんだか居心地が悪くて、話題を逸らそうと少し広い家屋をぐるりと見渡す。
「そういえば、真屓の子は?婚儀を上げて別に暮らしてるの?」
何げなく聞いた質問だった。
でもその質問が間違いだったと気付いたのは、ようやく雅相の方を見た真屓の寂しそうな表情を見たからで。
「私の子はね。あんたと同じ年頃の時に、洪水にさらわれちまったよ」
「あ、う。ごめ、ん」
「あんたが気に病むことじゃないさ」
とは言いつつも、真屓の表情は陰りのある困ったような笑顔であった。
……またやってしまった。言葉は慎重に選ぼうと考えていたのに、真屓の触れてはならないものに土足で踏み入ってしまった。
「そんな顔するんじゃないよ。私も困っちまうだろ?」
箸を持っていない手で、もう一度真屓の大きくて暖かい手に頭を撫でられる。
それでも雅相の気分が晴れる訳がなくて。沈んだ気持ちと呼応するように、自然と顔も俯く。
それに参ったなあと呟く真屓は、雅相の沈んでいる気持ちよりは幾分か軽やかなものであった。
「よし、あんたに面白い話をしてあげるよ!」
場を明るくしようと弾んだ声とともに、彼女は家屋に良く響くように手をパンっと叩いた。
それに連れるように雅相の顔が緩やかに持ち上がる。
「お弟子様は、この村の近くにある元伊勢皇大神宮にはもう立ち寄ったかい?」
真屓の問いかけに、雅相はこくりと浅く頷く。
「なら話が早い。神宮を上る際、長い石段を上がると途中で三本の大きな杉の木があっただろう。あれ、実はその昔すごくえらーい御方の異母弟の偉い御方が手植したものなんだよ」
「知ってる。神宮を清めてた人から聞いたよ」
あれま!と驚く真屓だが、恐らくそんなに驚いていない感じだ。
まあ神宮に足を運び済みだと言われたら、そりゃあ察しはつくだろう。
しかしその三本の杉が話題になるのかと問われたら、少々弱い気がするのだが。
それがどうしたとばかりに、雅相がこてんと首をかしげた。
「実はね、その杉を植えたお偉いさん――――麻呂子親王っていうんだけど、三上山で英胡、軽足、土熊(土蜘蛛)っていう三鬼を討伐した凄い方なんだよ!」
「えっ三鬼も!?神宮では鬼を討伐したってだけしか聞いてなかったけど、すごいね!!」
当初神宮で聞いた時は誰?となっていたが、三上山の鬼賊を三鬼も倒せる人物ならば、中々すごい実力の持ち主だと伺える。
この丹後の地では、よく三上山周辺の村に鬼賊が頻繁に出没しては、村を荒らし回っていたという話は有名なものである。
噂程度ではあるが、都生まれの雅相の耳にまで届いていたほどだ。
だが、今現在もそうなのかと聞かれたら、村の様子から見ても鬼の襲撃はなさそうだが、実際に三上山には酒呑童子を始め数多の鬼が住んでいたのは事実である。
陰陽寮に、その当時の記録がきちんと遺されているのだから。
すると、真屓が甕の調理をそのままに雅相に手招きをする。
むろん興味津々の雅相はすかさず耳を寄せた。
「その麻呂子親王がさ、最近自分の所縁の地に化けて出てくるらしいんだよ」
「え?」
おっかないねえと大げさに自分の肩を擦る真屓だが、雅相の耳からはすうっと抜け出て行っていた。
恨みを持った者が勿怪になって化けて出るのはよくあることだが、功を成した者が化けて出る意味が分からない。
「それでさ、数年前にうちの子が実は、青白く発光する人物を見たって言ってたの。吾子の話をしてたら、この話ふと思い出したんだよ」
ちょっと思い出し方が複雑ではあったが、青白くて発光する者と言えば確かに人ならざる者に違いはない。
もしかして何か未練があって彷徨う浮霊になってしまったのかと思ったが、やはりこれも見当違いな気がしてならないのだ。
「あれ、でもなんでその青白いのが麻呂子親王だって断定できるの?」
「だからあ、麻呂子親王が訪れた所縁の地に出没しているからでえ。どう考えてもその青白いのが、麻呂子親王以外有得ないだろう?」
確かに彼の所縁の地に出没しているのなら、話の合点はいくのだが……。
しかし、雅相の情には妙な引っ掛かりを感じていた。
「じゃあさ、その麻呂子親王って直近ではいつ頃どこに出没したの?」
「そうさねえ、確か与謝の加悦って聞いたね」
思わずどこ?と首をひねってしまう雅相。
与謝郡自体は、三上山の麓付近なのはわかるのだが、加悦という村までは流石に知らなかった。
「ざっくりと言えば、この村から三上山を直線状に突っ切った場所辺りにある村かね?」
「へえ、随分詳しいね」
当然さね!と胸を張る彼女は、どうやら与謝郡に知己がいるようで、そこから噂を聞きつけたのだという。
道理で地理まで詳しい訳だ。
(麻呂子親王の霊もどき、か)
果たしてそれは本物か偽物か。
真実を知れるのは今の時代には居やしないはずだ。
だが雅相の情に小骨のように引っかかるのは、自分の所縁の地を延々と巡るその様が、何かを伝えたいとも取れる行動に思えてならない。
しかし、雅相は丹後の人間ではないので、彼?が目の前に化けて出てくれるかどうか怪しいところ……。
好奇心は身を亡ぼすともいうが、こんなに気のいい人の気がかりを取り除く役に立てたらなあ、なんて考えてしまう雅相は、きっと今までの反省をこれからも活かせないだろう。
「会えたらいいのになあ」
***
「えぇ……」
その後夕餉を村長と黒露と真屓と共にした後、灯りを消して寝静まっていた中――――ふと何かの気配を感じた雅相は、ぱっと目を開いた。
そんな少年の目に真っ先に飛び込んできたのは、この世のものとは思えない淡くて青い光の中にある濡れ羽色の瞳。
明りの落ちた宵闇の中で、輪郭が朧げな青白い光に包まれた何者かが、雅相の枕元からじいっと雅相を見下ろしていた。




