第参拾捌:修行編十一 加佐の村。
「おーい、雨で濡れて危にゃーから足元気ぃつけるべえ」
「わーがってるってえ」
全身を蓑に包んだ、小汚い直垂姿の男たちが続々と修業の場にある緩やかな崖に立った、小さな社を目指してえっちらおっちらと崖に垂さがる蔦を登っていく。
その拍子でちらつく、袴さえ穿いてない男に関しては褌などが見え隠れしていて、嫌なものを見たと言いたげに雅相の顔が渋くなった。
「どこの人たちだろ」
前方の光景から逸らすように、雅相は黒髪を高く結った鬼姿の黒露へ視線を向ければ、彼は顎に手を添えて何かを考えていた。
よくあの光景でそんな真剣そうな表情ができるなと感心してしまう。
「……恐らく、元伊勢皇大神宮の麓にあった村の者たちだろうな。一番近いし」
(てことは、方角的に神宮の人が言っていた川守郷の方かな)
唸りながら陰陽寮で見たことのある丹後の指図の仔細を思い出してみる。
確かぼやっと記憶にあるのは、この加佐郡にある十の郷のうち川守郷は天田郡の境に位置し、隣接する郷には有道郷があったはず。
酒呑童子伝説の残る三上山(大江山)が近いため、この近辺はわりかし詳しい雅相。
そして最近知った元伊勢皇大神宮が最近雅相の脳内指図に加わったことによって、河守郷だろうとあてをつけられたのだ。
ちなみに天田郡というのは、それはもう大層でやんごとない方々の荘園が敷き詰め合った場所で有名なため、誰も近寄らない所である。
雅相とて公家領や摂関領の荘園がある郡になんて好んで近付こうとは思わない。何されるか怖い。
「もしそうなら、なんでわざわざこんな雨の中で危うさを孕む山奥にある社に?」
「さあな。確かあの社で祀られていたのは、櫛御毛奴命か櫛岩窓戸命・豊岩窓戸命の二神だったはずだ」
雅相はこくりと頷く。
櫛御毛奴命は、別名素戔嗚尊ととも呼ばれており、情の中で出会った高龗神と共にいた御饌の尊と言う名の女神?が言っていた三貴神が一人の天照大神・月読命の弟神にあたる神様だ。
神格は確か農業神・防災除疫の神・歌人の神だったはず。
櫛岩窓戸命・豊岩窓戸命は別名二神を総称して天石門別神と言われている。
天照大神がどこぞの岩穴に隠れた際にできた天岩戸が神格化した神様である。
こちらも神格は石工業守護、厄除け、開運招福、家内安全、無病息災なのだが……どちらを祀っているのか曖昧な社に、危険を冒してまで来ようと思えるだろうか?
「そういえば、さっきあの人たち雨の日のみの村の仕来りがどうのって……」
ぽつりとつぶやいた雅相の言葉に、黒露が何かを察した顔をしてぽつりとそういうことか、と独り言ちた。
「何かわかったの?」
「元伊勢皇大神宮へ行く際、この修行の場のすぐ近くの下流に大きな岩のくぼみがあったのを覚えているか?」
ぼんやりと思い出してみる。
確かにそんなものがあったようななかったような。
初めてこの地の散策にうきうきで、この辺りの岩なんてちゃんと見ていないのが現状である。
しかし、それが一体どうしたのかと雅相が首をかしげる。
「あそこは、天降った神々が湯浴みした地とも言われている。岩のくぼみが産釜で、その下に流れていた細い川を産盥とこの近辺の者たちは呼んで崇敬している」
「へえ。知らなかった」
それも当然だ。雅相はこの場所が一体何なのかがまずわからないのだから、考えようがない。
「そして産盥に流れる水は、決してどんなことがあっても流れる水量は変わらないし腐らない。故にあの水を、人の手により濁せば川は荒れ洪水をもたらし、逆に旱魃の際には、水を注ぐと慈雨が降ると言われている」
「すごいね」
「つまり、ここに祀られている神はどちらも厄災除去だからこそ、そこで参拝し産盥の水を持ち帰って祀ることで、雨を退けてもらおうとしているのではないか?」
黒露の推察になるほど、と理に適っていることに大振りに首を縦に振る。
いやそれ以前に、何故黒露がそんなにこの場所について詳しいのかが謎なのだが、それを問い質している暇がないのは分かっているためあえて口を噤む。
どうせ雅相の眷属なのだ、詰問する時間など後でいくらでもある。
「てことは、この山にほど近い彼らの村が何か困っている、ってことじゃない?」
「可能性はあるな。それでなくとも、この近辺はよく洪水に見舞われがちだとあの御方が嘆いていた」
あの御方?と雅相が流石に聞き返せば、黒露ははっと口を手で覆い目を逸らした。
本当に何でもかんでも隠すし、何でも知っている鬼なことだ。
故に隠されてばかりいる主人の雅相は辟易したように肩を竦めることしかできない。
しかし、そうこうと二人が息を潜めて話しているうちに村人たちの参拝は終わったらしく、ぞろぞろと列を成して来た道を戻り始めていた。
「お?なんでえ、こんなとこに焚火の跡がある?」
五人のうちの袴を穿いていない直垂姿の腰の曲がった男が、黒露たちの使っていた焚火に気付いてしまう。
一気に黒露と雅相の背に緊張が掛け走っていく。
「そんなんほっとけ。どうせ山賊でもおったんだろ」
「んー。そうかもなあ、こんなとこで野宿するんは罰当たりな連中わやなあ」
しかし、彼らは気にも留めずにさっさと石の階を上ってしまい、元来た道を戻っていった。
恐らく男たちが行く方角に神が湯浴みした地とされる産盥などがあるのだろう。
男たちが過ぎ去ったことにより、思わず雅相の口からほう、と吐息が漏れ出た。
「はー怖かった。見つかるんじゃないかってひやひやしたよ」
「見つかる訳がないだろ。俺が隠形して隠しているのだからな」
まさかの新事実に雅相の目はぱちぱちと瞬かれた。
だったらこうして隠れる意味ってあったのかと甚だ疑問でならないわけで。
「まあ、念のためだ。お前が地団太でも踏んでたら、徒人でも気づかれるからな」
「僕の失態前提!?てか地団太ってなんだよ!」
そんなのも知らないのかと言いたげに見下した視線で持って鼻を鳴らす黒露。非常に解せぬ。
「まあ、それよりもさ。麓の村の人たちのことだけど」
しかし話を切り替えようとした雅相に向かって、黒露はそっと自身の両耳に手をあてがい、聞きたくないと言わんばかりに、拒否の意を含めて塞いでしまった。
「やだ。絶対にイヤだ」
「まだ何も言ってないけど」
「どうせ、村にでも行こうとか言いだすんだろ。もっと言えば、村人の困り事助けようぜっていいたいんだろそうなんだろ」
お見事である。よくそこまで見抜けられたなといっそ感心してしまえるが、今黒露を褒めるような気分ではないのでやめておく。
「何で嫌なの?」
「面倒事が確実に押し寄せる。それに、彼奴……藤の狐にも行くなと言われているだろうが」
「そうだけど。でも、困っている人がいるんだよ?放っておける?」
真剣な面差しで一心に黒露の瞳を見据える雅相。
そんな雅相の表情に、黒露がうっと言葉を詰まらせて一歩後ずさった。
ならばと、及び腰の彼に畳みかける様に雅相も一歩足を踏み出す。
「黒露は、鬼だから分からないかもだけど……。でも、鬼になる前は人の縁の中で生きていたかもしれないんでしょ?もしそうなら、黒露の知り合いがいたらどうする?黒露はここについて詳しいから、可能性あるよね」
「ま、あ。そうかもしれないな」
確実に追い詰められていく黒露の顔は、目がしきりに泳いでいて顔中から汗を流していた。
それを目の当たりにして内心でもう一押しかとほくそ笑む雅相。この一手で黒露を落としてみようとさらに詰め寄る。
「それに、じっさまはあぁいってたけど。じっさまは正義感が強い人だから、きっと困っている人を見たら見過ごせない人だと思うんだ」
「う゛っ」
黒露が口惜し気に呻き声を上げる。やはり黒露は、祖父に対して何かしらの感情を持っている気がしていたのだ。
これまでの彼の言動や態度を振り返れば、人を良く見ている雅相にかかれば出会って一月経っていなくとも丸わかりだった。
と言うより、黒露が物凄く分りやすいということもあったのだが。
そんな彼に向けて、雅相はずいっと指二本を眼前にかざす。
「このまま見過ごして傍観者気取って何も言われないのと、助けたせいで怒られつつも褒められるの。仮に黒露なら、どっちがいい?」
――――そうして黒露は、雅相の粘り強い交渉?により遂に陥落する。ちょろいぜ、この眷属。
そんな二人(一人はうな垂れている)は元伊勢皇大神宮の麓にある村人たちを助けるべく、雨が強く降る中で意気揚々と出向くのだった。
***
「はあ。陰陽師の、方々ですけえ?」
雅相と黒露の目の前にいる初老の男がかなり怪しんだ目で二人を見比べる。
雨が次第に強まってくる中、二人がやってきたのは無論神宮の麓であったのだが。
二人が目のあたりにしたのは中々に危うい状況の只中の村の様相であった。
ここ数日間、ずっと雨続きだったせいで近くの川が氾濫しかけているわ、夏至とはいえ雨の日は冷えるのに薪が湿気てしまって病を患う者が増えているわで大変なことになっていた。
兎にも角にもと急いでこの村の長らしき人物を探そうと思っていたのだが、存外分かりやすく私が村長のお宅ですよと言わんばかりの、他の藁葺屋根の家屋より大きな家屋を見つけて、押し掛けたのがつい少し前の出来事である。
そしてもちろんひと悶着あったのは言うまでもない。
「はい。太吉殿も見ておられたでしょう?僕たちがここへ入る際に結界で雨を凌いでいたのを」
太吉と言うのは村長の名だ。
雅相が強引に押し掛けた挙句に色々と聞き出した中の功績の一つの賜物である。
「はあ。確かに、お弟子様の仰る通りで、徒人のわしらにゃ出来ん芸当ですなあ」
雅相の傍らで座る黒露をちらりと見る村長。
たぶん、なんで師匠のお前は何も言わないんだと言いたいんだろう。
だが、その視線を遮るように雅相が身を乗り出して満面の笑みでもって相対する。
――――この村に来るに辺り、雅相はとある設定を作っていた。
それは、雅相と黒露は“法師陰陽師”と言う設定だ。
全国行脚をしながら地方を巡っており、人助けをしているという、なんとも怪しくてすぐ気づかれそうな設定である。
ちなみに配役は、雅相が弟子で黒露が法師陰陽師兼師匠という役を担っており、ふてくされている黒露にはしゃべらせないようにと雅相が話相手役をしている。
だが、姿を見れば雨具一つ着ていない上に旅道具さえ持っていない怪しい連中なのだ。
それをごまかすために、雅相は結界を使って無理くり村長に信じ込ませた。
いや、実際に雨具類は持っていないため、たまたま結界を使ったに過ぎなかったのだが。
それを法師陰陽師だと、信じ込ませるための判断材料にできたのはもはや奇跡の類である。
「たまたまこの村を訪れたのですが、何かお困り事があればお手伝いしますよ」
「困り事、でごぜえいますか」
恐らく山ほどあるはずだ。
期待に胸を膨らませて、思わず雅相は鼻息が荒くなってしまう。
「……火が灯せねえせいで、川の氾濫を防ぐための人手が足りてないなどでしょうかねえ。後は、咳が逆さまになった病や熱病を患った者たちをどうするべきか」
「なるほど」
そう答えたのは黒露だった。
出たな、野草のこととなると手厳しくなる変な鬼め。と目で訴えるように流し目で見る。
もちろん言葉にしたら何されるか分からないので、雅相は黙っておく。
「この村には野草などを日干し・または陰干しして常備していないか?」
「そうですなあ、あるにはありますが……」
「なら話が早い」
そういうや否や、黒露は徐に立ち上がって案内しろともはや雅相よりも強引に顎でくいくい、と指し示す。
流石の村長も突然のことで目を白黒させていた。
「俺が、お前らのために薬を作ってやるよ。有難く思うんだな」
物凄く上からの物言いのくせに、どこか余裕のある彼のそのつり上がった口元の笑みは――――頼りがいのある、兄かなんかに思えてならなかった。




