第参拾漆:修行編十 迎え梅雨の迎行。
目の前にいる、黒髪を高く結った黒露から手渡されたのは、何故か木の棒一本だけだった。
「なに、これ?」
雅相の間の抜けた声が、厚い雲に覆われて日の差さない修業の場で木霊する。
「見れば分かる。真魚を塩焼きにする時に使った木の棒だ」
雅相が問いたいのはそういうことでは無いのだ。
何故木の棒なのかと言いたい。
なにか仕掛けでもあるのかと上下左右に棒を見回してみたが、やはり木の棒は木の棒であった。
「何の変哲もない棒だね」
「当たり前だろ。何かある棒なんて渡せるか」
ふん、と偉そうに鼻息を鳴らして、黒露が腕組みする。
「これでなにするの?まさか、これで物を斬ってみろ的な無茶ぶりじゃないよね」
「んなこと言うわけ。あ、いやまあ。ゆくゆくは……」
「はい?」
何やら黒露の言葉の後半が聞き捨てならなかった気がしなくもないが、兎にも角にも早く新たなことに取り組みたくて、雅相はそれでと黒露の言葉の先を促す。
剣呑な顔つきのまま、枝で自分の肩をたたきながらというもはや挑発している風であるが。
「取り敢えず、だ。まずは初歩として、この木の棒にお前自身の神気を流し、火を灯してみるんだ」
「どうやって?」
急かす雅相にまあ待てと黒露がなだめると、彼も同じようにその辺の枝を拾って雅相の眼前で何もないぞと言いたげに見せびらかしてくる。
……その態度は、なんだか挑発し返されているようでイラッとしてしてまいそうになるが、雅相は教えてもらう立場のためやむ無くぐっと我慢をした。
「見ての通り、ただの枝だ。よぉく見ておけよ」
黒露は枝を両手で持つと、静かに赤い双眼を閉じてしまう。
その瞬間、黒露の体からあの悍ましい黄泉の怨気の気配が滲み出す。
そしてそれに呼応するように、無風なのに周辺の森が何かに揺さぶられるようにざわつき始め、虫や鳥の声さえも何故か一層と騒がしくなり始めた。
「な、なに?」
「周りは気にするな。ちゃんと俺を見ておけ」
驚いた様子で忙しなく周囲を見回していた雅相だったが、黒露の言われた通りに黒露を固唾を飲んで注視した。
ただ木の棒に火を灯すだけなのに、黒露が怨気を放っただけで周囲がざわめいたのだ。きっと彼の体内では何か相当すごいことが起きているに違いない。
そうして黒露が目を閉じて程なく、雅相でもわかるほどの黒露を覆う薄い赤黒い膜の怨気が、すうっと木の棒へと伝っていく。
やがて怨気が木の棒を完全に覆ってしまうと、今度は枝木の先端に怨気が集い出し、最終的には集って塊となった怨気が枝先で揺らめく炎の形へと変化していった。
「す、すごい!」
すう、と黒露の赤い瞳が開けられるのと同時に、黒露から放たれていた怨気も成りを潜めていく。
しかし枝先に集った怨気の塊はそのまま具現化しており、まるで本物の炎のように枝先で揺らめいていた。
それに伴い、騒がしかった周辺もいつも通りの川のせせらぎと、心地の良い虫の奏でる落ち着いた音色へと戻っていった。
「大げさにやってみたが、まあこんなもんか」
黒露が細く息を吐き出す。
が、そんな黒露に雅相が勢いよく食い気味に身を乗り出してきた。
「どうなってるの!?今のどういう原理なの!!」
目を大きく開いて半ば興奮したように鼻息を荒くする雅相に、黒露はその眩いばかりにきらきらした圧のある眼差しに臆したように体を仰け反らせる。
というより、頬が引きつってもはや完全に引いている。
「これの重要なことは、頭の中で鮮明に思い描く創造になる」
「創造?」
良く分らないと雅相は首をこてんと首を傾けた。
「まず、これの原理は陰陽師たちがよく使う呪具と同じで、物に霊力を流すことによって物を呪物化させるんだ」
「ほうほう、なるほど?」
全く理解できていなかった。
呪具というのは、陰陽師たちが必ずと言っていいほど持っている持ち物である。
呪符や札類もその一つで、他に太刀やら管弦類やらに霊力を込めて、自分専用の武器(呪具)を作り上げるのだ。
大概は得意な芸事などで使う物を呪物化させるのが一般的で、宮中祭祀や加持祈祷の他に占術に取り入れて神々への供物として奉げたりする。
無論呪具の用途は人それぞれのため、霊力の込められた妖刀なんかは、勿怪を斬るために使っているなんて者もいたり。
後は人を呪殺するために作ったなんて物騒なものもある。
ちなみに雅相はまだ得意な芸事やよさげな物がないため、呪具と呼べるものは呪符しかない。実に悲しい。
「だが通常の霊力で生成される呪具は、謂わば物に霊力(自分の生霊)がこの世の理に則り憑依しただけのこと。だが、神気は違う」
黒露が一度言葉を区切ると、突然体を翻した。
何をしているのだろうかと背から覗き込んでみれば、なにやら手近な石を使って岩に何かを書いているようだ。
「分かりやすく言うと、神気や怨気は人の持つ霊力とは違う。人が持つ気である霊力を、それぞれ神は神気、黄泉は怨気と個々同様に持っている。故に神人と常世人と蒼生人の三人種がこの世界に存在する」
「ほうほう」
黒露が手に持つ石で岩に白い棒人間を三人分描いて、なにやらそれぞれをピカピカ輝いている風に描写させた。
「それで、神々はこの蒼生人が住まう現世が鑑賞できない存在であり、この現世の理に影響されない不変の者。だから、呪物化の応用で神気をこの棒へ流せば、理を無視して俺の焚火のように火が具現化させられる、という理屈だ」
「ほえー」
それって、もはや反則技が可能と言うことではないだろうか?
ますます持って神気を持つ雅相は人外なんだと、しんみりした心地で実感するのだった。
「これをここの現世で言えば、無から有を作り出す。言い換えれば創造するという」
「だから黒露は、あの時役に立つって言ったんだね」
黒露の描いた謎の絵から黒露へと視線を移せば、彼はそうだと大仰に首を縦に振っていた。
あの時と言うのは、葬儀の時のことだ。
ようやく話がつながって、ほつれた糸がまた一つ解けた気分だった。
つまり勿怪と戦うとき、必ず蒼生人は神気を借りて属性を具現化させて戦うのだが、要は神気を使って勿怪を物理で殴るためと考えればわかりやすいだろうか。
「と言うわけで、お前はただ脳内でこの棒に火が灯る創造をして、神気を流し火を灯せばいい」
「わあ、かなり単純に言ってるけど絶対難しいやつだ」
雅相は遠い目をして、いつ頃会得できるかを無限に考える。
「そうだな。まず第一に、ただ神気を垂れ流せばいいと言うわけではない。体内にある神気を練り上げ、絡み付く蒼生人の霊力と神気を切り離し、そして神気のみ純度を高めて、神気を圧縮や拡張など自由自在に操り、棒の先端の一点に集中させないとだからな」
「初歩から難しっ」
――――と言うことで始まった、雅相の本格的な鍛錬は……初日朝から夕餉になるまで行われたが、何の成果もあげられずに終わるのだった。
***
「もう!ぜんっぜん火灯らないじゃんか!!」
それから数日時が経ったが、雅相の神気操作は一向に進んでいなかった。
現在は神楽岩に座して、結界を張って鍛錬を行っている。
上空からは鈍色の厚い雲が場をおおっており、大粒で激しい雨粒が結界を打ち鳴らしていく。
近辺にある川などもそれに伴って、泥で濁ってしまいあの神秘的で美しい様は濡れそぼってしまっていた。
「本当に集中力ないな、お前」
「し、仕方ないだろ!修行とかそんなの、これが初めてなんだもんっ」
「……彼奴は一体何をしていたんだ。放任主義か、あの莫迦」
これが興味のある書物類であれば全然集中できるところなのだが、如何せん未だに良く分っていない修業では発揮できるわけもなく。
兎にも角にも、黒露と言い争っていても詮無いことなので、彼から視線を外してもう一度体内で神気を練り上げていく。
ここまでは順調なのだ。
雅相が数日かけてなんとかこなした工程は、体内での神気の練り上げて、神気と霊力を切り離すことまでは可能になっていた。
しかしその先が未だに出来ない。
その後の、神気の純度とやらを高めて、黒露のように神気を薄く身に纏わせて火の形に持っていくことが未だに出来ていなかった。
(やって分かったけど、目を閉じてちょっとの間で棒に火を灯した黒露って、やっぱり化物だな)
まずもって、雅相が持っている火の属性の霊力に絡み付く神気を、二つに切り離すこと自体が難しいのだ。
どうやっているかと言えば、単純に斬る創造だと黒露に教わっているため、強引に脳内で創造しながら二つを切り離している。
なので集中力が必要不可欠なのだが、これがまた雅相は修行慣れしていないために、成功したりしなかったりと不安定であった。
「雅相、俺はまた野草を探してくるから修業していろよ」
「はーい」
そう言って神楽岩の上で寝転がる雅相を残して、黒露は増水している川の近辺で群草を探しに行ってしまった。
雅相はと言うと、暫く乾いた岩の上でごろごろ転げ回った後、突如がばりと起き上がって焚火の方へと視線を向けた。
黒露が灯した焚火は未だに健在で、結界もなしに雨に打たれているのに一向に消える気配が見えない。
「これが、世の理を無視した力。か」
じいっと見てみても、色と消えないこと以外を除けば普通の焚火にしか見えない。
いや、そこの根本から問題点だらけなのだが。
疲れた様にため息を吐きだして、再び神気の操作を行う雅相。
それから半刻も経たないうちに、黒露が何故か身を屈めて戻ってきた。
「あれ、早かったね」
「しっ」
突然戻ってきたかと思えば、今度は近場の大岩に身を潜ませて雅相に対して手招きをする。
恐らく何事かあったのだろうと想像に難くないため、雅相は緊張した面持ちで黒露の隠れる岩へと向かった。
「どうしたの?」
ひそひそと声を潜めて訊ねれば、黒露が親指で石の階のある崖の上を指し示す。
それでなんとなく理解する。恐らく何かがこちらにくるのだろう。
すると黒露は何かを見つけたかと思えば、どうやら黒露が灯した焚火だったようで、眉間に皺を寄せて忌々し気に舌を打った。
「遠いな。まあいい、火を消さねえと」
そう言って、彼がふうっと息を吐き出してから数舜の間――――ゆらゆらと激しく燃えていた焚火の炎がふっと消えた。
流石に今の雅相ならば何故火が消えたかくらいわかったし、息に含まれていたものも見えていた。
黒露が持つ黄泉の怨気が吐息に含まれていたのだ。
恐らく修行中の類のさらに神気を応用して操作したものだろう。
まさか物じゃなくて、無形のものでも物理になるなんて驚きである。恐るべし、神気。
思わず黒露の凄さに感極まって、緊張の只中なのに興奮して鼻息が荒くなってしまう。
「鼻息うるさい」
「ごめんなさい」
黒露に怒られてしまったので、興奮を抑えるのは無理でも取り敢えず鼻息だけでも隠そうと両手で鼻を押さえて息を止める。
そんな雅相が緊張感のないことをしていると、人らしき複数のものの声が段々こちらに向かってくるのに雅相はハッと気づいた。
激しく降る雨の中、ザリ、ザリ、といくつもの足音が石を踏みしめる。
「はー毎度毎度雨の日のみぃここさ来るんはしんどいのお」
「仕方あるめえ。村の仕来りにゃ逆らえねえべさ」
隠れている岩の横っ腹から顔を少し出して声のした方を確認してみる。
声からして、恐らく人であるとは思うのだが、この現世では黒露のような宵以外にも活動できる特殊な勿怪もいるので、注意が必要だ。
(ひい、ふう、みい……五人か)
雅相の視界に入ったのは、全身蓑をまとい薄汚れた直垂を身に着けた五人の男たちであった。




