第参拾弐:修業編五 国毀し。
「月の、尊。何故斯様な辺鄙なる地へ御出でで」
そう問うたのは月光によく映える赤い瞳に、一本角を持つ鬼の姿をした黒露であり、彼の視線の先にいる菫色の艶やかな髪を風に遊ばせる月の尊もとい、月読命に対してであった。
「んー何故だと思うかな?」
愉快気に肩を揺らす月読命の首元には、彼の海色の瞳とは対比のように、月光に照らされた*瓊色の大きな勾玉の首飾りが美しく輝きを放ちながら揺れる。
しかし当の黒露に月読命の考えなど分かるはずもなく、頭を垂れた状態で黒露は謝罪の言葉を述べた。
「どうか、下賤な私めに御前の思いをお聞かせ願えますでしょうか」
「あはは、そうだねえ。君がそこまでいうのなら」
なんて言っているが月読命がそれ以上なにかを語ることはなく、どうしたのかと不自然に思った黒露はちらと視線だけを月読命へ差し向ける。
そこで目にした光景は、目を大きく見開いて一点を見据える姿であった。
「其方、何故」
月読命に倣うように黒露も視線を背後へと移してみれば――――そこには、雅相がゆらりと覚束ない足取りで立ち上がった光景であった。
だが、おかしな点がいくつもある。
それは、少年の放つ神気も明らかに違うのだが、何といっても見開かれている瞳の色が血のように赤い色をしているのだ。
(もしや、乗っ取られたか?)
常の雅相と相反するその神気や瞳から見ても、恐らく雅相の内に閉じ込められている神が、何かの拍子に顔を出してきたに違いない。
そう考えると自ずと答えは出てくるわけで、雅相の内に閉じ込められている神と言えば一座しか有得なかった。
「……御饌の尊?」
「久しきですね。月の尊、そして」
御饌の尊が言葉を区切り、月読命へ差し向けていた視線をゆるりと黒露へと移して柔らかく微笑んだ。
その微笑みに黒露の情に湧き上がったのは、罪悪感と申し訳なさと、そして懐かしい気配に極まったものであった。
しかし今は感慨に耽っている場合ではないため、それら全てを押し殺して平静を保つ。
「御饌の尊、雅相は?」
「其方の尽力の賜物で、今は健やかに眠っておる。ただ、高龗神の放った淡雪の神気は想像以上にこの子の魂魄を侵食している。早めに貴布禰へ参じなさい」
やはりか、と思わず黒露の眉間にしわが刻まれていく。
なるだけあの、赤い淡雪を浴びないように庇ってはいたのだが、どうしても黒露とて限界がある。
そうなると高龗神の神気全てを取り除くには、放った本人に取り除いてもらわなければならないため、近いうちに貴布禰山にある貴布禰の宮へ行かなければならないだろう。
煩わし気に舌を打ちかけたが、思いとどまって黒露は頭を振る。
「しかし、何故雅相が高龗神に狙われたんだ?」
「あはは、私が言ったんだ」
二人の眇められた視線が一斉に月読命へと注がれる。
しかしそんな鋭い視線にも一切臆さずに、月読命はさらに笑みを深めていく。
「君を探していたら、なんだか面白そうな物と共にいたからね」
そう言って月読命が黒露に投げ放ったのは、神宮から立ち去る際に置き去りにされてしまったはずの雅相の沓であった。
それを険しい顔つきで受け取ると、握りつぶさん勢いで黒露は握り締めた。
「わたし、を?」
「あぁ。それが私がここにいる理由さ。まあ、最も今はそこな狐の方に関心があるけれど」
月読命の視線はゆっくりと黒露から背後にいる雅相へと移されて、彼は嬲るように雅相を見ながら舌なめずりをした。
その途端、突如背後から黒露でも驚いてしまうほどの宵闇にも異質に浮かび上がる美しい深紅がゆらゆらと辺りを照らす。
何事かと勢いよく振り向けば、御饌の尊が殺気に満ちた眼差しで神気を放っているではないか。
「ほう。我を殺したことに飽き足らず、我から後胤をお奪いになりたいと?」
「なに?また斬り殺されたいって?またあの醜い姿を私に晒す気なのかい」
更に対抗するように月読命さえも、美しい宵の中に浮かぶ深き滅紫の色味をした神気を放ち始める。
月読命はもともと三貴子の中でも、最も謎めいた存在でもあり力量は計り知れないが、以前は黄泉を統治していたほどの神である。
しかし訳あって、現在は天つ神にも国つ神にも属さない《宵の宮》という海原に存在する大綿津見神が治める綿津見の宮(龍宮)の中の一つを住処としながら月・宵または闇を統治している。
故に神気も天照大神が治める高天原にも、須佐之男命が治める黄泉・根堅州国にもそのどちらにも属さない意を含んで、美しい闇の色を纏っているとその昔誰ぞに黒露は聞かされていた。
それよりも、高神位である二座が衝突すれば、この場所は愚か遠く離れた都にまで二座の神気が溢れ返り、最悪この丹波・山城・但馬一帯が神気に侵されて、人々の肉体は耐え切れずに死屍累々と化してしまう。
非常にまずい。
「御二方、おやめください!!ここいら一帯を滅ぼすおつもりですか!?」
「黙っていなさい、我が愛しき孫よ」
「そうだよ、これは保食神と私の問題だ。其方には関係ない」
これほどまでにこの二座の仲が悪かったのかと、今更ながらに思ってしまうが保食神が殺気立つのも無理からぬこと。
なんせその昔、保食神は天照大神に言われた通りに彼女に会うために天下ってきた月読命をもてなしたら、汚いだとかで理不尽に斬り殺されたのだ。
その上死後宇迦之御魂神として、生を授かった彼女の眷属である狐を欲しがっている。怒るのは妥当だ。
だからといって、この国を滅ぼされるのをただ黙って指を咥えていられるほど、黒露もまた薄情ではなかった。
「斯様の問題は神気の影響を受けない、上で如何様にも為さってください!この国は関係ないはずだ!」
「むっ」
「……然り、か」
黒露の激しい剣幕に、二座はたじたじと言った様子で口を噤む。
果たしてそれは黒露の剣幕に押されたが故か、それとも何かを悟っての事か。
しかし怒りのあまり抑えの効かなくなった黒露の体からも、徐々に怒気に呼応するように溢れ出してくるのは――――怨気を含んだ黄金色の神気であった。
黒露の神気が外気に晒されると、神域である修行の場所の空気がバチバチと雷を弾いたような音が四方八方に激しく打ち鳴らされ、次いで岩の転がる足場の悪い大地が、黒露の怒りに反応するように震えだす。
「この国で好き勝手するのであれば、私も黙っては居られませぬ。故に悪しからず」
「ははは、なんて恐ろしいことを言う下郎なことかな」
更には黒露の睨みつける赤い双眼に、お手上げだと言いたげに月読命が両手を上げて力なく左右に振った。
それを認めた御饌の尊も、同様に月読命に倣うように両手を上げる。
二人の降参する意思を確認した黒露は、詰めていた息をゆっくり吐きだすとともに己の放つ神気も収めていった。
「いやはや。隠退したとはいえ、まだまだこれほどの力を有しているとはね。流石だよ」
感激したとぱちぱち拍手を送る月読命に、黒露は目を伏せて頭を垂れる。
「御二方に無礼を働いたこと、誠忝く思いまするに、お詫び申し上げます」
「いや。こちらこそ、其方の愛しきこの国を毀そうとした我に非がある。済まなかった」
そういう御饌の尊に至っては、我が子のように黒露の頭を撫でる仕草をしてくるが、黒露にとっては中々に複雑な心境であった。
安易に喜ぶには些か二人の間に横たわる絡まり過ぎた糸が邪魔をしてしまって、苦い笑みで応える事しかできない。
無論、それでも内心御饌の尊は黒露にとって尊敬に値する者のため、嬉しいのは嬉しいのだが。
「はいはい。じゃあ狐の件は置いといて、私が君に会いに来た話へ戻そうじゃないか」
二人の仲に割入るようにそう月読命が言うと、二人の視線を真向に浴びながら彼は御座石から飛び降りて、ふわりと軽やかに黒露の目の前へと参じた。
目をぱちぱちさせる黒露に対して、月読命が不意に黒露の顎を捕らえる。
「もう一度、この私に其方の力を貸してはくれないかい?」
「っな、にをお言いで」
瞬時に月読命の手を払い除け、黒露が一歩後退る。
「私が今、非常に不安定で危うい存在になっているのは、ご存じのはず」
「うん、知っているさ」
「ならば、」
しかし黒露の言葉を遮るように、月読命が瞬時に詰め寄って、黒露の言葉を紡ごうとした唇に手をあてがわれて制されてしまう。
驚きの赤い双眼に反射して映るのは、邪悪に歪められた海色の美しい瞳であった。
「君のその力を使い、この国を一度毀す女房役をしてやってほしい。そう、名付けるならば国毀しだ」
「な、なんということを!!」
絶句の声を上げたのは御饌の尊で、口をふさがれた黒露はただただその赤い眼差しを驚きと共に絶望の色へと塗り替えた、何も反射しない瞳でもって目の前の月読命を見つめるのだった。
注釈
瓊……赤色の玉のこと。もしくは瑪瑙ともいわれている。




