第参拾:修業編四 紅き淡雪は夜陰を誘う。
龍燈の杉が轟々と燃え盛る深紅の炎に包まれる様を、雅相はただ茫然と見上げていた。
何が起きたのか全く理解できなかった。
何故こんなことになってしまったのか、何故拝殿の傍にある杉だけが燃えて、周囲のものには燃え移ることなく一切の被害がないのか。
一体これが何なのか答えを求めたくて、博識な鬼の黒露へと自然と顔が向く。
「黒露、杉、燃えてる」
しかし当の黒露は何かを考えこむように、顎に手を添えて何か独り言ちていた。
「おかしい。龍燈は高龗神が、神木として祀られた杉たちへ神気を献ずるもののはず。何故こんな季節外れに?」
「ねえってば」
「まさか、ここは天の椅立にある龍燈の松と対なのか?いや、だがそも時期が」
「ねえ、黒露!!」
雅相が劈くほどに黒露の名前を呼べば、彼は体をびくりと震わせる。
驚きに満ちた赤い双眼が雅相に向けられると、黒露はまるで気が抜けた様に目を細めた。
「すまない。俺も何が起きているのか分かっていないんだ」
「えっそ、うなんだ」
博識な黒露でも、流石にこの状況までは理解しがたいらしい。
少々気落ち気味に顔を下げかけるが、今はそこが優先ではないことは明白だ。
まずは杉を燃やしている深紅の炎をどうにかしなければいけない。
「それより、あの炎を消すことは?見たところ、杉以外には燃え移っていないみたいだけど」
「当然だ。あの炎は、龍神高龗神の神気が杉に灯されているだけなのだから、被害などない」
思わず驚きのあまりひっくり返りそうになったが、雅相はなけなしの足の筋肉に力を入れて踏みとどまった。
「ど、どういうこと?なんで貴船の主祭神がそんなことを」
「龍神が杉に献じているのは、尊い神仏を神気で祝くためだ。それが淡海や川から献じる際に人目に触れてしまい、怪火・龍燈などと呼ばれるようになった」
その話ならば聞いたことがあった。別名神火とも呼ばれているもので、この国に数多の目撃談や逸話が残されている。
「なら、仮に高龗神が実在するとして、その貴い誰かに向けて祝うために杉を燃やしたってこと?」
「そういうことになる。だが、それはあくまで五節供などに成されるのが多い。こんな突発的に燈すなど有得ない。それにこれは」
一度言葉を切ると、目の前で燃え盛る杉を赤い双眼で眺めながら黒露が軽く息を吸った。
その表情は炎に煌々と照らされながらも、どこか険しかった。
「燈していない」
「どういうこと?」
雅相が首をかしげるが、それは分からないと黒露の首が左右に振られる。
確かに黒露が言いたいことはなんとなくわかる。これは燈すというより、燃やしているのだ。
まるでこの火を頼りにこちらへおいでくださいとばかりに誘導するような感じで。
本来龍燈とは、火の玉や提灯のように丸いもので淡く輝いているという事例を良く聞くため、こんなに轟々と燃えていては事例に当てはまるとは到底思えない。
不気味に燃え上がる目の前の杉がなんだか徐々に怖く思えてきて、雅相はそっと黒露の袖を引いた。
「兎に角、何か起きる前にここを一旦離れるぞ」
「え……うん。わかった」
流石に今度ばかりは黒露の言うことに賛同して、雅相は首肯する。
何か起きてからでは、祖父のいないこの場で雅相ができることなどほぼ皆無だからだ。
確かに黒露は強いが、その力自体がまだ未知数故に信じることはできない上に、いざ黒露が力を発揮して、その力が強大すぎるあまりに弱者の雅相が巻き込まれて死んでしまったなんてことになったら……堪ったものではない。
雅相が首肯したことを見止めた黒露は、素早く雅相の腕を取って、身を屈めて風の如く走り出した。
その速さのあまり驚いて反応に遅れた雅相は一度転びかけるも、片方の沓が脱げ落ちたことにより転ぶことは辛うじて防げた。
「はっや!!というか僕の沓が!?」
「そんなもん後にしろ!」
置き去りにされた沓は黒露の走る速度が速すぎて、どんどんとその存在を小さな影へと落とし込んでいった。
それは周りの景色も同じことで、先ほどまでいた元伊勢皇大神宮の建物なども同様だ。
まだ見てみたかったものなど沢山あったのにと残念に思うところだが、また明日にでも来ればこの気持ちも落ち着くだろう。
細く息を吐き出して、今度は目の前で腕を掴んで先導する黒露を見上げた。
視界がガクガクと揺れる中、黒露の横顔には先程とは違ってなにか焦りにも似た険しい表情が浮かんでいる。
(どうしたんだろう)
まるで何かに怯える様に逃げるその様は、尊大な態度ばかりする彼らしくないものだった。
「ねえ黒露!」
「なんだ!!」
やはりこれまた彼らしからぬ大きな声で、雅相の返答に答えてくる。
様子が明らかにおかしい。いや、存在自体がもともとおかしいのだが。
どうしたんだと雅相が口を開こうとした矢先に、後方から何かしら軽い破裂音が響いた。
ぱん、とまるで空気が破裂したような軽やかな音で。
「な、なに!?」
「分からん!だが今は走り抜けろ!!嫌な予感がする!」
黒露は一切背後を見ることなく、さらに岩戸山が綺麗に望める開けた場所さえも構うことなく突っ切っていく。
昼つ方に見た時とは一変し、陰りを帯び始めたことによって不気味にも、物悲しくも思える粛然たる場所。
雅相は何げなく石鳥居のある方へと視線をずらせば、強く眩いばかりに照る夕影が少しずつ岩戸山の中へと沈んでいっていた。
そんな幻想的で清げなる光景の中に、一筋の紅い淡雪が雅相の目の前をひらひらと降りていく。
「え?なんだろう、これ」
紅い淡雪はやがてゆるり雅相の鼻柱の上に下りると、じわりと皮膚に沁み込んで消えていった。
――――その瞬間、雅相の体がぐらりと傾く。
「あ、れ」
「っ雅相!?」
力の入らなくなった足はもつれてしまい、不意に沈み込んでいく雅相の体に驚いた黒露が、掴んでいた手を放してしまい、そのまま雅相は黒露の速さについていけずに地を転がっていく。
紅い雪が一つ、また一つと体に沁み込んでくるたびに体が大岩を乗せられたように重くなっていく。
まるでそう、一つの雪が童のような重さだ。
だがその他にも、雅相の体には様々な異状が生じていた。
(臓腑が、火に炙られるように、熱い)
臓物が、魂魄さえもが何か内から焼かれていく感覚に眉を顰めるが、雅相の意識がそれに堪え切れる訳もなく内と外からの攻撃に為す術なくこと切れるのだった。
***
「雅相!おい、雅相!!」
地面に横たわって微動だにしなくなった雅相の口元に、黒露が顔を寄せて呼吸を確認してみるが……風の通りは一切なかった。
「まずい、呼吸をしていない」
急いで雅相の体を横抱きにして持ち上げると、先ほどよりも一層俊敏な動きで赤い雪を掻い潜るように駆け抜けていく。
その様はまさに疾風の如くであった。
そうして修業の場として使っている藤の狐が《秘境》と名打つ場にある、神楽岩へとひとっ飛びで上がり込むと雅相の体を横たえさせる。
「くそ、何故こんなことに」
もっと早くにあの場所を離れていれば、或いは嫌な気を感じた時点で強引にでも雅相を連れ出していれば、と今更悔いても詮無いことなのだが、どうしても己自身に怒りが収まらない。
目の前で目を閉じている雅相の症状は一目瞭然だった。
(高龗神の放った神気に当てられたか)
通常、祝詞や真言を介して神気を得るのが習わしである陰陽師たちは、見鬼の才こそ持っているものの神々の強い神気にその身が堪え切れる訳がないため、己の持つ属性と祈りの詞でもって神気を緩和させているのが真実である。
なので、属性と祈りの詞二つを兼ね備えて初めて神気を拝借できるために、長期間体内に神気を宿すことは不可能と言うわけだ。
しかし妖人のように、稀に体内に神気を持って生まれる《半端物》は違う。
人離れした能力を宿し並の勿怪さえも容易に凌駕するが、その反動で他人の神気にはとても敏感だ。
「兎に角、以前行った要領で試してみるか。彼奴には神気はなかったが、上手くいくといいんだがな」
息をふうと深く吐き出して雅相の心の臓の前に手をかざす。
そうすれば、たちまちに黒露の体が薄く猩々緋の色味の膜に包まれ、次第に猩々緋の中に黄金の色味が散りばめられていく。
しかしその一方で、黒露の表情は苦悶に満ちていた。
「はあ、はあ……ぐっ」
雅相の体内から好き放題暴れ回っているであろう高龗神の神気を少しずつ吸い出していく。
他人の神気をまともに浴びたのだ。それも神位の貴い龍神高龗神のものを。
徒人なれば即死していたし、通常の妖人だったら死んでいたか或いは最悪自我を喪失した化生に――――。
(落ち着け。雅相が異常なのは既に分かっていた)
しかしそのどれともつかないのはやはり、雅相の何かが可笑しいからで。
黒露は払拭するように頭を振ると雅相から手を引いた。高龗神の神気を取り敢えず吸い出し終えたのだ。
そのまま疲れ果てた様に雅相の隣にばったりと倒れて、黒露は何度も浅く呼吸を繰り返した。
全身がびっしりと汗にまみれており、この術を使ったあとに何度も味わってきた、疲労と神気の過剰摂取による高い熱に頭がくらくらする。
「俺も、老いたか。くそ、老体に鞭打たせやがって。いや年取んねえけど」
黒露の浅い呼吸に交じって聞こえてくるのは、微かに寝息を立てている音。
ちらりと横へ視線を向けてみれば、雅相が胸を上下させて穏やかに眠っている横顔が視界に映った。
その顔にようやく安堵してほっと一息ついたのは言うまでもない。
雅相がもし死んでいたら、きっと藤の狐が悲しみに暮れてしまう。
そんなことは一切望んでいないのは己自身よく理解している。
だからこそ、藤の狐の大事にしている存在の者にはできるだけ黒露は心を砕くようにしていた。
本当は、他の奴らなぞどうでもいいし、面倒事を抱えている雅相なんてもっての外で関わり合いたくもないのだが。
一応呪印で縛られた主人でもあるし、安倍一族だから最大限に心を砕いている。そんな状況だ。
「はは、俺も落ちたものだな」
「本当にねぇ」
突如聞こえた声に黒露は勢い良く体を起こすと、周りをくまなく見回した。
しかし声の出所が分からず、己の体内にある神気も霊力も荒れている今では索敵は愚か隠形もままならない。
鋭い視線で自力に探そうとしたが、声が再び響き渡った。
「ここだよ、ここ」
今度こそ黒露が声のした方へと視線を上げれば、そこは御座石の上であった。
御座石に悠々と座る人物を目にした刹那、黒露の全身の毛が粟立つように総毛つ。
疲れで滲んでいた汗は氷のように冷えた汗へと変貌し、脈が逸るように刻んでくる。
御座石に座る人物は愉快そうな声音を上げる。
「久々じゃないかぁ。下郎の子」
御座石の上空に浮かぶ月光が、夜陰の冷たい風にそよぐ菫色の美しく長い髪を淡く照らし出していた。




