第弐拾 決別(複数視点あり)
トポン、
魚に引かれていた釣竿が、吸い込まれるように池の中へと消えていった。
祖父に何を言われているのか、全く頭に入ってこない。
急速に雅相の瞳から光が失われていき、黒く塗りつぶされたような瞳へと変わっていく。
「なに、いって、んの?」
「よく聞きなさい。これは大事なことなんだ。お前が狐の恩恵を授かるには、先代となる私を食べなければならない」
「え、え?どうしてなの?よく分かんないよ」
呆然とする雅相の瞳に映るのは、苛立たしげに爪を噛む祖父の姿。
こんな姿、雅相は今まで一度も見たことがなかった。
どうしてそんなに苛立っているのか?もしかして何か悪いことでもしてしまっただろうか?
いつも穏やかに接してくれる祖父のこんな姿、見たくなんてなかったのに。
「本来白狐は神に近い故にその生存は一匹だけとされている。何匹も神格を持つ眷属がいては不味いからね」
「そう、なんだ」
「故に白狐の後胤でもある安倍一族も例外に漏れず白狐の血を覚醒させた者は一人しか生存できない。何故か分かるかい?」
祖父の問いかけに首を振る雅相。
「簡単な話だ。白狐の恩恵を授かれる者は一人だけだからだ。引き継いだ当代も、継手も関係ない。たった一人しかその身に宿せない」
「え、」
「故に覚醒者が複数人になった場合、共喰いが始まるんだ」
ともぐい、ともぐいって、あの誰かが誰かを食べる捕食行為のことだろうか。
それさえも理解できないほどに、雅相の頭は混迷を期していた。
不意に祖父が雅相から顔を背けると、額を抑えて苦悶の表情をし始めた。額には微かに脂汗を滲ませている。
「じ、じっさま?大丈夫?」
「もんだい、ない。話を続ける」
でも、と祖父に手を差し出そうとすれば、ぱちんとその手を跳ね除けられてしまった。
祖父の手が当たった手がじんじんして、驚きとともにズキリと胸が痛んだ。
「お前は、何も感じないのかい?私からにじみ出る神気の気配とともに、私の近くにいると、私を殺せと囁いてくる声が」
「え?え、えっと、なにも」
「そんな、はずは……」
絶句する祖父が焦点の合わない目で雅相を凝視してくる。
その瞳がなぜだか酷く怖く感じて、思わずびくりと肩を震わせた。
まるでそう、昨日の祖父の第一声が発された時に感じた、嫌悪感や恐怖といったものに近しいだろうか。
「なにか、特別ななにかがお前に?」
「じっさま?」
「だが、そんな神気と血を抑え込むような限定的なものがあるのか?」
ブツブツと独り言ちる祖父に次第に不安と気味悪さを感じてくる。
怯える雅相には目もくれない祖父に、今まで黙って見守っていた黒露がフンと急に鼻を鳴らした。
「藤の狐よ。可能性としては二択しかあるまい。一つ、雅相が何かしらの特殊な力を有している」
「特殊な、力……」
黒露の言葉に雅相は心臓を鷲掴みにされた気分でひくりと顔をひきつらせた。
もしかしなくても、過去見のことを指しているのかと疑わずにはいられないからだ。
しかし、神気やらなにやらがこの過去見で抑え込めるかと問わられば、答えは否ではないだろうか?
ただの夢でそんな大層なことができるとは到底思えない。
「二つ目。誰かが雅相にそう言った加護或いは結界を与えた。それも俺たちでは探れないほどに隠すのが上手い奴だ」
「それは、君じゃないのかい?霊山の障穴を私の目から見事に隠したじゃないか」
「残念だが俺ではない。それに、仮にもし雅相に掛けられたモノがあったのならば、俺ですら感知できない強力で俺の霊力をも上回るものだ」
何がなにやらで話についていけない雅相だが、これだけはハッキリとしていた。ものすごく居心地が悪い。
黒露にじっと見上げられ、祖父からも射抜くように見据えられている。
「雅相、心当たりは?」
「こ、心当たりって?」
「なにか私に隠し事をしているのか、の話だ」
祖父の威圧的なた言葉に竦みはしつつも、必死に何か二人のやり取りについて思い当たるものはなかったか考えた。
加護、或いは結界。
果たしてそんなものを掛けられただろうか?
(そんなものあるはずが……待てよ。菅原倖人の情の中で確か)
昨日見た事を頭を極限まで回転させて思い返してみた。
なんだか戻り際にそれらしい事を言われていた気がしてならないのだ。
「あ、るかも?」
「それは、本当かい?」
「俺に隠すものとはなんだ?俺を凌駕するものとは?」
二人が食入るように詰め寄る中、菅原倖人との会話を思い返してみて、そしてようやく思い出した。
いろは祝詞を謳った後に、“餞別の加護だ”みたいな事を言われた気がする。
しかし待って欲しい。確か倖人とは他にも彼に関連する言葉を禁む契りも交わしていたはずだ。
ならば倖人に与えられた加護もそれに該当するのでは、と考えた所で雅相の顔は少しずつ青くなっていった。
「ごめんなさい。心当たりはあるけど、言えない」
「何故!?」
「く、口止めされてるんだ!」
それで二人とも察したのか、祖父が後者か、と呟く。
たったそれだけで人為的だとバレてしまうとは、流石の雅相も冷や汗が止まらない。
なるほど、だから雅相のことを口が軽そうだと倖人があの時言った訳か。と一人内心納得してしまった。
「分かった。これに関してはもう言及しないでおこう。だがこれだけは覚えておいておくれ。私は、お前とは同じではない、と」
「ど、どういうこと?」
「お前のように護ってくれるものは、私にはない」
つまりそれは何を指すのか。
全く理解のできない雅相は首を傾げることしか出来ない。
しかし祖父は先程よりも顔色を悪くする中で、雅相に穏やかに微笑みかけた。
ゾッとするほどの、曇一つない綺麗な微笑を。
「お前の気配に当てられて、突然理性をなくし、お前を食い殺す恐れがある。という事だ」
「は、」
さあ、と顔面から血の気が引いていく。
恐怖で唇が震え、浮ついた歯が微かに音を鳴らす。
そんなことは絶対に有り得ない、そう信じたい。
昔ここへ連れてこられた時、言ってくれたではないか。何があってもお前の味方だと。
あの言葉が、どれほど雅相を勇気づけてくれたことか。
(あの言葉は、嘘だったの?)
目の前にいる祖父がだんだん揺れ始め、瞬きをしたら頬になにか筋を作って流れ落ちていった。
「落ち着きなさい。男子がそう泣くものでは無いよ」
「あ、ぅ。ごめん、なさい」
祖父の指が目元に触れて、雫を拭い去っていく。
元服して二年も経つのに、この体たらくではきっと祖父から失望されてしまいそうだ。
しかし涙が取れて開けた視界に映ったのは、困った顔をしてるいものの、先程見せたゾッとする微笑ではない暖かな微笑み。
「継手のお前が答えを出すまでは、私もできる限り死力を尽くして抑える。だから、良く考えて選びなさい」
「えら、ぶ?」
「あぁ。私を食って白狐の恩恵を賜るか、それとも私に食われるか」
そんなもの、選べる訳が無い。
ならばいっそ逃げて逃げて、祖父が気配とやらを追えないほど遠くにいけばあるいは。
「これは安倍家に生まれて覚醒した者の宿命。逃げること適わず。時が経てば経つほど白狐の力は増幅していき、己の敵の気配を辿い追い求む」
「敵って、もしかして僕の、こと?」
祖父が静かに頷いた。
つまりは地の果てまで行こうとも逃がさないということか。
「私も選んできた道だ。その時は、私に否と答える隙もあの人は与えて下さらなかったが」
「じっさまも、誰か食べたの?」
「そうだよ。曾祖父安倍晴明を食らった。故に今こうしてここに生きていられる」
がたりと音がした。
それは雅相が祖父から逃げるように仰け反って床に手を着いた音。
その拍子に隣にいる黒露にぶつかりかけたが、どうやら難なく避けたようだ。
「なんで、なんで?」
「そうするしか、道がなかったから」
そんなはずない。
もっと何かこう、模索して二人とも生きる道だってあったはずだ。
なのにどうしてそれをしなかった?人を食べるなんて正気の沙汰とは思えない。
気持ちが悪い、剰え血の繋がった者を食べる祖父がとてつもなく嫌悪感に値する《何か》に感じてくる。
胃の腑を誰かに叩かれる不快感を覚え、そのまま喉へと熱い何かがせり上がってきた。
急いで池の方へ駆け込めば、軽く食べた朝餉の食材たちがまだ消化途中のまま吐き出される。
「ぉ゛ええ、うっぐ。え゛ぇ」
「雅相!」
祖父が背を摩ろうと伸ばしかけた手を、雅相は思い切り払い除けた。
単純に触れられたくなかった。嫌だった。
キツく祖父を睨みつければ、祖父は一瞬だけ目を大きく開き、するりと身を引いた。
「僕に、金輪際触るなっ。この、外道!」
「っ!!」
祖父の整った顔立ちが苦悶に歪む。
雅相もハッと我に返れば、祖父から顔を逸らした。
今のは、確実に祖父を傷つけた言葉だった。それは理解していた。早く謝らなきゃ、取り返しがつかなくなる。
……しかし雅相の口は枷でも付けられたかのように開いてはくれなかった。
喉まで出かかっていた謝罪の言葉も、ぐちゃぐちゃな感情とともにすう、と腹の底へと沈んで行った。
雅相は居た堪れなくなってきて、何も言い返してこなくなった祖父を置き去りにその場を後にした。
***
相良視点
「外道、か」
雅相の背中が豆粒ほどになってから、ようやく思考が正常に回り出した。
途端に襲ってくるのは、とてつもない疲労と倦怠感、そして背に大岩でも乗せられたような重たげな身体。
相良は耐え切れなくなってその場に倒れた。
「おっと」
しかし、床板に打ち付けられるはずだった体は誰かの手によって抱き留められる。
また青龍が助けてくれたのかとぼんやりとする頭で考えてみれば、薄ら開けた視界に飛び込んできたのは――――青龍、ではなかった。
昨日の雨が嘘のように陽が照る中、影になった顔に浮かんだのは、光を含んで輝く猩々緋のような赤い瞳。
「ゆき、ひと?」
「ん?」
何時ぞや振りか。まさか、またあの人に相見えられる日がくるなんて。
視界がぼやける中でもはっきりと分かる、その特徴的な赤い瞳に向けて手を伸ばす。
「おい藤の狐、助けてやったのに目潰しとは豪胆だな」
「ふじの、きつね?」
「そうとも。お前は藤の狐だろ?他に何がある」
徐々に焦点を合わせていけば、相良の目の前にいたのは一束に高く結われた黒髪を風になびかせる人型姿の黒露であった。
相良が呆然とする中、遠くから相良の名を呼ぶ十二天将たちが駆け寄ってきていた。
「っ貴様ァ!相良に薄汚い手で触るな!!」
「なんだ、此奴をこのまま落としてもいいのか?」
ズカズカと怒り肩で近寄ってきたのは瑠璃の髪を逆立てた青龍で、黒露がニタリと嫌な笑みを見せればビタっと足を止めた。
意識朦朧としている相良を傷つける訳にはいかないため、止むを得ず近寄るのを止めたと言った所か。
更に青龍の後ろから近寄ってきたのは黒紫の髪を持つ女人の勾陳で、青龍の肩に手を置いた。
「少しは静かにしろ。相良の身体に響くだろ」
「ぐっ」
「そうともそうとも。この死に急ぎ男の体に障るぞ?」
絶句する青龍。しかし勾陳は軽く息を吐き出すに留めた。
「先程の此奴の話を聞いていれば分かる。この藤の狐がずっと雅相の放つ神気に己の霊力で相殺させながら耐え忍んでいたことくらいな」
「相良、お前まさか白狐の仔細を告げてしまったのか?」
驚愕に目を剥く青龍が相良に視線を移す。そんな青龍に刺々しい視線を向けられた相良は、ゆっくりした動作で顔を逸らした。
「な、成り行き……で」
「お前は幼子か!」
「……お前が雅相の意志を確認するだけだといったから信じたというに。全く、呆れてものも言えんな」
青龍と勾陳の集中砲火に相良は思わず首を竦ませた。何も言えない、ぐうの音も出ない相良。
そんな3人の仲睦まじいやりとりに、黒露はふと笑う。
「それで、このまま此奴を私室に運んでも?」
「なっ!私が運ぶ!」
黒露から奪い去ろうと手を出す青龍に、勾陳が手で制した。
「あぁ、手間をかけるが頼む」
「勾陳!?」
明らかに何故?と言いたげに青龍が勾陳を見ているが、勾陳は目を伏せて聞かぬフリである。
その勾陳の言葉に面倒くさいなとでも言葉が乗りそうな長いため息で持って黒露は応えた。
そうして体勢を立て直そうと相良の体を持ち直せば、黒露よりは幾分か上背のある相良を軽々と横抱きにして、そのまま二神を置いてさっさと釣殿から歩き去るのだった。
「藤の狐、お前の私室に案内しろ」
「倒れた人間に随分な仕打ちだね。まあ、構わないが」
「元気ではないか」
じっとりとした目で相良を見る黒露。しかし相良は降りる気はないようで、目を合わせようとしてこない。
心做しか、少し頬が朱に染まっている。
まるでその横顔は、さながら拗ねた若い青年を彷彿とさせるもので、どう見たって百年生きた白狐とは到底思えない。
「その、釣殿から私の私室まで、結構な距離があるが……大丈夫なのかい?」
「たぶん問題ないだろ。俺が逃げる意志さえ持っていなければ何処まででもいける。と思う」
「随分と曖昧だね」
くつくつと相良が力なく笑った。
そんな笑みに黒露が咳払いをすると「そんなことより」と己の曖昧な言葉をはぐらかすように口を挟む。
「俺が雅相に死なれては困ることは、分かっているよな?」
「勿論さ」
「ならば、彼奴が食われる選択をする前に俺が今ここでお前を殺すことも可能なことも、か?」
相良が黒露の赤い瞳をしっかり見据えたまま浅く頷いた。
それを知っていて尚自身を運ばせるその度量、感銘に値はするが何がしたいのかは謎である。
「何故己の身を危険に晒してまで俺に身を委ねた?」
「さあね。正直私自身でさえ分からないよ」
「は?」
赤い目をきょとりとさせて間抜けな顔で相良を見やる黒露。
相良は思わず鬼にしては綺麗なその顔立ちの素っ頓狂な表情に軽く吹き出してしまった。
「……失礼な奴だ」
「あ、あぁ済まない。余りにもおかしくて」
「もういい。興が冷めた。まあ元々殺す気はなかったが」
疲れたように長めの息を吐いた黒露は、そっと相良を一瞥した。
「それで、雅相を今後どうするんだ?」
「無論、あの子にはこれから私の跡を継いでもらうために、私の全てを叩き込む」
それはつまり、相良の中では既に己の結末を決めている事に他ならない。
雅相に二択与えておきながら、雅相にははなから選択肢自体存在しなかったという訳だ。
死に急ぎ男、ではなくとんだ死にたがり男だったということになる。
「それまで藤の狐の体が耐えられるのか?」
「前例がないから、流石の私にも予測がつかない。だが、あの子に全てを託すまでは私も抗うつもりさ」
「健気なことだ」
黒露の呆れを含んだその吐息は、相良の奥底に封じたあの日の記憶を、弄らしく撫でるようにむず痒くさせた。
やはりどこか、仕草やら言葉使いやらが似ている。もしかして――――
(いや、そんなはずがない。あの人は、菅原倖人は、既にこの世にはいない。なんせ)
相良自らの手で、彼の首を切り落としたのだから。
輪廻転生など信じていない。なぜなら何百年も生きる白狐には当てはまらないのだから。
相良はほくそ笑む。今はただ、倖人の空似の他人に身を委ねて私室へ運ばれるのだった。




