第拾漆 答え合わせ。
天后が開け放った遣戸の向こうには、藤色の髪を持つ祖父と、祖父を呼びに行った勾陳が後ろに控えて立っていた。
「雅相、目が覚めたのだね」
どくり。
雅相が首を縦に振って「うん」と声を嬉しげに発し掛けた瞬間、心の臓が何故か大きく脈動した。
一気に全身に駆け上がってくる悪寒、怖気、威圧感。言葉で言い表せない圧迫感がずっしりと大岩の如く重くのしかかってきた。
何故?祖父が声を発しただけなのに、その紡がれた言霊が雅相に向けて殺意を含んで突き刺してくるような錯覚に陥る。
謎の恐怖に侵されて、雅相の呼吸は乱れ、じっとりとした汗が全身から滴っていく。
雅相の異変に気付いた祖父が隣に座すと息を短く吐き出した。
「やはり天運には逆らえないのだね」
「じ、じっさま。天運て、なに?なんのこと?」
「……まだ話すには早いと思っていたが。覚醒してしまったのなら仕方ない、か」
御簾の向こうに思いを馳せるように祖父の視線は外へと移動する。
雅相も何かあるのかと後を追えば、真っ暗な闇に包まれた世界を覆うように、庇を打つ単調な雨音が、湿った独特の雨の匂いが雅相に訴えかけてくる。
――――落ち着く。雨は割かし好きだ。
泣いてる時とか涙を洗い流してくれたり、何も持っていない雅相の情を雨粒一つ一つが身体に触れる度に埋めてくれるようで心地がいい。
そう思えば、少しはこの気持ちの悪い嫌悪感も紛れるというもの。
しかしいつまでも雨に集中する訳にはいかないわけで、祖父が微かに息を零したのを拾い上げて一瞥する。
「今回の鬼の騒動だが、我が安陪一族だけが何故狙われたか、そしてその中でも何故天后と吉和と壽実と平匡が狙われたか分かっているかい?」
「安部家が狙われたのは、《狐の妖人》だから。だよね?」
「あぁ、その通りだよ」
壽実が一番最初に殺された大番役で、吉和は二番目に殺された官職持ちの陰陽師、平匡は三番目に殺された木の分家の当主に当たる人物だ。
この三人が唯一共通しているのは《安部家》という枠組みなだけであって、霊力に関しては一番最初の壽実は一番低い。
他二人は確か噂ではそんなに大差はなかったはずだ。
天后に関しては安部家の総代である祖父が使役する式神だから狙われた、と考えればなんとなく納得はいく。
「《狐の妖人》は大前提として、他にも理由がある。恐らく今のお前ならば、遺体の傍によれば真相が分かるはずだよ」
「それって、どういうこと?」
不思議に思いながら小首を傾げれば、御簾を見ていた祖父が雅相に視線を移動させる。
その表情はとても穏やかなのに、どこか悲し気で寂しげな感じだった。
どこか苦しそうな表情に向けて、何か言わなければ行けない気がしたのだが……未熟な雅相よりも年嵩のある祖父に何を言えばいいのか結局思い付かずに口を閉ざす。
すると、祖父が話を区切るようにぱんと手を叩き、「この件に関してはまた明日に」と言葉を添えると、息を軽く吐いて、雅相の衾の中で不自然にこんもりと膨らんでいる部分に視線を向ける。
「隠れていないで出てきなさい。そこの黒猫」
「な、な~お」
「おや、おかしいな?うちは人語を介す化け猫しか置いてないはずなんだが。ただの野良猫が紛れ込んでいるならば早く見つけ出して邸から追い出さなければ、ね?」
「ふんっ」
祖父が眩しいくらいの微笑みをたたえながら見守る中で、黒猫はのそのそと尻尾を下げて衾から這い出てくる。そうして空いている祖父の隣にどすりと足を広げて人間さながらに腰を下ろした。
猫背で前足をだらりとさせた状態で、見る者によっては愛くるしいと声を大にしていわれるかもしれないその座り姿。まあ中身鬼なのだが。
そんな黒猫に祖父は未だににこやかな表情のままで、彼の頭に手を置いてよしよしと頸が折れるのではないかと肝が冷えるほどにぐるぐると撫で回す。
頭を撫でられるのはうらやましいが、あの撫でまわし方は絶対に嫌だなあと思いながらぼんやりと二人を眺める雅相だった。
「さあ、飼い主である雅相が目を覚ましたんだ。騒動についての真相を聞こうじゃないか?」
「……ちっ仕方あるまい。契りを破るのは性に合わんからな。教えてやろうじゃないか」
「契り?何の話だよ?」
天后も勾陳でさえも何か知った風に流し目で黒猫を見つめているのに、自分だけが事情を知らないことに疎外感を覚えて説明を求める様に周囲を見回す。
するとその視線に気が付いたのか、天后がすり足で近付いてきて耳打ちしてくる。「昨晩此度の騒動について問い質したら、若君が起きてからでなければ嫌だ、と。お前たちの命令は聞けぬと仰って」。
……それで雅相もようやく納得して思わず苦笑いを浮かべてしまった。
「まずは霊山に配置されていた四つの障穴について。あれは君の仕業と断定して良いね?」
「……ふん」
「じっさま、霊山って何の話?そんなこと何も聞いてないよ」
「あぁ、急な話だったからね。実はこの三日の間は愛宕山、鞍馬山、天王山、比叡山に突如出現した小山のような土塊からできた障穴を調伏して回っていたんだよ」
「えっそう、だったんだ。何も知らなかったや」
「知らなくて当然だよ。この家の者には誰一人告げずに出立したのだからね」
まるで宥めるように穏やかに微笑む祖父だが、正直そんな気遣い何て不要だ。
祖父がただの散歩をしているはずがない。
いつも前触れ無く出掛けているのはきっと、お偉方に動かされてのことだとわかりきっていたから。
でも、何も言われずに残される人間の気持ちも分かって欲しかった。
だから周りに祖父は《長い散歩》をしているなんて祖父の格を下げかねない嘘をついた。
それが今更ながらに罪悪感に変わって、己の浅はかさとみっともなさを露呈された気分になり衾をぎゅっと握った。
そんな雅相の心情など露知らず、祖父は話が逸れたのを訂正しようと咳払いを一つ。
「それで、君は私を霊山に閉じ込めて一体何がしたかったのかな?大方は予想が着いているのだけれど、君の口から直接聞きたい」
祖父の問いかけに黒猫はふいと顔を明後日の方へそらす。
「俺はただ、軽く足止め程度のつもりで藤の狐の邪魔が入らないように障穴を二つ山に作ろうとしただけだ。そしたら、久々の大量の霊力消費に身体が追い付かず、暴走して四つになってしまった」
「力が、暴走して、二つが四つに……増えた、と?」
「そうとも。ならばと、ばらけた障穴を使って最低は四つの御柱が必要な御封術を作ってやろうと予定を変更して霊山に仕掛けたまでよ。ちなみに四神相応風になったのはまぐれだ。他意はない」
「なんてはた迷惑な……」
「えぇ……」
天后の呟きに呼応するように引いたような声を出す雅相。
さすがにこの場にいる皆が呆れ返ってしまったのか、辺りが静寂に包まれた。
しかし当の黒猫は恥ずかしさを紛らわせようとしているのか、前足で器用に頭を撫でている。
……そんな仕草で許されるとでも思っているのだろうか?雅相の内心では怒りを通り越して茫然自失だが、祖父は苦い笑いで、他の勾陳と天后たちは盛大なため息をついている。
「こほん。何はともあれ、私を足止めしようとしていたことに変わりはないのだね」
「まあな。藤の狐からは他とは比べものにならぬほどの狐の匂いがしたからな。最後に狩ってやろうと思って」
「ちょ、ちょっと待った。でもそれだと都に現れた障穴は?じっさまが調伏していた障穴は既に三日前にはあったのなら、遅れてできた都の障穴の意味は?」
「都のはその女人を誘き寄せるために俺が丹精込めて作っただけだ」
「……それはどうも、わざわざ有難うございます」
猫がくりくりの赤い眼で天后の方を見やる。
その瞳に応えるように天后も驚くほど低い声で応えて、睥睨した目で黒猫を睨み返すのだった。
これはまずい、雅相自身で問い質しておきながらまさか天后がここまで黒猫を憎んでいたとは思ってもみなかった。
慌てて別のことを聞こうと目をあちこちに散らしながら何かないかと考えてみる。
「え、えーと、そうだ!他にも黒猫に聞きたいことがあるんだ」
「なんだ、言ってみろ小狐。今の俺は自我と安寧を手にして上機嫌だぞ」
「意味わかんないし。噂では数日前まで因幡国にいたって聞いたけど、なんでそんな遠くから都にきたの?」
慌てふためきながら聞いたのは、以前学生の仲間が噂していた鬼の話だった。
まず因幡国から都まで土地勘があって、寝ずに休まずにでようやく四日位で着く。
無論土地勘がない人ならば、それ以上掛かるだろう。
勿怪がそんな事をしてまでやってくる理由が見当たらない。
そんな雅相の純粋な疑問に、黒猫は猫背で天を仰いだままに口を開いた。
「本来であれば、こんな遠い地に来る気はなかった。が、行かねばならない理由ができた」
「理由?一体何さ」
「藤の狐以外の、いけ好かぬ匂いがここに漂っていた。俺はそれを最優先に殺すために辿ってここに導かれたのだ。故に藤の狐の邪魔が入らぬよう都から遠ざけなければならなかった」
いけ好かない匂いとは、一体なんの事だろうか?不思議に思いながら首を傾げるが、雅相の無言の問いには応えてくれる気はなさそうだ。
(あれ?てことは、じっさまの匂いに釣られて来た訳ではない?)
この黒猫(鬼)が来襲する前日に都に一度戻ってきていたから、信じたくはないが祖父の霊気に釣られたものだとばかり思っていた。
しかしよくよく考えれば、祖父を足止めだとか邪魔されないようにだとか言っていたから、それは雅相の誤解であったということになる。
内心それが分かってほっとしてしまったのも束の間、そこでまた一つの疑問がまた生まれた。
その黒猫が言う最優先で殺さなければいけない人物とは何なのかの事だ。そして既に始末してしまったのだろうか。
「えっと、その人物はその、殺せたの?」
「いや、どうやら強力な加護を与えられているようでな。俺では近付けなかった」
「そう。そっか、よかった」
なんだか複雑な心持になってしまう。もしその最優先に狙われていた人物が、本当に殺されていたら黒猫は満足して安部を狙わなかったんじゃないのかとか、でも狐の妖人を殺すことが狙いなら結果的に変わらなかったかも知れない訳で。
悶々とする雅相が顔をうつむけていると、祖父が「その前に」と素気無く言い放った。
「この子が何故《狐の匂い》だけ嗅ぎ分けられるかの不可思議さには誰も焦点は当てないのかい?」
「あ!た、確かに。勿怪が沢山の匂いの中で狐の匂いだけ嗅ぎ分けられるのって奇妙だ。そんなの聞いたことないよ」
祖父に賛同するように雅相も天后も勾陳もこくこく頷く。
まずもって勿怪が特定の者を追うことは不可能だ。
何故なら大概が怨念に憑りつかれて我を見失っていたり、未練を残して訳も分からず彷徨っている類なのだから、必然的に特定の、それも種族単位を《匂い》で嗅ぎ取るのは不可能である。
というか今の今まで五感が存在すること自体知らなかった。人間を食らう勿怪は大概が死霊や浮霊なのだから。
無論一概に霊のみが勿怪になるとは言いきれないが。
しかし一方の黒猫はふんすふんすと鼻息を鳴らして、恐らく腕組みらしきの手を交差させた態勢を取っていた。
「俺にも知らん」
「「「知らない?」」」
「そうとも。意識が覚醒したころから狐の匂いをかぎ分けられた。よって知らん」
背後で太鼓がどどんとなりそうなほど偉そうに黒猫が言うものだから、三人は疲れた様に一斉に息を吐き出すのだった。祖父は愉快そうに笑ってたけど。
いやまあ遺伝とか体質ならまだわかるけど、勿怪にそんなものがあるのだろうか?
もしかしたら純粋な信仰や自然から生まれた勿怪であれば可能性もあるかも知れないが、まず雅相はそんな霊以外から生まれた勿怪を見た事がない。
悶々として考え込んでいた雅相だったが、暫くして一頻り笑い終えた祖父が咳払いをすると、「とりあえず」と口火を切った声で場を取りなした。
「この子の騒動の真相に関してはこれで一段落とする。このことは誰にも口外することを禁む。いいね?」
「畏まりましたわ我が主様」
「承知した」
「じっさまがそういうなら……」
それぞれが沈痛な面持ちで口々に答える中、黒猫だけは暢気に欠伸をしていた。
正直今すぐにでもこの黒猫を自邸から追い出してやりたくてたまらない。
力が暴走して都周辺に都で見た障穴ほどのものをいくつも作っただって?莫迦にもほどがある。
じっとりとした目で雅相が黒猫を見ていたが、ふととあることに気づいた。
(あれ、そういえばさっきまで苦しかったのに、何も感じない?)
祖父が第一声を発してから暫く経つが、それ以降からは紡がれる言霊から何も感じない。
あれはなんだったんだと衾の中で不思議に思っていると、祖父が目を細めて「雅相」と名を呼んだ。
「一月程は忌中になるだろうから、大内裏の出仕は控えるように」
「え!?いや、で、でも。一族とはいえ僕にとっては殆ど知らない人たちだよ?」
「雅相、お前は誰の孫かな?」
目を数回瞬かせて「じっさま」と無に等しい感情で答えれば、祖父がそういうことだと言いたげにふと笑った。
いやいや、全く説明のなされない謎の笑みをされても雅相とて分かるわけが無い。
答えをくれよと視線で訴えかけみるも、祖父は雅相の視線に一切気付かずするりと立ち上がって部屋を出ていこうとする。
慌てて雅相が「じっさま!」と無意識に呼び止めれば、祖父は遣戸にかけていた手をピタリと止めていた。
ま、まずい何も考えてなかった。どどうしようか?咄嗟に反射的に呼び止めてしまったが故に内心焦ってしまう。
「あ、あのえーと。そう!文、僕の文ちゃんと届いたかなって」
「……」
「ごめんなさい。何でもないです」
祖父の無言に全身から汗が滝のように流れ出してくる。
これはまずい雰囲気なのでは?もしかして、怒った?
よりによって部屋を出ていこうとする手前の祖父(総代)を雅相(下の人間)が呼び止めるのは失礼に当たる。
辛うじて口には出ていないが、ひいいいと今にも言霊になりそうな程に喉まで出かかっていた。
――――しかし、それは杞憂に終わる。
祖父が戸に視線を向けたままではあるが、くすりと微笑んだのだ。
「そういえば、もう端午の節句の季節だったね。丁度いい、明日の日の入りとともに裏庭にある泉に菖蒲草を浮かべて、その身に帯びた穢れを落としなさい」
「!!っはい!」
「あぁそうだ。天后、しばらくの間は雅相の看病をすることを命じる」
「かしこまりました」
そして今度こそ祖父はその場を辞したのだった。