第拾陸 化け猫。
「まだ、聞きたいこと、が」
必死に前に向かって腕を伸ばす。そうすれば、誰かの暖かいぬくもりが手を包み込んでくれたのを感じて、倖人の手かと、雅相の思いも共に届いたのかと思い、恐々と薄っすら瞼を押し上げる。
しかし一番に目に飛び込んできたのは、血のように赤々とした両目ではなく、悲しげな瞳で覗き込む灰色の瞳をした天后だった。
「てん、こう?」
「はい、若君。天后でございます。若君」
「相良に知らせてくる。天后は雅相を見ていてくれ」
「畏まりましたわ。お願い致します勾陳」
そう言って部屋を出ていったのは、女人にしてはかなりの上背のある黒紫の髪を短く切り揃えた勾陳だった。
まず何故天后が自身の手を握っているのかも謎だが、あまり雅相に関わろうとしない勾陳さえもが部屋にいた理由も今の雅相には理解できなかった。
呆然と勾陳が出ていった遣戸を衾の中で見つめていれば、天后が握っていた手に力を入れた。
「若君。此度の騒動で、私は貴方をお守りできませんでした。無力でした」
「天后?」
「私は、相良様の霊力を奪うだけの霊力食いの式神です」
一瞬天后がなんのことを言っているのか頭に入ってこずに、右から左へ受け流してしかけたが……ふわふわした頭の中で思い起こされるのは、鬼と戦った朧気な記憶だった。
(えーと倖人殿が鬼で、天后と共に対峙した鬼が行信のご先祖さまで)
先程まで見ていた記憶は今でも鮮明に思い出せる。だからゆっくりと記憶と天后の言葉を繋ぎ合わせて咀嚼して、反芻して咀嚼して……ようやく天后が何を言っているのか理解する。
もしかしなくても、天后は雅相を鬼から救えなかったことを悔いているのではないだろうか?
「何言ってんだよ。天后は何も悪くない。僕が天后の言う事を聞かなかったからいけなかったんだ」
「いいえ違います。炎縳がいなければ何の役にも立たない私がいけないのです」
「天后!なんでそんなに自分ばかりを責めるんだ!!僕だって……!」
言い募ろうとする雅相の唇に人差し指を置いて、厳しい顔で首を横に振る天后。
第一天后は戦闘に特化した神ではないのは雅相でも知っていることだ。なのに今回のことで天后を責めることは筋違いと言うもの。
だからこそ守りに長けた天后は安陪邸の結界の修復に当てさせ、雅相自身は補修にかかりきりになる天后に手を出させないように前衛を買ってでたのだ。
しかし雅相はその役目さえ果たせなかった。剰え天后の手を煩わせた責任がある。
それなのに何故天后が自身を責める理由が分からない。
天后が自身を攻める度にズキズキと胸の辺りが痛んで、痛みがじくじくと膿を孕むように気持ち悪くなって、吐き気が口腔にまで押し上がってくる。
何か話を逸らさなければ本当に吐いてしまいそうで、悶々と考えていると……ふと、雅相を助けてくれた赤い肌をした顔に大きな札を貼った小鬼の千里眼の存在を思い出す。
確か千里眼は業火に呑まれて消滅したはず。
しかし神の眷属でもあるから、死ぬのだろうか?それと、安倍邸の結界が完全に補修されたのかも知りたいところだ。
実直な天后が結界の補修を放り出してまで助けてくれたとは思えないが、天后の気を逸らせる話題としては充分だろう。
……補修を放り出してまで来てくれていたのならば、それはそれで嬉しいのだが。
「そ、それより、千里眼はどうなったの?結界は?」
「どちらも大丈夫です。結界も私が完全に修復致しましたわ。千里眼は、神の眷属故消滅することはございません。記憶は無くなってしまいましたが」
「えっうそ、だろ?」
「誠にございます。神も、神の眷属も死することはなくとも、一度消滅すれば代償は必ずありますから。私たちは万能ではありませんので」
「っ!!」
天后に何かを言おうとして勢いよく起き上がりかけたが、上手く全身に力が入らず起き上がることができなかった。
それでも必死に起き上がろうと軋む腕に力を入れるが、敢え無く天后の手によって押し戻されてしまう。
「無理はなさらないで下さい。霊力の消耗が激しいのです」
「えっなん、で?」
目をまん丸に大きく瞬かせる雅相に、「憶えておられないのですか?」と天后も目を瞬かせる。
霊力を消耗しきるほどの重大なのだ、相当のことがあったのだろうが正直鬼との戦闘時ですでに大半を消耗していたが、今の状態になるまで消耗した記憶はない。
雅相が首を横に振れば、天后は少し寂しそうな顔で微笑んだ。
何故天后がそんな表情をするのかは分からない。
でも、こんな顔をさせてしまうような事をした過去の自分がいるのも事実だ。
息が詰まりそうで、天后に視線を向けるのをやめ衾を握る手へと移す。
「済まない。本当に」
「若君が謝られることではございませんよ」
「でも、そんな顔させるようなこと、あったんだよね?」
天后からの返答が返ってこない。ちらりと一瞥してみれば、美しい灰色の瞳を伏せて雅相の顔を見ようともしてくれていなかったのだ。
何でも話してくれる関係だと思っていた。幼い頃から一緒だったんだ。さらに言えば母のように慕っていた。からこそ、天后の悲しむ理由も教えてくれると雅相は信じていた。
でも、結果は違った。ずきりと心の臓が針に刺されたような痛みを伴って、片手で着物を掴む。
そんなずしりと重い空間へと変わった部屋の中で、ニャーと鳴くこの場にふさわしくない暢気な動物の鳴き声が響いた。
「……にゃー?」
「あっこら!若君にそれ以上近付かないで下さい!!」
天后の慌てた制止もむなしく、とててと軽い足取りで雅相の寝る衾の上を歩いて何かが近づいてくる。
若干の重みを感じはしたが、どっしり重たいと言う訳ではない。
そしてきょとりとする雅相の視界いっぱいに飛び込んできたのは――――星を散りばめた様に艶々な毛並みのしゅっとした顔立ちをした、両目が赤い黒猫だった。
「ねこ?」
「にゃあー」
「はは、艶々した黒い毛並みだな。それに丹の石見たいに赤くて綺麗な目」
「にゃっ」
黒猫が雅相の顔をたしたしと叩いてくる。しかし痛みはなかったため、薄桃色の肉球がぷにぷにして気持ちがいい。
この重たくなっていた部屋の雰囲気をまるで和ませてくれている気がして、思わず顔を綻ばせて雅相は気が緩んでしまう。
「でも、なんでここに黒猫なんて」
「何故だと思う?」
「えっ」
猫が突然人語を喋ったことに、石像にでもなってしまったのではないかと言わんばかりに雅相の体がびきりと硬直した。
この猫は間違いなく勿怪だ。人語を介す猫など絶対にいないし、よくよく見れば艶やかな尻尾が三又に分かれているではないか。
嫌でも待て、猫って皇族や公卿が飼うあの高貴な動物であって、なんで勿怪がそんな姿になる必要性が?いやいや今はそんなことを考える場合ではない。いやいやでもでも。
内心しっちゃかめっちゃかで、雅相はもう訳が分からなくなってしまい両手で顔を覆う。
しかし当の黒猫はなんでもなげに自らの手をぺろぺろと舐めて毛繕いをしている。
「天后、この猫どっかの高貴なお猫様に化けた猫?」
「いいえ違います」
「分かった。ならじっさまが化け猫飼い出したんでしょ?ほんとじっさまって何考えてるやら」
「違います。むしろこの猫は若君の飼い猫です」
「……は?」
「この猫は若君が戦った鬼が変化した猫です」
流し目で睨めつける様に天后が猫を見ているがそんなことは一切気にならなかった。
一瞬で雅相の脳みそが真っ白になって、天后の言葉が上手く入ってこなかったのだ。
しばらくの間思考停止していた雅相だったが、猫の柔らかい肉球に頬を打たれて正気に強制的に戻されてしまう。今度は爪が出ていたようで地味に痛かった。
「聞け小狐。お前と俺は呪印で縛られた謂わば表裏一体の身。下手に遠ざけたりしてくれるなよ?」
「な、なんなんだよ。意味分かんないって!詳しく教えてくれよ」
「ちっ、面倒なこと」
しかし鬼もとい黒猫ははっとした顔をするとそそくさと雅相の衾に潜り込んでしまい、何故か息を潜める。
何事かと天后も雅相も黒猫を怪訝な瞳で見るが、私室の向こうから人が此方に来る気配を感じて黒猫の行動を察した。
……ようは人に会いたくないのだろう。鬼の姿のときはあんなに自信満々だったのに、猫になった途端にこの体たらくである。
黒猫が衾の中で位置を整えているのを顔をしかめて見ていると、天后が立ち上がり遣戸の方へと歩いて行く。
天后の手によって開かれた戸の向こうには……藤色の髪を持つ祖父と、呼びに行ったのだろう勾陳が後ろに控えて立っていた。