第拾伍 情。
雅相視点に戻ります。
真っ白な何もない空間で、雅相は気がつけば一人佇んでいた。
音もない、匂いもない不思議な場所。立っているのか寝ているのかあやふやになるほどに何もない場所だ。
そんな中に、誰かの懺悔するような啜り泣くような声がどこからとも無く、真っ白な空間に木霊する。
『俺は 何度間違えれば気が済むのか。最初は父様の寵愛を受けし者の手によって貶められ』
『二度目は 父様の力を拝借しておきながら 神に仇成す眷属如きに負けたが故に』
『俺が何度も失敗するたびに 俺は大切なものたちを 呪いによって自ら殺していく』
『謝りたい 詫びたい。俺に関わったが故に罪なき者たちの運命を強引に捻じ曲げて 災禍に引き摺り込んでしまったことを』
『 皆 済まない 』
訳もわからず呆然と突っ立っていると、ふっと背後に気配を感じて雅相が振り返ってみれば、雅相より幾分か上背のある鮮やかな青に染められた狩衣を着た、後ろ姿の青年がいつの間にか佇んでいた。
「あの」
『何も聞きたくない 何も言いたくない 何も知りたくない』
「え、せめて名くらいは聞きたいんですが」
『うるさい関わろうとするな。失せろ』
青年はそれだけを言い残すと背を向けたまま音もなく歩き出した。
慌てて後を追いかけて、必死に歩幅を合わせながらどさくさに紛れてこっそり顔を覗き込んでみる。
その顔はどこか行信を何倍も大人っぽくしたような、しかし行信とは確実に違うこの世のものとは思えないほどにゾッとするほどの美を兼ね備えた男であった。
恐らく打ちひしがれたように長い睫毛から覗く伏し目がちな瞳が、血を吸ったような真っ赤な双眼なのも相まってより一層の妖艶さを醸し出しているのだろう。
「あの、どうしてそんなに辛そうなんですか?」
『放っておいてくれ』
青年が顔を背けてしまってこれはもう取り付くしまも無さそうな雰囲気だ。
しかし、だからと見知らぬ場所でこんなに苦しそうな顔をする人を放っておける程、雅相も薄情ではなかった。
……できるだけ関わりたくはないとは内々的には思ってはいるのだけれども。
どうしようかと悩みながら、必死に俯く青年に追いすがるように足並みを合わせていく。
「ならここが何処か教えて下さい。僕、気が付いたらここにいて困ってるんです。出来れば戻り方も」
『……お前、無意識に俺の中の深奥に来たのか?』
「えっ俺の中って?どういう」
青年が足を止めて、驚いたように赤い両目をまん丸に見開いて雅相を眺める。
ようやくこちらを見てくれたのは嬉しいが、そんな綺麗な顔でお前莫迦なの?と言いたげなきょとんとした顔をされても雅相としても困りものだ。
雅相が最後に憶えているのは、鬼と天后と順風耳が呆然と立ってこちらを眺めているだけの光景であって、全てが白んでいった後は気付けばここにいたのだから。
「教えて下さい、ここが何処か。貴方は誰で何でここに居るのかも」
『ここは、俺の情の中。もっと詳しく言うなら、魂魄と精神の狭間であり封ぜられた意識の深奥だ。名は先程も言ったように明かせない。これ以上誰かを災禍に巻き込みたくはない』
「災禍って……。何が起きるんですか?」
『言えない』
言えないことが多すぎて少しモヤモヤしてしまうが、詰まる所ここはこの人のその精神の中だと解釈して、雅相はいつの間にかこの人の中に入ってしまったという事になる。
精神とかそんなもの良く分からないが、こういう白い室と言うのは雅相にとっては過去見で見慣れた光景であって、存外驚く程のものではなかった。
多分今自分は寝ている状態なのだろうといつものことながら察しは着くからだ。
……そうなると、いつ誰に触れたかが重要になってくる。
今日は行信しか触れていないはずなので、行信の知り合いか何かだろうか?
(てあれ、なんで僕夢の中で会話できてるんだ?いつもはただ過去を見せられてるだけなのに)
『夢か。確かにお前としては過去見で見る場所に似てはいるな。だが少し違う、ここは夢ではない。外の俺の全てを破壊できる核の様な場所だ。故に夢と違って精神を司る核の主である俺と会話できる。まあ、実際お前は眠ってるんだがな』
「なんで、過去見の事知って、るの?誰にも言ったことないのに」
『簡単な話だ。お前と俺が呪印で強引に魂魄と精神を互いに結び付けられているから、お前の全てが解る。それだけだ』
青年が自らの蟀谷をトントンと叩く仕草をする。正直途中から頭が混乱し始めて、青年の言葉が理解できなくなっていた。
ここはいつもの夢ではない?眠っているのに夢ではないと?眼の前の人の情?呪印?魂魄と精神を結びつける?
分からないことだらけで頭が痛くなってきて、雅相は頭を抱えて呻き声を上げた。
そんな雅相の姿を見て青年が優し気な眼差しで微笑み、雅相の頭に白く細い指を置く。
『深く考えなくていい。呪印についてはお前の母親代わりの天后にでも聞いてみろ。少しは教えてくれるさ』
「っな!?なんで天后のこと!」
『さっきも言ったが、俺にはお前の情も感情も全て解かる。つまり全て筒抜け』
「っ見るな!なんか良く分らないけど、僕の中みるな!!」
青年の手を払いのけて、自分を抱きしめる様に両腕で自らを覆って青年から距離を取る。
そんな雅相をみた青年は、目を皿のようにして瞬きを数回繰り返した。
――――そして、突如声を押し殺しもせずに腹を抱えて大声で笑い出したのだ。
『ははっ見るなって、お前が自分の情報を俺に垂れ流してくるんだろ。俺に言われても困る』
「ぐぬぬ、ならどうすれば僕の情報を漏洩しないようにできるのさ!」
『……ふむ、難しい問だな。今お前に必要なことは、兎角《狐の血》が覚醒したて故に神気が駄々漏れとなっているから、それを隠す修練をやれってだけだな。それだけでも見違えるように色々変わる』
「狐の血……僕はやっぱり狐の妖人、なんだね」
急激に元気をなくした雅相が心配になったのか、青年が『嫌なのか?』と打って変わって優しげな声色で顔を覗いてくる。
妖人など珍しいことではないため、別段嫌というわけではないが、行信と違う人種なのだと突きつけられた気分になって複雑な心境だった。
『行信……あぁ、唯一鬼気を受け継いだ俺の子孫か。あの後誰か生き残ってくれたんだな。良かった』
「へ?子孫?」
『あっ』
しまったと言わんばかりに口に手を当てて青年が顔を背ける。
生き残った?俺の子孫か?いや、まてそうだ、この青年の瞳は両目が真っ赤。確か菅原家のみが受け継ぐと言われている目の色も赤であって。それにどことなく行信の雰囲気がある。
もしかしなくても、この人はまさか――――。
「菅原倖人、本人?」
『呼び捨てとは生意気な小狐だな』
「あ、ご、ごめんなさい!!つい!」
『……まあいい。そうだよ、名乗る気はなかったが、口を滑らせてしまったからには名乗ろう。俺はこの豊葦原中国での人名は菅原倖人だ』
豊葦原中国での人名?豊葦原中国って現世ってことか?今一つ閃かず、どういう事なのかと不思議に首を傾げれば『そんなに気にするな』と誤魔化すように再び頭を撫でられる。
……なんだか童子扱いを受けている気がして若干もやもやしてしまうが、不思議と祖父に頭を撫でられている時と似ていて心地よさが勝った。
と思ったが雅相は懐柔されていることにハッと気づくことに成功して、全力で払い除けるように頭を振った。
「じゃあここはその、菅原のご先祖様の情の中ってことなんですね。益々持ってよく分からない」
『倖人でいい。ここでは諱など意味を持たんからな。して何が分からないんだ?』
「だって、貴方は百年前に亡くなった人ですよね?なんでそんな人の情の中に僕はいるんだ。情って生きた人の中のことのはずでは?」
『そうだ。情は魂魄が依代に宿って初めて形成され、この豊葦原に生き物として実態を持てる。依代を持たない魂魄はただの脆弱で怒りと未練に取り憑かれた彷徨う異形と同義』
うんうんと倖人の答えに頷くように頭を上下にすれば、そこで雅相はピタリと動きを止める。
……さきから現世を豊葦原中国と言うのはなんだか違和感を覚えるが、ほら、やはりおかしいでは無いか。死人が情など持ち合わせているわけが無い。
つまりそれって、生きているということでは?
『御名答。俺は……まあ色々あってまた依代を手に入れて甦った。お前が闘っていた鬼としてな』
「え?」
『だから、お前が戦った鬼は俺で、今お前の傍に居る』
「……は?」
いやだからと更に言い募ろうとする倖人に待ったの制止をかけて、ズキズキする眉間を指でもみ始める。
雅相の脳はすでに思考の許容範囲を迎えていたのである。
正直もう新たなる事実発覚とかそういうの聞きたくないのだ。
でもどう考えてもかなり重要な話なのは理解できるが、やっぱり頭痛の種なので聞きたくない。
そんな葛藤を内心で繰り広げながらちらりと倖人を一瞥すれば、どこか不満げに唇を尖らせていた。
「……貴方が甦ったというのは取り敢えず理解しました。でもなんで僕の側にいるの?おかしくない?敵ですよね?僕の一族殺しまくってた敵ですよね?どういうこと?」
『それにはまあ理由があってだな。俺が言うとややこしくなるから外の俺にでも聞け。側にいるのは呪印のせいだ。あと敵じゃない』
「え?重要なこと省くんですか?酷くない?」
『うるさい』と言ってそっぽを向いて、子供のように拗ねてしまった倖人に更に頭痛を覚えてしまう雅相。
何なんだこの人、顔がいいだけになんか無性に腹が立ってくる。
そんな雅相が怒ればいいのか泣けばいいのか悩んでいると――――頭の中に何か琴の音色のような涼やかで美しい旋律のような、人の声が流れ込んでくる。
――――此奴本当に相良の孫か?嘘だろ?彼奴こんなに莫迦じゃなかったのに。
いやまて、幼少の頃はこんな感じだったか。と言うより呪印に関しては俺は一切悪くない。
そりゃあ狐の一族殺しまくってたけれどそれは父様のせいであって、あの人が八つ当たりに俺を利用しただけだ。
だのに小狐と御祖母様が勝手に手を組んで強引に俺と此奴に呪印を施しやがってさ。ほんとに傍迷惑だな。どうしてくれるんだよ。……あれ?そう言えば此奴なんで自分にも呪印付けてんの?やっぱり莫迦だな。
はあ、くそ……なんでこうなったんだよ。俺の役目はもう終わってやっと全てから開放されて隠退できてウキウキしてたのにホントどん底だよ。―――――
「情の中身なっが!!琴の音色みたいな綺麗な声なのに言ってること最低だよ!!」
『は、お前勝手に俺の情を見たのか!!』
「あんたが勝手に流してきたんだろ!!くそ、日記ではいい人だと思ってたのに幻滅だよ!!最悪だよ!返して僕の良心!」
『知るかそんなもん!俺の日記を勝手に見るな!』
「残すほうが悪い!!」
『変態!』だの「お前に言われたくない!」だのギャーギャーと二人で言い合っている内に双方ともに疲れてきて、次第に声が小さくなって行く。
誠に不毛な争いである。
『とに、かく!俺は呪印のせいでお前から離れることも逃れることもできない。本当にいい迷惑だが、外の俺と仲良くしてやってくれ。いいな?』
「なんでそんなに偉そうなんですか?それが人にものを頼む態度なんですか?」
『やかましい!実際に俺は偉い!……格を下げられて豊葦原に落とされたけど』
「偉くないじゃん」
悔しげに地団駄を踏む倖人は傍から見たら子供である。
それも顔がいいだけに違和感しかなく、笑いを誘うには十分な材料だ。
言っていることはよく分からないが、位が落ちることをしたのは相当のことをしたということだけは流石の雅相にも分かる。
雅相は堪え切れなくなって、吹き出して腹を抱えて笑い転げる。
それを物凄く鋭い目つきで射抜かんばかりに睨めつける倖人。
「いやぁ本当に……本人自ら僕の想像していた菅原倖人像をぶち壊しにされるなんて、面白過ぎる!」
『それはどうも。お前たちが勝手に妄想膨らませているだけで、俺には一切関係ない事だ』
「まあ確かに」
考え込む雅相を他所に、倖人が飽きたと言わんばかりに大きく伸びをして、再び歩き出したのを目線だけで追いかけた。
瞬間、一歩を踏み出した倖人の足元から水のような波紋が突如として出現し、静かに波立たせながら周囲へと広がって行く。
そんな波立つ白い床から、微かに聞き覚えのある声がゆらゆらと小さくなったり大きくなったりと聞こえてくる。
雅相。遅くなったね。
よく安倍家を守ってくれた。
「え、今のじっさまの、声?」
『あぁ、相良の声だな』
倖人の声色が余りにも優しい響きで、思わず盗み見るようにちらりと倖人を見れば、波紋を見つめる倖人の瞳は先程とは真逆でとても懐かしそうに目を細めて微笑んでいた。
そういえば、情の中で祖父のことを知ったふうな口振りだったのを思い出す。幼少の頃のことも知っていた感じだった気が?
「ねえ倖人……殿、百年前のじっさまってどんな人でしたか?」
『詰まるくらいなら殿を付けるな。昔の相良か。そうだな……お人好しで、気持ち悪いくらい俺にべったりで、でも努力を惜しまなくて、頑張り屋で小姑みたいにうるさくて、でも皆に慕われてて、本当に良い奴だったよ』
言いたいことは多々あるが、一番気になった倖人の『べったり』と言う単語が引っかかって、雅相は間を置いて「べったり?」と言葉を反芻する。
それに応えるように倖人も『べったりだけど』と言い返してくる。しかも澄ました顔で、である。
どうやら雅相の聞き間違いではなかったようだ。尚更タチが悪い。
有り得ないとはなから拒絶したかった。でも目の前の人が嘘を言ってるふうには思えない。いやでもでも、あの穏やかで、いつも余裕を待った大人な対応をするあの祖父がそんな筈ないのだ。
――――この世がぐるぐると回っている錯覚を覚え、脳が聞きたくないと拒否し始めたためこれ以上の追求をすることを辞めた。
「……話を変えます。あの、じっさまや行信にあの鬼が倖人本人だよって知らせても良いですか?」
『それは駄目だ』
「ど、どうして!」
『どうしてもだ』
雅相が詰め寄りかけようとしたが、倖人が雅相の顔の前に手を翳して静止させる。
勿論驚いた雅相はピタリと動きを止めるのだが、その雅相の口元に向かって、倖人が親指と人差し指を重ねてゆっくりと右へ一閃する。
しかし表面上は何も起こらず、雅相はなんだとばかり不思議に首を傾げた。
『お前の言霊の一部を封じた。全て俺絡みのだ。なに、他は問題なく発せられるから安心しろ。それとここでの会話も俺が許した言霊以外の口外を禁む。今はお前のダダ漏れの内情を俺が制御してやってるが、もし違えたら……お前の過去・情全てを問答無用で覗き見てやるからな』
「ひっなっなんで!!」
『なんでって、お前口軽そうだし。それにここまでしないと人の口は従わせられんだろ』
「ひどい!!?」
ガックリと肩を落とす雅相の肩に、倖人が何故か慰めるように目を伏せて軽く手を置く。
何故自分のことを知られてはいけないのだろうか?もしかして倖人の言う情の中で言っていた《父様》という人から災禍を回避させるためとか?それともただ単に恥ずかしがっているだけ?しかし真相は倖人自身の中である。
すると倖人がくるりと踵を返して、雅相に背を向けてなんとその場にドカリと座り込んでしまった。
思わず何事かと雅相は目を真ん丸にしてパチパチと瞼を瞬かせてしまう。
『話は取り敢えずもう無い。相良がお前を呼んでいるのだからもう行け』
「いや、行けと言われても戻り方知らないんですけど」
『……はあ、手の掛かる奴だな。ほら目を瞑れ。それで俺がお前を元の場所まで誘ってやる。全て言い終えたら帰れるはずだ』
「はあ、」
若干疑心暗鬼に思いながらも、倖人に促されるままに雅相は肺腑いっぱいに息を吸い込んで、深く息を吐き出せばゆっくりと瞼を下ろした。
そうすれば、視覚が塞がった中で、聴覚が倖人の謳うような澄んだ声を拾い上げる。
――――いろは にほへとち りぬるをわかよ たれそ つねならむ
(なんでいろは祝詞?)
目を瞑ったままこてんと首を傾げる雅相。
倖人が一体何をしたいのか全く理解不能である。
『うゐのおくやま けふこ えてあさき ゆめみしゑひもせすん。……餞別の加護だ。それと相良に伝えておけ、いつまでウジウジしてその甘ったるい破邪の薫物を俺の代わりにしているつもりかと』
「え、待ってそれどういう」
目を瞑ったまま近くにいたはずの倖人に手を伸ばす。
そういえば、最後に聞きたかったことがあったのだ。
――――次はまた、いつ会えますか?