第拾肆 総代はつらいよ(安倍相良 後半)
愛宕山での事後処理を終えて、空が鈍色の雲に覆われる中――――夜が薄らと明仄へ転じかけた頃に下山してみれば、都は怨気の残滓が色濃く残った変わり果てた姿へと変じていた。
流石の相良もここまで酷い事態になっているとは考えも及んでいなかったため、大内裏や陰陽師たち、他の陰陽寮の子たちが無事かやや心配になってきてしまう。
きっと文の残骸はこの惨状を報せてきてくれていたものだったのだろうと察しは着くのだが、生憎と雅相の文しか目を通せなかったのでこの事態に駆けつけてあげられなかった事に申し訳なさが募ってくる。
まあ夜が明ければその残滓も残らず陽の光に焼き尽くされて跡形もなくなるだろうが。なんて呑気な事は言えない、今は雨の匂いが立ち込める鈍色の曇天の時分である。
陰気の漂いやすいこの時期ではこの都に残る残滓を掃討するほどの陽の光は臨めない。
……これも早急に何かしらの手立てを講じなければならないだろう。
他にも怨気を吸ったものなどが居ないかなど心配に絶えない中で、最優先の大内裏の結界の安否を確認するべく真っ先に向かう。
が、それを制止する手が相良の肩に掛かった。
「どこへ行く気だこの愚か者!自邸に戻るのではなかったのか!!」
「予定変更だ。先ずは大内裏の結界の確認、それからこの現状の詳細を把握、陰陽師たちの働きと生存確認をしに行く。炎縳は……安倍邸の確認を。蒼竜は私と共に来なさい」
「相分かった」
「相良!!」
悲鳴に似た声を上げる青龍を差し置いて、相良は体勢を低くして風を切るように走り出す。その後を苦々しげな顔で蒼竜こと、青龍が付いてくる。
炎縳に関しては返事をした時点で間を置かずに隠形して既に向かっていた。天后が絡むとなんとも行動の早い鬼な事だ。
とかくして走り出して早数刻、一条戻り橋を過ぎて大内裏へと踏み込めば、どうやら大内裏は多少結界に攻撃痕やら赤黒い血やらが付着しているが、人のものではなさそうなので無傷と呼ぶに相応しいだろう。
まだ出仕には早い時なのに騒がしい中を見回しながら門をくぐっていると、後方から「陰陽頭様!お戻りでしたか!!」と声を掛けられ振り返ってみる。
声を発した主は、官職に着いたばかりの見知った年若い陰陽師、丹波伊周だったようで、息を切らせながら近寄ってきた。
「丹波の弟君、いつも共にいる兄殿はどうしたんだい?それと都の現状を教えて欲しいんだ」
「陰陽頭様、何もご存知なかったのですか?あんなに都の空を文の鳥たちが飛んでいたというのに」
「済まない。訳あって皆の文は私には届けられていなかったようなんだ」
相良が申し訳なさそうに目を伏せれば、伊周は「そうでしたか」とだけ呟いて唇を微かに震わせながらきゅっと引き結んだ。
どうやらお喋りな伊周が悔しげに口を閉ざしてしまうほどのことが都で起きていたのは間違いないようだ。
先を促すように相良が「話してくれるね?」と催促すれば、重たげな息を吐き出して口を開いた。
――――それは、たった3日に起きたにしては濃厚過ぎる出来事ばかりで、年若い青年たちや相良自ら才能を見出したものの死を今この場でようやく知った相良には余りにも衝撃の強いことばかりだった。
「そう、か。そうか。ご苦労だったね。それで、右京に現れた障穴はどうしたんだい?」
「恐らく既に陰陽助様と陰陽師たち、それと菅原の子息で調伏が終わっている頃かと」
「そうか。私が居ない間に皆力を合わせて都を救ってくれたのだね。感謝してもし尽くせないよ」
ふわりと相良が微笑み、伊周の肩に手を置けば、伊周は顔を一瞬にして茹でダコのように真っ赤に変貌させ無言でこくこくと何度も頷いた。
これである程度の都の現状は把握出来ただろう。右京の障穴に関しては恐らく陰陽助である保紀がなんとかことを収めてくれるとして、些事は後回しで次は自邸だ。
しかし、そこでふととある事に相良は気に掛かった。
(蘆屋の倅と途中までいた三善の倅は何処へ行った?)
名家の跡取りならば都のこの惨状に駆けつけないなど有り得ない話なのだが、どういう訳か伊周の話には一切出てこなかった。
三善は兎も角として、蘆屋の子息は何をしていた?大昔に安倍家の傘下に下って以降、今も尚細々と存続している邪術に長けた蘆屋道満を祖とする蘆屋家。彼らに一体何が起きている?
……この件に関しては追って相良自ら蘆屋家に問い質すとして、次の三善家の倅は何故途中に抜け出したかが理解出来なかった。
伊周の話では、皆で障穴の調伏に当たろうとしていた頃には既に姿は見えなかったと聞く。これの意味するところとは?
「……いや、今は後回しだ。丹波の弟君、後日兄殿を見舞いたいと思うのだが、兄殿の容態は如何に?」
「あ、その。道伊兄上は、容態は安定しているのですが、何分情の方が大きな傷を負っているようで。陰陽頭様のご尊顔を見てしまわれたら吉和殿を思い出して、余計に荒れそうなので落ち着くまではお控え願えると有難いです」
「そう、か」
確かに伊周の実兄に当たる丹波道伊は、安倍吉和とは得業生の頃からの付き合いだったと記憶しているため、彼の死のせいで情に相当の負荷が掛かってしまっているのだろうことは自明の理。
それに話によれば、当時吉和と道伊は共に鬼と対峙していたと聞いた時分を考えても、その死に様もその目に焼きついていただろうと考えたら胸が苦しくなる想いだ。
「あの、陰陽頭様。誠に心苦しいのですが、一つお願いがありまして」
「どうしたんだい?言ってみなさい」
いつもの快活な雰囲気とは違う情けない表情で上目遣いに見てくる伊周に、内心では焦れったいと思いつつもにこやかに微笑んで先を促す。
「……兄上を、その、吉和殿の葬送に参列させることは可能でしょうか?」
「あぁ、構わないよ。吉和も朋に見送ってもらえたらきっと喜ぶ。むしろこちらからそうしてあげて欲しいと頼みたいところだよ。だが兄殿は大丈夫かい?私よりも、吉和の生家の者たちも参列するのだから、そちらの方が心配だ」
難しい顔をして相良が問うてみれば、伊周もこれまたあっとした顔をして、気難しい顔つきで唸り声をあげた。
恐らく実兄を葬送に参列させるという発案は、伊周の独断で良かれと思って口出した事なのだろう。
その心持ちはとても素晴らしいし、兄を思いやる弟としてとても立派だ。
しかし情が病んでいる者を葬送に参列させて暴れられても困るのが相良の心情でもあった。本当に難しい課題だ。
……まあ死は穢れと同等な扱いの世で、葬送に参列させてあげたいと申し出てくれること自体有難い話ではあるのだが。
兎にも角にも葬送に関しては後日日取りを決めたり、吉凶を占わなければならないため、今答えを出すべきものではない。
この問題に関しては丹波家で決めてもらい、後日相良宛に返書を頂くということで伊周と合意したのだった。
***
そうこうとして伊周に礼を述べてから、別れて相良が最後に目指すは自邸であった。
それまで沈黙を保っていた青龍だが、隣を並走する中で大きなため息を吐き出し相良を流し目に見る。
「随分と長い帰途だったな。相良」
「そう言わないでおくれ蒼竜、私にも立場というものがあるのだから」
苦い笑いを浮かべる相良に青龍は態とらしく大きな舌打ちで返す。
そんなやり取りを二人でやっている内に、一条戻り橋を渡りきって早幾ばく、自邸へと辿り着いた頃に鐘撞の塔からからんからんと軽快な音が都に響く。もうすぐ明け六つといったところか。
そんな中で、遂に重たげにしていた鈍色の雲からしとしとと小雨が舞降る。
(本降りになる前に自邸に着いて良かった)
門前で軽く手で雨を払って中へと入れば、真っ先に目に飛び込んできたのは――――中で一体何が起きたらこんなことになるんだと言いたくなるくらいに、中庭や近くの塀が派手に壊れた無惨な姿の安倍邸であった。思わず足を止めて、呆然と立ち尽くしてしまう。
「相良様!」
「戻ったか総代」
「これは、一体?」
駆け寄ってきた天后とのそのそ歩いてくる炎縳に視線を移せば、天后は泥だらけで所々に擦り傷程度の軽い怪我を負っていた。
その傷程度であれば、相良の霊力を使って癒すことが出来るだろうに、何故癒さないか謎である。
もっとも、徐々に霊力は戻りつつあるとは言え、今相良から霊力を搾り取られたら、それこそ相良がこの場で倒れかねないのだが。
内心幸か不幸かと思いつつも、勢いよく縋り付いて来た天后を何とか受け止めれば、灰色の瞳からぽろぽろと美しい涙を流し始める天后に思わず目を瞬かせた。
「申し訳ございません、申し訳ございません相良様……!私が役立たずの神であるばかりに!!」
「天后、落ち着いておくれ。話は私の私室で。皆雨に濡れてしまう」
「そうだぞ天姫、ここは総代に従い中へ戻ろう。天姫の機転で幸い邸は無傷で済んだようなのだから」
炎縳が相良に縋り付く天后の肩を掴んで引き剥がすと、二人は早々に中へと戻っいった。
天后のあの取り乱しようには少し引っ掛かりを覚えるものの、相良とて雅相の神気を感じた時から何がしかの嫌な予感は持っていたのだ。
まさか自邸が戦場になっているとは流石に予想外だったが、覚悟はしていた。
――――曾祖父安倍晴明が今の邸を見たらなんと言うだろうか?様々な思い出が怨念の如くこびり付いたこの古き邸が風情を無くすほど壊れて悲惨になった姿を見たら。
(いや、今はそんなことはどうでもいい。故人に思いを馳せるのは後だ。それよりも)
私室へと入る前に渡殿で足を止めると、相良は突如踵を返して別の方角へと歩き出す。
何事かと追随していた青龍も慌てて相良を追いかければ、相良が足を止めた先は……奥まった場所にある雅相の私室であった。
「雅相、起きているかい?」
「なんだ、ここは藤の狐の自邸だったか」
聞き慣れない疲れきったような低い声音が雅助の私室内から発される。
何事かと青龍と目を合わせて二人で瞬きを繰り返せば、青龍はおもむろに柄が青色の白銀の刀身をした長槍を顕現させ相良に目配せをしてきた。
取り敢えず向こうは殺気を出していないことから敵意は無いものと考えて、青龍を手で制し相良が「入るよ」と一言置いて雅相の私室へと入ってみる。
視線を這わせて茵に横たわる雅相を見つけて、心の底からの安堵の吐息を漏らせば、その衾の上で丸くなってこちらをじっと見据える赤目の黒猫も居た。
……いつから我が家は高貴な猫を飼いだしたのだろうか?もしや脱走した猫を雅相が拾ってきた?
「君は、誰だい?」
「なんだ、もう俺のことを忘れたのか藤の狐よ。誰ぞの墓の前で会ったでは無いか」
「猫が喋ったぞ相良」
「……そうだね。三又に分かれた尻尾に人語を介す猫、か。うちは遂に化け猫でも飼い始めたのかな?」
なんて動揺のあまり冗談を言っている場合ではない。
黒猫が言ったことが本当ならば、あの人の遺骨を安置している誰にも知られてはならない、あの場で出会った黒髪の美しい鬼のことにほかならないのだ。
何故その敵対する鬼が我が家で堂々と寛いでいるのか不思議でならないが。
伊周から鬼の騒動については全て聞いていたし、霊山の障穴の一件についてもこの鬼ではないかと相良は踏んでいたのだが、何がどうしてこうなった?
表面上はにこにこしているが、実質内心ではもうこれ以上考えたくないと脳が必死に警笛を鳴らしている。
ここ数時の間に一体どれだけの重荷と仕事を背負わされれば気が済むんだとそろそろ発狂寸前だ。
そんな顔をしかめそうになる中で、遣戸が滑りよく開く。そちらへ顔を移してみれば、天后と炎縳が顔を覗かせていた。
「どこへ行ったかと思えば、ここに居たのか」
「天后、この黒猫について説明を求める。彼が例の鬼だと言うことはつい先程把握は、した。うん、うん」
「相良が珍しく動揺しているぞ。天后、早く相良の心労を取ってやってくれ」
真顔な青龍に促され、相良の動揺が移ったように天后も吃りながら「え、えぇ」と小さな声で呟いた。
どうやら、天后の話ではこの鬼が安倍邸に襲撃を仕掛けてきて、雅相が張った結界が全て壊された上に更に安倍晴明が置き土産に張った結界さえも破られかけていたそうな。
そんな折に行信に連れられて障穴を塞ぎに行った雅相が突然帰ってきて、天后が使役する随神と共にこの黒猫(鬼)と応戦。
天后が結界の修復に奔走している最中で、雅相たちは劣勢になっていることに気付き、ほぼ補修し終えた結界を出て雅相を逃がす為に対峙するも、天后でさえも全く歯が立たなかったと。
天后が悔しげに膝に置く拳を白くなるほど握りしめて、悔しげに顔を歪める。
「そうして、この者は若君の内に眠る狐の血に気づかれたようで、首を絞め業火の怨気で溶かし殺そうとされました。それで、若君はとうとう……晴明様の予知の通りに、苦しみ藻掻きながら覚醒を成されたのです」
「なるほど。我が家の半壊と雅相の覚醒の経緯は大体わかった。では何故この者がここに?」
「どうやら若君が覚醒の折りにこの者に呪印らしきものを施したようなのです。ですから眷属である鬼は主人である若君からは逃げられない、と言った所でしょうか」
「呪印?」
「はい。私も詳しくは存じませんが、高位の神人だけが扱えると言われる眷属を得るための呪、だと言われております。その他の事については末席故なにも……」
顔を俯けて申し訳なさそうにする天后に「充分だよ」と一言置いて、相良は考え込むように顎に手を添えた。
天后の話が真なら、明らかに矛盾している。先ず雅相は高位の神ではない。
もし神憑りでもしていたら話は別だが、こちらから*イタコに頼んだ覚えもないし、神付きなんてこちらから願い下げである。
ならばこう仮説してはどうか?……気紛れで奇特な神が損得関係なく雅相に茶々を入れてこの鬼を雅相の眷属にした。
(昔から高天野原に坐す神達は好奇心で動くと聞く。神話の話だから誠かは知らないが。しかしでなければ雅相に眷属を与える意図が分からない)
相良がそう仮説立てるのも無理のない話だ。
なんせ先程から雅助と黒猫から同じ感じたことの無い強力な神気が相良の肌に訴えかけてきているから。
焼け付くようなジリジリと焦がされるような痛みを全身に感じるが、相良であればこの程度は数時は問題ない。
だが、見鬼の才を持つ陰陽寮の者たちにどのような影響を及ぼすかは謎である。
なので黒猫は兎も角として、雅相に関してはダダ漏れの神気を抑え込む特訓が必要となる訳で。
「……また仕事が増えるのか」
「藤の狐の顔が一気に老けたぞ。これは面白い」
「おいたわしや相良。美しい顔が遂に老爺のようにシワシワに……」
「強く生きろ相良。いや既に強くしぶとく生き過ぎてたか」
「なじりが凄い」
炎縳なら毛嫌いされているから兎も角として、まさかさほど親しくもない黒猫や親しいはずの青龍にまでなじられるとは想定外で、相良の顔が苦虫を噛み潰したような表情をする。
青龍に関してはもしかしたら再三の休めという助言を無視した腹いせか?
なんて考えながら相良がため息を吐き出していると、黒猫が小さな体をおもむろに立ち上がらせ、しなやかに背を反らせて大きく伸びをした。猫だ、中身鬼なのに完璧なまでの猫だ。
「因みに呪印らしきもの、ではない。呪印の効果については既に我が身を持って立証している。だから本物の呪印で間違いないぞ。全くもって不本意だが」
「どういうことだい?」
「私が説明致します。実はその者、一度この場から脱走しているのです」
至極真っ当で当然の行動だろうなと天后の話をぼんやり聞きながら相良は目を細める。
「そうしたら、安倍邸を抜け出した途端に門前で倒れてしまいまして。次第に痙攣しだして呼吸困難に陥ってしまい、もしや呪印のせいかと思いまして……ならば若君に害意は無いだろうと、不本意ながら、仕方なく、嫌々ですがお傍に置いていた次第です」
「天后が物凄く嫌だったということは伝わったよ」
「はい、とてつもなく嫌です」
「今度はキッパリ言ったね」
キリッとした逞しい顔で天后が言うものだから、思わず相良は苦笑を漏らしてしまう。
そんな彼女に熱い眼差しで愛らしいと言いたげに訴える炎縳。いや他所でやってくれ。
兎にも角にも、詰まる所呪印はどの程度の距離を主人から離れては行けないかは謎として、主人の傍を離れると眷属は死してしまうということになる。
まあ雅相には式神の類が居なかったため、これはこれで強力な守りを手に入れたのだと思えば、安心……だと思う。
(いや、それは早計すぎる。雅相以外にはどうなる?仮に攻撃可能な場合かなり厄介だ。いや、その前に勅旨を頂いた帝や報告をお待ちの左大臣様に討伐対象が孫の式神になったなど到底言えない。なんと申し開きをすれば良いやら……。あぁ、また一つ私の仕事が増えてしまった)
悲しいくらいに魂魄が抜け出そうなほど大きな息を吐き出して、相良は間近な未来に待ち受ける膨大な仕事の山に挫けまいと零れることなどない幻想の涙をこらえて天を仰いだ。
注釈
イタコ……口寄せを行う巫女のことであり、巫の一種。