第拾弐 誰が為に
水のようにさらさらと頭の中に大切な人たちの顔が流れていく。
保紀が愉快そうに声を押し殺して笑いながら頭を撫でてくる姿。斉経が意味の分からないことばかり言いながら怒鳴りつけてくる姿。
白銀の髪を振り躍らせて笑う変化が下手くそな水干姿の夏目の姿。
養父がこちらを見つけるなり書物の山から穏やかな表情を覗かせる姿。養母が可笑しそうにしながら対面で夕餉を共にする姿。
いつも気難しげな顔をする炎縳が天后と楽しげに話していると、ふと二人がこちらを見て微笑んでくる姿。
安陪邸であくせく働く式たちの顔ぶれ。陰陽寮にいる怒りっぽい師や存外悪い奴らではない学生たち。
祖父の式神である十二天将たち。行信が顔をしかめながらたまに眉間のシワを揉みながら自分の先祖の書を読む姿。
そして、祖父がもみじみたいな小さな手を握って見下ろしながらほほ笑む姿。
『雅相、今日からここがお前の邸だよ。私の事は祖父と呼びなさい。私とお前は、今日から家族になるんだよ』
『かぞく?』
『あぁ、お前の養父になる吉房も私の式たちも、お前の家族だ』
そう言って握られた大きな手は、優しく包み込むように小さな手をほんの少しだけ強く握った。
その手はひんやりと冷たいのに、何故か雅相の胸にじんわりと暖かいものを届けてくれる不思議な手。
負けじと雅相も悪戯げに小さな手を握り返してみれば、祖父がくすくすと声を押し殺して笑う声が頭上から降ってくる。
『お前もまた、天運に定められし児。この災禍の運命にお前が何れ身を置こうとも、私はお前を見捨てたりはしない』
幾倍も上背のある祖父をついと見上げれば、日の光に当てられた藤色の髪はきらきらと星のように瞬き輝いているのに、顔は影になってしまって今どんな表情をしているのか伺い知ることはできなかった。
『いずれ、私とお前が袂を分かつ日が来ようとも』
それは、一体どういう意味なのだろうか?
祖父に連れられてきたあの日から、尊敬して止まず憧れてきた祖父と袂を分かつ意味とは?
ぼう、と顔の見えない祖父を見上げながら、そんな日なんて来るはずがないとずっと考えていた。
だって雅相自身も祖父が好きだし、祖父もまあ……好きかは置いておいて、大切に育ててくれたのだから。
自らの式神を使ってまで育ててくれたのだから。だから袂を分かつ未来何て有り得ない。
(じっさま、僕は。僕はただ、貴方に色んなことを教わりながら貴方の言う家族とともに平穏に暮らせるだけでよかった。他に何も望まない)
しかし今、その願いや祖父の言葉の真意さえも黄泉の業火によって全てが燃やし尽くされ掛けている。
何故?何故こんな目に合わなければいけない?
否、答えはいたって簡単だ。自分が弱いから。
しかしどんなに雅相が強くあろうとも、目の前の鬼には遠く及ば無い。力の差は歴然だった。
呪符も加護も何もかも効かないうえに、勝手に傷を再生する力も保有していた。そんなのありかと声を大にして言いたくなる。
ならばどうすれば勝てる?それともここでどろりとしたこの業火に呑まれて死ぬ運命なのか?……そんなのは、いやだ。
いやだ、元服してまだ二年しか経っていないのに、式神と呼べる奴さえ従えていないのに、情けないままはいやだ。
祖父にきちんと認めてさえもらえていないのに、そのまま死ぬのは、いやだ。いやだ、いやだ。
――――ふと、雅相をじっと見据えて、その光の宿ることのない黒色の瞳のままの祖父の姿が脳裏によみがえる。
『私が戻り次第、私の事・お前たちのことについて話をしようか』
そうだ、自分にはまだ死ねない理由がある。死んでたまるか、死にたくない、いやだいやだ。
いやだいやだいやだいやだあああああああ!!
「まだ、しに、たく、な゛い!!!」
「っ!!」
どくり。
血反吐を吐きながら発した言葉に呼応するように、雅相の心の臓もまた大きく脈を打った。
激しく、大きく、一拍一拍主張するように脈を打っていく。
業火に焼かれていたはずの体は気付けば何も感じず、怨気にぐちゃぐちゃに掻き綯交ぜられていた霊力と魂魄からはじんわりと暖かい火鉢にあたっているようなぬくもりを感じた。
全身から湧き出るような底なしの霊力。堰き止められていた波という霊力がまるで濁流のように全身に流れて漲ってくる。
しかし、視界がちかちかと明滅して目の前にいるはずの鬼さえも陽炎のように揺らいで朧げにしか見えない。
そんな五感が微睡む中、突如キーンと鉄を打ち付けるような甲高い音が耳の奥から発され、雅相は思わず耳をふさいだ。
もし 聞こえるか
聞こえるならば 私がお前に足りない力を貸してやろう
「だ、れ?」
耳をふさいでいるのに、まるで頭の中に響いているようで低くて中性的な声色が木霊する。
その代わり あの子を助けてやってくれ
わが眷属の後胤よ それが其方ら一族が犯した罪を唯一見逃す手立てだ
もし 神との契を違えれば――――
頭に響いていた声は次第に小さくなっていき、最後は聞き取れなかった。
が、その声が途切れたのとほぼ同時に、先ほどよりも全身が軽やかに感じ、まるで今にも羽ばたいて天霧の宵闇を突っ切って滑空できそうな気さえした。
内から内から膨れ上がってくる霊力は、次第に体内で暴れ、うねり、掻き乱し、雅相の意識を侵食し始める。
「っなんて神気の気配……!!一体若君の身に何が起きているのですか!?」
「はは、ははは良いぞ良いぞ!その獣の如き黄金を帯びた瞳!」
宵闇の都をまるで真昼間のように明かるげに照らす白光が安陪邸から迸る。
「――――吐菩加身依身多女 寒言神尊利根陀見 *祓ひ給へ清め給へ」
鬼が天后が順風耳が宵闇を溶かすように煌々と輝く雅相を眺めている中、雅相は*国津祓を含んだ*三種大祓を静寂が覆う空に向けて手を三角に合わせながら厳かに唱えた。
瞬間、全員の視界はぼんやりと真っ白であたたかな空域へと包まれるのであった。
注釈
祓ひ給へ清め給へ……三種大祓での本来の詞は、「祓給ひ清めて給ふ」らしい。これは自身の内と外つまり自身の全ての邪気を祓っていただくためであるが、今回雅相は三種大祓を外にいる全ての者を対象としたため、詞を替えてます。
ちなみに京都吉田神道の吉田家の正式な伝授者のみにこの「きよめてたまふ」の詞は許されているらしく、一般的には「清め給ふ」らしい。
①きよめたまへ→きよめてください
②きよめたまふ→きよめてくださる(接続助詞)
③きよめてたまふ→きよめてくださった
※一説にすぎないため、心の奥に留め置く程度で。
三種大祓……吉田神道において、「秘中之深秘」というほどの祓の詞になる。
吐菩加身依身多女→天津神
寒言神尊利根陀見→国津神
祓ひ玉ひ清め給ふ→蒼生祓(人)
ということらしい。
江戸中期ごろに漢心(中国古代の易占)が相いれなかったため、国津祓は除外されて天津祓と蒼生祓の二種で唱えられていた。(江戸中期の漢心排除の風習についてはwikiでどうぞ)
しかし三種祓詞なので二種では成り立たないということで、
とほ=刀 かみ=鏡 たま=玉 つまり三種神器として準えた。
よって混濁しないように、二種だけの祓詞を「三種祓詞」、国津祓を含めた祓詞を「三種大祓」としている。
雅相は今回国津祓を含めた「三種大祓」を唱えている。
国津祓……伊邪那岐が黄泉の穢れを落とした際に最後に生まれた三貴神のうち須佐之男命家系の祓詞。