第拾 赤目の鬼
雅相は気付けば右京を出て、まだ所々に灯りの燈る邸たちを走り抜けていた。
向かうは安倍邸だ。
何をしているんだ自分は、いくら行信に途中で思考を切断されたからって、戻らない手はなかったはずだ。それに夢でも見たでは無いか、安倍邸で戦いが繰り広げられる場面を。
しかし、どうやらこの不吉な暗示のことを勘違いしていたようだ。
雅相が在宅の時に訪れるものだとばかり思っていたが、そもそもそれが間違いだった。
――――これは、鬼が天后を襲う寸前に雅相が乱入してくる暗示だったのではないだろうか?
「だとしたら急がないと、天后が危ない!くそっほとんど答えが出てたのになんでっなんで僕はいつもこんな駄目なんだ!!妖人が関わっているって、なんで殆ど気付けていたのに!」
妖人とは、禁忌とされる一つである人ならざる者と人が交わって出来た子のことだ。
姿形は千差万別で、特に邸に結界を張っていない無防備で貧乏な地方の貴族や庶民に多く混在しており、どれほどの妖人がいるかは特定出来ていない。故にわりかし一般的に広く知られている。
今回、もし狐と人が交わった《狐の妖人》が狙われたと考えれば合点もいくというもの。
……ただ、そうなると安倍家もまた《狐の妖人》であると認めていることになってしまう。
だが、祖父の《老けない外見》を見れば認めざるを得ない箇所がいくつもあった。
「確か狐は長寿の象徴と聞く。特に普通の狐じゃない、稲成の狐は神の眷属故に神通力を持つって言われているから不老長寿ともいわれてたはずだ」
一説では宇迦之御魂神に仕える稲成の狐は《格》を持つことで寿命が延びていき、それと共に神通力も増すと言われている。
また格によって毛色も変わるらしく、言い伝えでは最高位とされる天狐は尻尾の先が猩々緋のように赤に塗り染められてるとか。……つまり、祖父の髪の色を鑑みれば藤色は天狐に近しい象徴でもあるということに他ならなかった。
あまりにも日常的に見過ぎていた祖父のあの藤色の髪に疑問を一切持たなかった己が今では恥ずかしく、雅相は歯を力一杯に噛み締めて口惜し気に顔を歪ませた。
……あれ、そういえばこの妖人という単語いつだったかで一度聞いていたような気がしなくもない。
どこかで一度耳にしていたからこそ、心のどこかで小さな小骨程度に引っかかってその引っ掛かりが手掛かりとなって答えを導きだせたのだ。
もはやお礼を言って土下座で感謝を述べたいところだが、しかし今いち思い出せず、必死に脳内をひっくり返していけば――――。
『ぐぬぬ。およずれびとのくせに……』
必死に思い起こして頭に浮かび上がったのは、先日水火天満宮で出会った白銀の髪を持つ男子の偉そうな顔だった。
その男子が、ぼそりと雅相に向かって呟いたおよずれびとという単語は、雅相が妖人だと確実に指し示した言葉だった。
「~~~~!!最悪だ!聞き流してた!」
急速に繋がっていく一連の出来事に、雅相の脳が悲鳴をあげそうになる。
……落ち着け、先ずは声に出して頭の中を整理しろ。鬼の狙いが狐の妖人ならば、今回殺された安部家の三人を狙った理由はなんだ?
安部家は全ての分家を合わせて五つ存在する。
だのに何故手始めに大番役だったんだ。
確か保紀の話では、着任したばかりだと聞いた。
……まさか大番役の霊力に鬼が引き寄せられて都入りしたとか?
「いや、そんなはずない。大番役の遺体からは霊力の残滓がほとんど感じられなかった。てことは常人てことだ。くそ、わからない、わからないよじっさま……!」
――――じっさま?
祖父は確か鬼が出没し始める前日に一度安陪邸に戻ってきている。
「はは、うそだろじっさま。そんなはず、ないよな」
雅相の頭の中で急速に祖父の面影が真っ黒な海原に沈んでいくのが脳裏に浮かぶ。
まさか祖父の霊力に当てられて鬼が都に引き寄せられたのではないか、そう雅相は一瞬考えたが、断じて違うと頭を振った。
祖父がそんな失態を犯すはずがない。絶対に他の誰かのせいに決まっている。
……とかく今は引き寄せられた原因ではなく、何故最初が大番役だったかの謎が先なのだ。
「都は強固な結界で囲われているから、狐限定の妖人を探すとなると至難の業。まず結界内にどう侵入してきたのかも不明だけど、それは今は置いといて、何故弱い妖人を狙ったかだ」
しかし考えている合間に目的地である安陪邸へ通じる一条戻橋が見えてきてしまい、雅相の思考はあえなく中断せざるをえなくなってしまう。
歯を噛み締め口惜し気に橋を走り抜けた瞬間――――安陪邸から大きなバチイという雷鳴のような衝撃音が鳴り響く。
「っ!?な、なんだ!」
薄っすらと遠くからでも見える安陪邸の結界に何かしらの衝撃が加えられているのだ。
衝撃が目に見えるように、バチバチと白い雷のような火花を散らしながら結界が誰かの攻撃を妨げている。
刹那、月を隠す雲と宵闇に覆われた都の空を明かるげにする墨を混ぜたような火柱が安陪邸の結界を呑み込む。
結界にひびが入ったのと同時に、雅相の全身に流れる霊力が一瞬乱れた感覚を覚え、思わず胸辺りの衣服を握り締めた。
「天后、養母様!!」
雅相が安倍邸に辿り着いた時には、安倍邸に張り巡らせていた雅相の護符の効果や結界は全て破壊されており、安部の先祖が張った結界にも幾重もの大きな亀裂が入り、粉々に砕け散りかけていた。
「天后!どこだ!!」
「若君!?何故こちらに!」
急いで中へと入り、天后を探せばすぐに見つかった。
天后は中庭で結界を修復するため奔走していたのだ。辺りには他に天后の随神が二神、結界の外で短い双刀を構えてあの赤目と対峙していた。
その光景に思わず緊張が溶けた気分になり、全身から力が抜けかける。
……いや、ここで座っていいはずがない。天后に加勢しなければ、この危機を乗り切れない。
「ほう、小狐よ。あの障穴を防いで来たというのか」
「っお前!障穴ってなんの事だ!!何をした!」
「……これはとんだ無知な狐だな。黄泉と現世の境を穿つ穴のこと。その学智のない脳によく刻んでおけ」
雨の匂いが立ち込め始める中、熱い雲間から月夜が顔をさらけ出す。
今まで宵闇に隠されていた都にほの明るげな月光が照らしていく中――――結界の外で佇む赤目の人型もまた例外なく淡い白光の光に晒されていく。
顕になった赤目の人型は……美しい長い黒髪を組紐で高く結い上げ、白光にも勝るとも劣らない白磁のような滑らかで美しい肌、長い睫から覗く血を吸ったような深紅の瞳でこちらを見据えていた。
額には左だけに生えた白い骨のような一本角をこさえている。
雅相が知っている鬼の外見とは似て非なる見目に、言葉を失ってしまう。
――――こんな、美しい鬼が存在するのか。
祖父の式神である炎縳も鬼だが、体格も角の色も、肌の色も全く違う。
思わず魅入られていたことにハッと気づき、雅相は脳内から何かを振り払うように首を大きく横に振った。
(つまり、あの小山の百鬼夜行のことをあの鬼は言ってるのか。あれを仕掛けたのはこいつで間違いないな)
「なんで、狐の妖人ばかり狙うんだ!何が狙いだ!!」
「なんの事だ」
「恍けるな!お前が狐の妖人のみ殺し回っているのは分かっている!」
鬼に詰め寄るように結界の外へ出た瞬間、膝に力が入り切らず危うく地面に着くところであった。
それもそのはず、雅相は今結界を出た途端に鬼から発される怨気を全身に浴びてしまったのだ。
まるで支えきれないほどの大岩が降ってきたように重たげで息苦しい圧に当てられ、全身からじっとりとした汗が吹き出してくる。
「なっは……うっぐ」
「若君!!」
「ふん、俺の怨気に当てられたか。所詮やはり小狐だな」
手が足が思うように力が入らず、それどころか震え出す。
……こわい、こんなに全身を嬲るように死を彷彿とさせて絡みついてくる怨気に身がすくむ。やはり一抹の不安は的中してしまい、通常通りに体が動いてくれない。
それでも、ここで負けを認めて大人しく安倍邸を明け渡すなんてこともしたくない。
震える全身に何とか力を入れ、真っ直ぐに指を立てて刀印を構える。
「良いぞ。俺に立ち向かう者はとても好ましく思っている。そこの神の末席の者とともに殺してやる」
鬼が叫んだ瞬間、さっきまで鬼がいた場所には既に鬼の姿はなくなっていた。
目に負えないほどの速さで移動したのだ。雅相は警戒を最大限に引き上げ辺りを見回す。無論どこから攻撃が来てもいいように結界も張っておく。
「オン・アロリキヤ・ソハカ」
呪符を持って聖観音自在菩薩の真言を唱えながら親指と小指を合わせ花を咲かせたように印を結べば、雅相の周囲に小さな赤い火がぽつぽつと浮かび上がって、半円形状の結界に変化して溶けていく。
しかし、
「その程度の結界か」
「っ!?」
鬼が姿を現し結界に向けて爪を立てたと同時に、真言を唱えて張った結界が一瞬にして砕け散った。
そんな莫迦な!!潔斎を行って作った呪符に真言を乗せたのに、簡単に壊されるなんてあってたまるものか!
驚きのあまり反応が僅かに遅れ、鬼の長い紅色の爪が雅相の肩を抉る。
「っぐ、祓へ給へ 清め給へ 神ながら守り給へ 幸へ給へ」
「遅い」
護符を取り出すと、指を刀に見立てて縦に引き裂く。途端、護符は溶けていきその代わりに雅相が淡く白い光に包まれだした。
神の力を借り自身の体の傷と不浄の穢れを祓い且つ性急に自身の体を守る算段だ。
だが鬼はお構いなしに追撃を仕掛けてくる。
鬼が態勢を低くし追い打ちとばかりに雅相の顎めがけて蹴り上げる。
しかし間一髪で随神の一人――――赤い肌の顔に大きな札を貼った小柄な鬼が雅相の狩衣の首上を引っ掴んで後退させた。
「っぶな!有難う!!」
「若君無茶はなさらないで下さいませ!お早く結界の中に」
「それはだめだ!!また安部邸の結界に亀裂が入ったら最悪全て砕け散るかもしれないだろ!それよりも、天后は結界の修復に専念してくれ!」
結界を張り直すのと修復するのでは大きく意味が違ってくる。
張り直すのは一から築くことになるが、修復は損傷個所を他人の霊力をもって一時的に直すので所々に綻びがある可能性があるのだ。
そのため綻びから崩れれば最悪全てが壊れてしまう。
それを引き起こさないためにも、天后に代わって雅相がここで食い止めなければならないのだ。
「全員まとめてかかってきても構わんぞ。俺は黄泉の者故負けはしないからな」
「っ舐められたもんだな!!」
くいくいと人差し指を前後に動かして煽る鬼に、かちんと頭にきて雅相はおもむろに指を胸の前にかざす。
次はこちらが反撃する番だ!
「吾の指は金刀を執持す、凡常の刀に非ず、これ百錬の刀也、一下せば何ぞ鬼の伏邪ざるや、何ぞ穢れを祓えざるや、千妖万邪皆悉済除、急々如律令」
言葉を発しながら呪符を指に挟み刀印で九字紋を描いていく。
そして印が完成すれば、たちまちに雅相の全身が焔に包まれ始め、次第にその焔は刀印を結んだ二つの指にまとわりつく。
雅相が刀印を一気に振り下ろせば、先端か渦を巻きながら大蛇のような火炎が煌きながら迸る。
「吾の焔で悪鬼を呑み解かせ!」
「ほぉ、小狐は火を司るのか」
迫る大蛇を前に何故か鬼は慌てる様子もなく平然と立っていた。
しかし大蛇の両脇から天后の随神が挟撃を仕掛ける。
さしもの鬼もそれには眉をひくりと上げるがそれでも余裕綽綽であった。
そして雅相の言霊の体現通り、大蛇が鬼を真中で丸呑みし二神が大蛇の脇へ双刀を突き刺した。
……が、大蛇が瞬時に吹き消え、中から露わとなったのは二神の双刀を両指で制した鬼の姿であった。
「う、うそだ……ろ」
「こんなものか」
絶句する雅相に呆れたようなため息交じりに鬼が吐き出すと二神を投げ飛ばし、ゆるりとした動作で五芒星――否、逆さ五芒星を宙に描き出した。
つまり鬼が邪術を行使しようとしているのだ。
「吾の息吹は黄泉の風、吾の声は黄泉の民の者、吾の情は黄泉の大海、吾は黄泉へ誘う者也、沈めよ沈めよ、素戔嗚尊よ吾の息吹で示し給へ、邪気延年、業火怨練、急々如律令」
「なっ!?禍言の呪言!?」
雅相が口をぽかんと開くのも無理はない、まず黄泉に向けて呪文を唱えること自体聞いたことがない上に鬼が呪文を唱えたのだ。
むろんそれは天后も同じなようで、結界の中で驚いた風に手で口を覆っていた。
しかし、呆然としている暇はなく鬼が逆さ五芒星に息を吹きかけた途端、墨を含んだようなおどろおどろしい業火が風に乗ってずるりと這い出て、雅相を食らおうと襲い来る。
「くっ早い!」
「よそ見は感心しないな小狐」
雅相が刀印を構えて結界を張りかけた瞬間――――気づけば鬼が雅相の背後に回り、わき腹に鋭い蹴りを打ち込んだ。
「がっは……!」
「業火に呑まれて朽ちさらばえよ」
「若君!!千里!順風耳!お守りしなさい!」
天后の悲鳴に似た声に即座に反応した二神は徐に立ち上がると、千里と呼ばれた顔に大きな札を貼った赤い肌の小鬼が真っ先に雅相に手を伸ばし……業火の射程圏外へと投げ放った。
瞬間、千里は業火に呑まれ跡形もなく消し炭となった。
「千里眼!!」
「っあ……」
もう一方の順風耳と呼ばれたこれまた顔に大きな札を貼った青い肌の小鬼は鬼を追撃するために、小さな体を風を切るように回転させながら双刀で迫る。
「ぬるいな」
「!!」
が、しかし――――
くるりと急に振り返った鬼が回転切りを仕掛けようとする順風耳の片腕を引っ掴み軌道を不安定にさせ、ぐるりと一回転させてそのまま地面へ身体を叩きつけた。
声にならない声を上げる順風耳の体を叩きつけたまま、さらに掴んでいる腕へ力を加えていき、鬼が口を弧に歪ませた刹那……ごきりと順風耳の腕はあってはならない方向に折れ曲がる。
「ぎゃあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁあ!!」
「喧しい口なことだ。静かにしろ」
「させるか!」
追い打ちをかけようとした鬼に向けて呪符を投げつければ、たちまちに鬼と呪符の合間で激しい青白い光がほとばしり、瞬時に呪符が燃え塵と化してしまった。
鬼は微動だにしてはいないものの、しかし忌まわし気な目つきで雅相を睨め付けていた。
やはり神の加護無しでの呪符では太刀打ちできないようだ。……どのみち加護ありでもあまり意味はなさそうだが。
(というより、何故この鬼は加護の付いた呪符が効かないんだ!?悪鬼なら効くだろ普通!)
「小細工が好きだな小狐。男ならばもっと豪胆にこい」
「くっ」
鬼が標的を順風耳から雅相へ今一度変えたのか、軽やかな足取りで地面を踏みしめ近づいてくる。
何の気なしのその行動なのに、雅相にとってそれは……まるで邪悪で悍ましく、遠く及ばない敵が嬲りに来るような錯覚にさえ思えた。
頬から冷たい汗が伝っていき、鬼が地面を踏む音を出すたびに呼吸が乱れていく。
勝てるのか?この呪言も真言も効かない鬼相手にどう勝てばいい?何がこいつに効く?わからない、怨気が強すぎて体が震える。
――――ふわり、
狭窄していく視界の中に宵闇で一際淡く目立つ薄桃色の薄手の羽織の端が飛び込んだ。