Chapter.68
新居に移り二人での新しい生活を始めた一緑と華鈴は、日々を楽しく、忙しく過ごしていた。
入籍も済ませ、あとは挙式を待つばかり。
親族や職場の人間と友人知人、そしてもちろん赤菜邸の住人全員へ招待状を送り終えていた。
青砥デザインのドレスを作るため、採寸をしに行くという用事で華鈴は度々赤菜邸に訪れていた。
式の当日までは内緒にしようと青砥が画策しているため、一緑はまだどんなドレスを着るのか知らない。
一緑のタキシードも青砥と華鈴の見立てで決まっている。これも青砥デザインのもので、出来上がったものを試着をしたけど、タキシードはごく一般的な見た目だった。
(派手なやつじゃなくてよかった)
青砥のデザインは決してオーソドックスとはいえないものだから少し心配していたが、その辺りはさすがに世界規模のプロの仕事だった。
一緑が仕事から帰宅してエントランスの郵便受けを覗くと、ダイレクトメールや招待状の返信に混じり、氏名だけが手書きされた封筒が二通入っていた。
一通は【塚森 一緑 様】もう一通には【紗倉 華鈴 様】と書かれている。その字に見覚えがある。
「キィちゃんか」
つぶやき、封筒を裏返すと【逵下】とだけ書かれていた。
厚さとサイズから、今度発売されるキイロの新作だとわかる。
糊付けで封がされているから、まだ帰宅していない華鈴宛のほうはリビングのテーブルに置いた。
華鈴は、仕事で携わっている雑誌の締切前には帰りが遅くなる。夕食は持ち回りで担当していて、今日は一緑が作る日だ。
得意の牛すじカレーを作ろうと下準備にかかる。
最近購入した電気圧力鍋のおかげで、煮込み系の料理が短時間で作れるようになったと華鈴もごきげんだ。
材料をすべて入れて電源を入れる。これで、しばらく放っておいても美味しいカレーができる。
炊飯器も予約を入れて、さて、とキイロから贈られた本を読むことにする。
キッチンカウンターに置かれたハイタイプの折りたたみチェアに腰掛けて、自分宛の封筒を開封し、ハードカバーの単行本を取り出した。
表紙にはタイトルとキイロのペンネーム。登場人物をイメージしたイラストが描かれている。
ミステリー小説をメインに書いていたキイロが初めて手掛ける恋愛小説は、連載時から各メディアで注目されていた。
たまたま手にした雑誌が掲載誌でちらりと読んだことがあるのだが――
(華鈴よなぁ……)
――物語の主人公である男性が恋をする女性は、明らかに華鈴をモデルにしていた。
華鈴とキイロの関係性を知らなければ結びつくことはないだろうし、キイロも明言はしていないけれど……。
赤菜邸で過ごした日々の端々が、その小説には大切な宝物のように隠され、散りばめられていた。
表紙を開いて目に入った遊び紙には、ただ一言。
“泣かしたら、許さん。”
感情に任せて殴り書きされたようなその一文を見て、一緑は思う。
(宣戦布告やん)
文字を見ながら苦笑する。
一緑には計り知ることもできないその思いを、踏みにじるわけにはいかない。
キイロはきっと、見守る愛を選んだのだと悟る。
本文を読む前に礼を伝えようとボトムスの後ろポケットからスマホを取り出す。
立ち上げたメッセアプリの個別画面に
『俺になんかあったら、あとはお願いします。』
と入力して、上から目線やなと思って消した。かわりに打ち込んだのは……
『生涯かけて守り抜きます。』
送信ボタンを押して、スマホを閉じる。
式場でしか会わない神父に誓うよりも重いその宣言を、キイロはどう思うのだろうか。
もう何年も経つのに、いまだに鮮明に思い出すあの夜の光景が脳裏に浮かぶ。
きっと二人は、見られたことに気付いていない。二人が言うことはないだろうし、もちろん二人に言うつもりもない。
あの日の夜、キイロが気持ちに任せて行動に移していたら、未来は変わっていたかもしれない。
考えて、胸が苦しくなる。
いつからか突然つけ始めた香水も、華鈴はなにも言わないけれど、たぶんキイロがなにか関わっているのだろうと思う。
完全に予想外だった。
まさかキイロが華鈴に思いを寄せるなんて、思ってもみなかった。だから焦った。
結婚するまでの間、ただ一度だけした喧嘩も、その焦りが原因だった。しかしそれがなければ、いまに繋がる決断はもっと遅くなっていたかもしれない。
感謝はしているけれど、譲るつもりはない。
開いた小説を読み進められないまま、圧力鍋が加圧終了のアラームを鳴らす。
ハッとして、本を閉じた。
華鈴にキイロからのメッセージを読ませたくなくて、封筒に戻して仕事部屋の本棚に差し込んだ。
あとから読んだその小説の結末は、主人公が想いを寄せた女性が、その世界の中で一番の幸せ者になるというもの。
きっとそれはキイロの願いなのだとわかる。
これを読んだ華鈴はどんな感想を抱くのだろうと気になったけれど、一緑はそれを聞くことができなかった。
「ただいまー。ごめんね、遅くなっちゃった」
「おかえり。大丈夫よ。もうすぐごはんできるわ」
「ありがとう。今日はカレー?」
「そう、牛すじのやつ」
「やった! 一緑くんの牛すじカレー大好き!」
「手ぇ洗って着替えておいで」
「はーい」
すっかり一人前の社会人になった華鈴も、家に帰れば甘えたがりの可愛い妻だ。
「そうや、キィちゃんから本、届いてたで」
部屋着に着替えてきた華鈴に声をかける。
「えっ、わ、ほんとだ」
テーブルの上に置かれた封筒を見て、華鈴が嬉しそうに開封した。いそいそと表紙を開き「わ」華鈴が小さく声をあげる。
「メッセージいただいちゃった」ほら、と見せられた遊び紙には
“お幸せに!”
とだけ書かれていた。
キイロからの宣戦布告は後にも先にもその一回だけで、それからも持続的に贈られる本には、宛名とサイン、少しの近況報告が書き記されている。
献本はキイロが作家を続けている間、ずっと続いた。
一緑宛の“宣戦布告”を華鈴が見つけたのは、贈られてから数十年後のことだった。