Chapter.62
風呂からあがって部屋へ戻ると、華鈴はまだいなかった。
「準備しとくか……」
通勤バッグの中から、包装された細長い箱を取り出す。
縄張りを主張する犬のようで情けないなと思いつつも、少しだけ、独占欲が湧き出てきて購入を決めた。
初対面のときとは明らかに感情の変化があるキイロに、少しの対抗意識があるのは否めない。
選ぶ権利は華鈴にあるけど、絶対に譲れないものだってあるのだ。
コンコンとノック音が聞こえる。背中側に箱を隠し
「はーい」
ベッドに座ったままで返答すると、ドアが開いて華鈴が顔を見せた。
「ただいま」
「おかえり」
「待った?」
「んー? うん。おいで」一緑は隣のスペースをぽんぽん叩いて華鈴を呼んだ。
「うん」
呼ばれた華鈴はいつでも少し照れつつ、そっと隣に座る。
一緑はその顔も、仕草も大好きで、いつも同じ呼び方をしてしまう。
「夜ごはんありがとう。美味しかった」
「それは良かったです」
ふふ、と微笑む華鈴に、一緑は身を寄せた。
「華鈴」
「ん?」
「手ぇ出して?」
「うん」
華鈴が出した両掌の上に、一緑は隠していた箱を置く。
「ホワイトデーのお返し。貰ってください」
「ありがとうございます」
二人でお辞儀しあって、小さく笑う。
「開けていい?」
「もちろん。見てみて?」
「うん」
華鈴は腿の上に箱を置き、丁寧に包みを開けていく。
ベロア張りのケースの中には、一緑が散々悩んで選んだ、ホースシューモチーフのペンダントが入っていた。
シルバーのチェーンにペンダントトップが付いていて、蹄鉄の形に添って小さな石が、中心に大きな石が配置されている。
「わ、キレイ! 可愛い!」
「本物じゃなくてジルコニアやねんけど」
さすがに本物のダイヤモンドは気持ちが重いかと怖気づいて、価格的にも手頃なほうを選んだ。
「全然! すごく嬉しい! ありがとう!」
言葉通りの心底嬉しそうな笑顔になって、華鈴が一緑を見つめた。
「着けてみる?」
「うん。お願いしていい?」
「うん」
一緑がペンダントをケースから取り出す。留め具を外して、背中を向けた華鈴の首にかけた。まだ少し湿っている髪が艶めかしい。
「どうかな」
一緑のほうを向き、華鈴が首をかしげる。
「可愛い」
ペンダントを着けていようといまいと可愛いのだけど、贈ったペンダントを嬉しそうに身に着けている華鈴は相当可愛い。
「鏡見てくる」
弾んだ声で言って立ち上がり、メタルラックの前に移動する。身だしなみを整えるための鏡を見て、華鈴が笑みを広げた。
「可愛いね」
そのままの表情で振り向いた華鈴に、一緑の心が射貫かれる。
「もー、ほんまにさー」照れたような苦笑を浮かべ、ベッドから立ち上がるとそのまま華鈴を抱きしめた。「可愛すぎるやろ」
「い、いのり、く…」
一緑はそのまま身をかがめて、はだけさせた華鈴の首筋に唇を押し当てた。
「だ、め……!」
一緑を離そうと身体を押すが、力の差は歴然で敵わない。
唇を押し付けたまま強く吸って、ゆっくり離す。華鈴の肌に赤い痕がついたのを確認して、満足そうにもう一度同じ個所にキスを落とした。
一緑は嬉しそうに「俺の、ってシルシ」つぶやいて、微笑みかける。
「もう!」
華鈴は怒った顔を見せて一緑をにらむが、一緑は嬉しそうな笑顔のまま、華鈴を抱きしめた。
「……ばか……」
「うん」
ふてくされたように言った華鈴が可愛くて、一緑はますます愛しくなって抱きしめる腕に力を込めた。
「ごめん」言葉とは裏腹な甘い声に、くすくすと笑い声が混じる。
華鈴もつられてふと笑い、温かな胸に身体を預けた。
* * *
通りすがりにふと香るフローラル。けれどその身体には縄張りを主張する赤い痣。メイクで隠しているが、それでも消し切れていない。
誰も気付いていないそれに、瞬間で視線を奪われた。
このときばかりは目ざとい自分に憎しみを感じる。
主人は知らない二人の秘密を身にまとい、主人から贈られた枷を首に巻いている彼女は、いまなにを思っているのだろう。
手に入らないことは承知の上――それでもあの夜のことを思い出す。
あのままどこかへ攫っていたら、いま彼女は自分の腕の中にいたのだろうか。
子供じみた妄想と執着。
自分から湧き出ているとは思えないその感情を、職業病で観察してしまう。
これまでと変わらず書いているはずの文章にも、それはにじみ出るらしい。他人から見たら、作家として成長をしたように感じるそうだ。
予想外に沸いた感情に気付かないふりもできず、胸に抱き続けながら今日も何気ない顔で過ごす。
嫉妬心はない。独占欲もない。
子供のころ読んだ童話のように、あれはすっぱいぶどうだから手に入れなくていい、などとも思わない。
ただ彼女が幸せそうに笑っていればそれでいい。
苦しみ、辛いなら、そのときそっと近くにいられればいい。
彼女が健やかに過ごせていれば、それだけでいい。
今日も隣に寄り添う二人を見ながら、二人と同じように笑って暮らす。
そんな日が訪れるとは思っていなかった自分にとって、それすら意外で、幸せだ。
だから、できる限り長く見守っていこうと、密やかに決めた。
もう、ただそれだけで、いい――。