Chapter.50
「いや、やっぱもうちょっと時間ほしいかも」
「ここまで来てなにゆうてんの!」
玄関からドタバタ音がして、「いのり戻って来たよ!」青砥が一緑の手を引っ張って、リビングまで連れて来た。
「なんや、騒がしな~」黒枝がソファに身を預けたまま二人を見やる。
「あれ? カリンちゃんは?」
「とっくに上行ったよ」
「少し寝ろってゆうたから、さすがに寝てるんちゃう?」
「キィちゃんもな」
橙山と黒枝が交互に答えたのを聞いて、一緑の表情が少し暗くなる。
「お前なんちゅう顔してんねん」
あからさまにしかめた一緑の顔を見て、黒枝が苦笑し、笑い交じりに言った。
「二人で一緒に寝てんちゃうの」
拗ねた口調の一緑を見て、三人はきょとんとした顔になる。
「子供か!」苦笑して言ったのは黒枝だ。「お前、いつまでも拗ねるんやめぇや。彼女のがよっぽど大人やぞ。詳しいことは知らんけど、あんな優しいコとでさえ付き合っていけんかったら、この先どんな相手でも無理やぞ!」
珍しく語気を荒げた黒枝に、一緑は少なからず驚いて、気まずそうにうつむいた。
「お前、オレらん中ではいっちゃん若いけど、ゆうてもう三十路手前なんやからさ、まだ学生のコに気ぃ遣わせてどーすんねん!」
「…………」
一緑は反論することすらできず、押し黙った。
かたわらで見守っていた橙山と青砥の視線に気付き、「……なんやねん」黒枝が身じろぐ。
「やっぱお兄ちゃんやねんなーって思ってさ」何故か橙山が照れ笑いを浮かべながら、黒枝を見つめている。
「なんでお前が照れてんのん」と青砥。
「えー? なんか、嬉し恥ずかしって感じ~」なおも頬を赤らめて橙山が言って、「そんで、いのりんはほんま、拗ねるんもほどほどにして、部屋いって、ちゃんと話してきなさいね?」穏やかに一緑を促した。
言葉に詰まる一緑の横で、微笑んだ青砥が一緑の腰をポンと叩く。「だいじょぶ。ちゃんと話したらわかってくれる」
三人の“おにいちゃん”に見守られて、一緑は重い足をひきずるように二階へあがって行った。
* * *
ノックしようとしてやめ、再度ノックしようとして、やめ……。幾度か繰り返し(自分の部屋に入るのにこんなにためらうのおかしいやろ!)奥歯をくいしばり、自分を鼓舞してから一度大きく呼吸して。
小さく二回ノックしてから、緑色のドアを開けた。
すぐ目の前に見えるベッド。その中にあるはずの人影がなくて、瞬間、頭の中がグルリと回る。ドアにかかる手が心臓のように強く脈打ち、震える。
(まさか…本当に……)
ベッドの端から端まで目で追って、それでも見つからず、戸惑って泳いだ視線が床に寝ころぶ小さな身体を捉えた。
(……よかった……)
安堵して溜まった息を吐き、大きく吸った。ようやく呼吸が通常時に戻る。
起こさないように静かにドアを閉めて、華鈴のそばにゆっくり腰を下ろした。
大きなビーズクッションに身をうずめ、猫のように丸くなる華鈴の身体に、脱いだコートをそっとかける。
カーテンから射す薄明りの中でもわかるほど、華鈴は泣きはらした顔をしていて。
華鈴がどれほど自分のことを想っていたのかが瞬時が瞬時に伝わり、胸の奥と胃の痛みがよみがえる。
(ほんま、俺のが子供やわ……)
白い頬にかかった一筋の髪を指で流すと、指先が冷たい肌に触れた。そのまま手を添えて、親指で頬を撫でる。
「……ごめんな……」
かすれた小さな声に反応するように、華鈴のまぶたがゆっくり開いていく。
「……起こした…?」
うつろな瞳が一緑を捉えると、白く細い指が頬を撫でる一緑の手に触れる。冷え切った指が、一緑の胸をしめつけた。
「……おかえりなさい」所々かすれる声でつぶやいて、小さく笑みを浮かべ、華鈴が目を細める。
ゆっくり起き上がる華鈴を待って、一緑はその身体を優しく抱き寄せた。「ごめん……」
耳元でささやくその声は、かすかに震えている。
「いのりくん……」
冷えた身体を温めるように抱きすくめる一緑が「ごめんな……」苦しさと共に吐き出す。
抱き返したいのに、冷えた手がうまく動かない。
一緑を悲しませてしまったのは自分だ。そうやって、華鈴は自分を責める。
「…もう、ここに、いないほうが、いい……?」
「そんなわけないやろ」
少し怒ったように言う一緑が、更に強く華鈴を抱きしめる。
「でも…」
「離れて暮らすなんてできない」華鈴の言葉を遮って、一緑が続ける。「みんなと仲良くなれんくてギスギスするより全然いい。気付くの遅くてごめん」
華鈴がどれだけ傷ついて、どれだけ悲しんだか。顔を見てすぐにわかった。
「俺の、ただの嫉妬や。大事にしてもらって、ありがたがらなあかんのに……」
胸がじくじくと痛む。それは後悔と懺悔と悔悟が綯い交ぜになった感情。
「やから……華鈴は悪くないから……」鼻の奥がツンと痛くなる。必死で涙をこらえるけれど……。「悲しいこと、言わせて……ごめん……」
その声は震えていて。
「いのりくん……」
顔を見なくても、泣いているのだとわかる。
華鈴はなにも言わずに、震える一緑の背中を抱きしめた。また冷えてしまった身体に、指先に、一緑の熱がじわりとしみていく。
それはキイロとは違う、どこか懐かしい、馴染みのある熱。
数時間離れていただけなのに、やっと手にした宝物のように思える。
そうして二人はしばらくの間、抱き合ったままでいて、やがてゆっくり、名残惜しそうに身体を離した。
二人の頬には涙のあと。
お互い顔を見合わせて、恥ずかしそうに笑って、おでこをくっつけた。
「私が好きなのは、一緑くんだけだよ……?」
「……うん。俺も、華鈴が一番大事」
一緑の大きな手が、華鈴の頭を撫でる。安心できて、愛しくて、大好きなぬくもり。
「…みなさんに、ご迷惑かけちゃったね」
「心配はしてたけど、迷惑やとは思ってないよ」
「…そっか。そうだね……」
「まだみんな下におるやろから、仲直りしたって報告してくるね」
「私も」
動こうとする華鈴を、一緑が止めた。
「ごめん。そんな庇護欲そそられるような顔、誰にも見せたくない」
きょとんとする華鈴に、一緑が苦笑を見せる。
「ごめんな。疑ってるわけじゃないんやけど……やきもち? かな?」
少し照れくさそうにする一緑に、華鈴が少し笑った。
「うん。じゃあ、お願いします」
「疲れてるやろし、先ベッド入ってて? なんか飲み物持ってこよっか」
「うん」
華鈴は笑顔で、一緑を見送った。
* * *
一階におりて顔を洗ってからリビングへ移動する。
「あ。お疲れ」
一緑の姿を見つけた青砥が手を挙げて迎え入れた。
「お疲れさま。みんな、ありがとうございました」
リビングでくつろいでいた青砥、橙山、黒枝に頭を下げる。その態度で状況を察した三人は、ほっとした笑顔を見せた。
「無事丸く収まったんやったら良かったわ」
黒枝がコーヒーカップに口を付ける。
「ほんまやわ~」
橙山がおばちゃんのような口調でうなずく。
「えぇカノジョさん見つけたなぁ~」しみじみ言う青砥に、
「うん」一緑が照れた笑みを浮かべた。
「これからも大事にしたげなあかんよ~」なおもしみじみ言う青砥に
「うん、そうする」一緑は再度笑って、うなずいた。
* * *
緑色のドアをノックして、そっとドアを開ける。華鈴はベッドの中で、膝を抱えて丸くなり横たわっていた。
眠っているのかと思い、静かにドアを閉める。机の上にスポーツドリンクのペットボトルを二本置いて、そっとベッドに近付いた。
気配に気付いた華鈴がまぶたを開く。
「起こした?」
「ううん? 起きてた」
ふふっと笑う華鈴は、先ほどよりもさっぱりした顔付きで、一緑は心底安心する。
「飲む?」机に置いたペットボトルを取って見せると
「うん、もらう」華鈴がゆっくりと身体を起こした。
ペットボトルのキャップを開けて「はい」華鈴に渡す。
「ありがと」
受け取って、そのまま少し飲む。一緑からキャップを受け取って締め、机にペットボトルを置こうと身体を移動させる。
伸ばした手に重ねた一緑の手が、ペットボトルごと包み込んで、下ろす。
不思議そうにする華鈴に顔を近付けて、唇を重ねた。
冷えた華鈴の唇を温めるように、ゆっくり、深く口づける。
華鈴の手からペットボトルがすりぬけ、ゴトリと音を立て床に落ちた。空いた手に指を絡め、繋ぎとめる。
一緑の熱が華鈴に移ったころ、ゆっくりと離れて、一緑が華鈴の頭を撫でる。その表情は穏やかで、安心と慈しみが溢れている。
「……そろそろ寝よっか」
「うん」
安堵と共に訪れた眠気に、二人で小さくあくびして、小さく笑い合う。
手を繋いで眠りにつく。その顔には、幸福の笑みが浮かんでいた。