Chapter.47
明け方。
前日から長引いた仕事から帰って来た青砥が、足音を立てないようにリビングへ足を踏み入れ、ビクッと身体をすくめた。
ソファに、誰かが寝ている。
(キイロ……?)
身体にかけたコートに見覚えがある。しかし、体格からしてキイロではない。近付いてまじまじと見つめて「…カリンちゃん……?」わずかに出ている顔から判断して名前を呼んだ。
呼ばれた人物は小さく身体を震わせ、ゆっくりまぶたを開く。
「……あおとさん……」泣きはらした顔で青砥を見上げ、「おはようございます……」小さく頭を下げた。
「おはよう……。どしたん、こんなとこで」
「ごめんなさい……」
「いや、ええんやけど…寒かったんじゃない?」青砥が荷物を置いて、床に座った。「部屋で寝んと、風邪ひくよ」
「……そう、ですよね……」
バツが悪そうに小さく笑う華鈴に、青砥がいぶかしげな顔を見せる。
「……いのりとなんかあった?」
まっすぐに見つめてくる青砥に、華鈴はなにも言えずただ視線を泳がせる。
青砥は優しく微笑んで「言いたくないならそれでええんやけどさ」柔らかい口調で言葉を続ける。「俺らカリンちゃんのこと、妹みたいに大事に思ってるのね? やから、不安があるなら解消したげたいの。無理にとは言わんけどさ」
慈しむようなまなざしの青砥に、華鈴はうつむいたまま、口を閉ざしている。
なにかを考えているような雰囲気を察して待つ青砥に
「一緑が悪い」階段の上からキイロが言った。
「うわ。おはよう。なんや顔色悪いな」
「ええねん、そんなん」ふてくされながら言って、キイロがリビングへ入る。
「え、なに? どしたんマジで。なにがあったん」華鈴とキイロを交互に見て、青砥がオロオロと困る。
「詳しくは知らん。知らんけど、一緑が悪い」キイロはふてくされながら言って、華鈴が座るのとは別のソファへ座った。
「理由がわからんとなんとも言えんのやけど……」
困った顔を見せて、青砥がこめかみを掻く。少し考えて、華鈴の隣に座り直した。
「心配な人がもう一人増えたからさ。良かったら、聞かせてくれへん?」
穏やかに笑って、華鈴を促した。
* * *
「やきもちやきやな~」腕を組み、青砥が少し笑う。
「束縛やで」キイロは不機嫌さを隠さずに言い放った。
「まぁ、いのりの気持ちもわからんでもないけどなぁ」
「なんでよ。サクラさんは悪くないやろ。一緑の言いがかりやねんからさぁ」
「まぁまぁ、ちょっと落ち着きなさいって」
青砥に制されてもなお、キイロは静かに怒っている。
「もー、しゃあないなー」青砥は指で後頭部を掻くと「おれ喉乾いたから、キイロお茶淹れてきてよ」笑みを浮かべたままでキイロを見る。
キイロはなにか言いたげに口を開き、けれどなにも言わずにキッチンへ向かった。
食器を出すキイロを確認してから「わかってるやろうけど、ただの行き違いでしょ?」青砥は華鈴に優しく問う。
ゆっくりと首を縦に動かした華鈴に微笑みかけると、青砥は自分の膝の上で指を組んだ。
「いのりはきっと、カリンちゃんのことが大事でしゃあなくて、心配しすぎちゃうんやなぁ。そしたらカリンちゃんは、その心配を少しでも解消してあげなならん。逆も一緒や」
青砥の言葉を聞いて、華鈴は切なげに目を細め、再度ゆっくりうなずく。
「うん。ええコやな。いまは、いのりは?」
「……わからないです……」
「部屋にいないの?」
「おらんかったよ」人数分のカップを持って、キイロが戻ってきた。「昨夜電話したけど出んかったし、さっき部屋ノックしたけど返事なかった」
「そっか……」キイロがカップをガラステーブルに置くのを見ながら、青砥がジャケットのポケットからスマホを取り出した。「ちょっと連絡してみるわ」
「熱いから……」華鈴の前にカップを置きながら、キイロが小さく言う。
「ありがとうございます……」
キイロは自分が座っていた位置に戻り、昆布茶をすする。
「……おいしい……」一口飲んだ華鈴がつぶやくと
「泣いて塩分足りてないんやわ」
少し口の端を上げて、ぶっきらぼうにキイロが言った。
気遣いが嬉しくて、涙が出そうになる。
青砥は二人のやりとりを横目で見ながら、アプリを立ち上げる。
らせん階段の方向からスリッパと床が触れ合う音が聞こえ「ふあぁ……ぁれ、みんな早いね。どーしたの?」寝ぼけ眼の橙山があくび交じりに三人に声をかけた。
「んー? ちょっとなー」青砥がスマホを操作しながら答えると、
「えっ? ちょっと大丈夫? 二人とも顔色めっちゃ悪い」ガラステーブルを挟んだ正面に回り込んで、橙山はキイロと華鈴の顔を見つめる。「もしかしてカリンちゃん、泣いた? 誰? 泣かせたん」
キイロと青砥を責めるように眉根を寄せる橙山に「ややこしいの来たなぁ……」青砥がつぶやいた。
「俺らちゃうわ」答えたのはキイロだ。
「じゃあいのりしかおらんやん。なに? ケンカしたん? いのりは?」
矢継ぎ早の質問に青砥が苦笑する。「いま連絡してるから……」
「なんでこんなときにおらんのよ」
「いのりも思うところがあったんやない?」スマホの操作を終え、少し面倒くさそうな顔をして橙山を見やる。「大丈夫や。ただの売り言葉に買い言葉や。な?」
青砥の問いかけに、華鈴が申し訳なさそうにうなずいた。
「ふぅん」橙山が口をとがらせて喉を鳴らし、「そしたら、二人でちゃんと話し合う時間つくらんとなぁ。このままでいいなんてどっちも思ってないやろうしさー。サポートはできる限りするけど、オレらがどうこう言う段階ではないのかなぁ?」自問を交えながら、首をかしげる。
「橙山にしてはまともなことゆうたなぁ」青砥が目を丸くして、橙山を見つめた。
「こんなときに茶化してどうすんねん。オレかってそういうの何回か経験したことあるしさ……」橙山は苦笑する。「ここの人たち大好きやから、幸せになってほしいなーって。そんだけ」少し照れくさそうに笑って、頬をほの赤く染め、首をすくめた。
青砥も同意してうなずく。
「けどさーあ」キイロはそれでも、どこか釈然としない様子でむくれている。
「キイロはなんでそんな怒ってんの?」橙山が不思議そうにキイロを見やる。
「怒ってないよ」と反論するその口調は、明らかに怒っていて。
「「いやいやいや」」橙山と青砥が苦笑して、否定した。
どこか落ち着かない自覚があるキイロはふぅ、と大きく息を吐き、吸った。「贅沢やねん」
キイロが放った言葉に三人が反応する。
「一緑は贅沢や。ずっと一緒におれる思てるから大事にせぇへんねん。そんな確証、どこにもないのに……」
橙山と青砥は顔を見合わせ、思案顔を見せ視線を外した。
青砥の手の中でスマホが振動音を立て震える。画面を一瞥した青砥はソファから立ち上がり、「ごめん、ちょっと出てくる。これ、ありがとな」カップを指さしキイロに言って、「あげる」橙山の前に移動させた。
「うん、もらう。気ぃつけて~」橙山がほんわか笑って手を振った。
キイロは相変わらずプンスカしているし、橙山はニコニコして空気を和まそうとしている。
華鈴は申し訳なくなってうつむくと、こらえていた涙がこみあげてきた。
青砥と入れ替わるように足音が聞こえて
「あれ、みんな早いな。おはよー」
黒枝がリビングへやってきた。
「わー! どしたん! どっか痛い?」見上げる華鈴を見て、黒枝が慌てる。
涙を流す華鈴に近寄って、心配そうに華鈴を覗き込む。
華鈴は涙をぬぐいながら、ふるふるとかぶりを振った。
「なに?! キイロになんかされた?!」
「なんで俺やねん」プンスカしたままキイロが答える。
「やってなんかキイロ怒ってるやろー。雰囲気怖いもん」
「俺なんにもやってないって!」
「大きな声出すなって!」
「出してないって!」
「出てるって! なぁ?!」
「うん」黒枝に聞かれて橙山がうなずく。
「出てる?!」同じ勢いで橙山に問うと
「出てる」橙山は冷静に答えた。
「ごめん!」言い返した語気のまま謝るキイロに
「なんやねん朝からさー」橙山が笑った。
つられてふと笑う華鈴を見て、
「やっと笑ったな」
キイロが微笑んだ。
そのキイロを見て少し驚いたように、橙山と黒枝が一瞬顔を見合わせた。