Chapter.46
玄関に入ったキイロは華鈴の手を引いたままリビングへ行き、ジーンズのポケットからスマホを取り出してどこかに電話をかけた。
しばらく耳に当てていたが「チッ」舌打ちをして、通話を中断する。「なんやねん、あいつ」
吐き出すように言ったキイロの顔を、華鈴が見つめていた。
「あ、ごめん……」
握っている手に力がこもっていることに気付き、キイロはそっと、手を離した。
そのぬくもりに少しの名残惜しさを感じつつ、コートのポケットから手を出して、華鈴が首を振る。
涙はとうに枯れているが、幾筋ものあとが頬に張り付いている。
首に巻かれたマフラーの温度は、もう自分のものに塗り替えられていた。少しのさみしさを拭おうとして手をかけるけど、
「寒いやろ、そのままでいいよ」キイロが制し「ちゃんとあったまるまで、これ着とき」脱いだコートを渡した。「なんか温かいの煎れてくるから、座って待ってて」
返事を待たずにキッチンへ向かうキイロが、行きしなに床暖房のスイッチを入れた。
HDDデッキの時計は丑三つ時を表示している。
華鈴は少しためらって、コートを肩からかけた。まだ冷えたままの背中に、腕に、キイロの体温を感じる。
左手にはめたままの手袋を外し、コートの左ポケットへ入れた。
ソファに座って、キッチンへ入ったキイロの背中を見つめる。
電気ケトルで湯を沸かし、華鈴用のカップに粉末のココアを入れて湯を注いだ。自分用にインスタントコーヒーを淹れ、リビングに戻ってくる。
「ん」
華鈴の目の前にカップを置き、隣に座った。
「ありがとうございます……」掠れた声で小さく礼を伝えて、両手でカップを持ち、息を吹きかけてから口をつける。
ほの甘い、とろりとした液体が、華鈴を温めていく。
「一緑電話出ぇへんけど」キイロが低く発した。「なんかあったん」
華鈴は口を開いて言葉を探すが、なかなか出てこない。
「少し……行き違いが、あって……」どう伝えるのが正解かわからず、そんな風に濁す。
「そっか」キイロが前を向いたまま言葉を続けた。「話したくなったらいつでも聞くから、声かけて」
コーヒーをすすって、キイロがうつむく。
「はい……」
キイロの優しさが華鈴の弱った心に響く。
その優しさの、言葉の、行動の真意を知りたくなる。
ここで聞いたら教えてくれるのだろうか。それを知って、自分はどうしたいんだろう。
一緑とのことを考える一方で、別人の自分がキイロのことを考えている。
どちらの自分が本物なのか、わからなくなってきてしまう。
「どうする? 部屋戻る?」
キイロの問いに、華鈴は答えられない。
部屋に戻って一緑がいたら、どうしていいかわからない。家を出てからいままでの間、なんのアクションもないことに、きっと傷つく。
もし不在だとしたら、いまなにをしているのか不安を覚えてしまう。
押し黙る華鈴の心情を察してか、キイロがゆっくり口を開いた。
「あいつの部屋戻りにくかったら、俺の部屋使ったらいいよ」
言葉の意味を探るように、華鈴がキイロを見つめた。
「心配せんでええわ。俺、ここで寝るから」
「だめです…キイロさんが風邪ひいちゃいます……」
「じゃあ、どうする?」鼻にかかる甘い声が、華鈴の答えを待った。
「……ここで、待ちます……。ちゃんと、会って話さないと……」カップの中に言葉を落とすように、小さく告げる。
「そう……」キイロはコーヒーを一口飲んで、小さく華鈴を見た。「一緒にいよか?」
その優しさに甘えてしまいたくなるが、振り切るように小さく首を横に振った。「大丈夫、です。ありがとうございます」
「うん……。俺ずっと部屋おるから、なんかあったら来て」
カップを持って、キイロが立ち上がる。
「……はい」
そうしてはいけないと思いつつ、華鈴はうなずいた。
華鈴に小さく笑いかけ「じゃあ」言い残してキイロは自室へ戻った。
コートに残るぬくもりはマフラーのそれと同じく、きしむように痛む心を少しずつ癒していく。
それでも、そのぬくもりにすがってはいけない。
自分が招いたその痛みから、逃げてはいけない。
きっといま、一緑も同じ痛みを抱えているのだろうから。
なにか連絡が来ているかも……と考えて、連絡手段をなにも持っていないことに気付く。
スマホは部屋に置いたまま家を出たのだ。
小さく深呼吸して、静かに立ち上がる。キイロのマフラーとコートを脱いで、階段をあがった。
音を立てないように緑色のドアを開けるが、部屋は暗く、人の気配もない。ようやく、一緑が外出していることを知る。
部屋へ足を踏み入れると、溜まった冷気が身体を冷やす。枕元で充電していたスマホを取ってホームボタンを押した。
表示された画面に、通知は出てこない。
心臓が掴まれたように痛くなるが、同じ場所で充電していた一緑のスマホがなくなっていることに気付いた。
一緑が自分のスマホを手に取ったとき、華鈴のスマホに気付いたら連絡をしても無駄だとわかる。だからきっと、なんの連絡もないのだ。そう信じたい。
スマホを持ったまま部屋を出て、リビングに戻る。キイロが点けた床暖房のおかげで、フローリングからはもう足を切るような冷たさは感じなかった。
家を出てから数時間も経っていないのに、もう何日も一緑と会っていないような気分になる。
電話をしたら、メッセを送ったら、なにか進展はあるだろうか。
スマホの画面を見つめて思う。
しかしまだ勇気がでない。
顔を見ずに話をして、またすれ違ってしまうのは嫌だ。
それに。
さきほどキイロが電話した相手はきっと一緑だ。キイロからだから出ないのか、なにか出られない理由があるのか。
一緑の動向がわからず、不安を感じる。
寒さに身震いが起こり、ソファに置いていたマフラーとコートをまとう。
外気に晒されたそれらから、もうキイロの体温は感じない。
思いがけない寂しさに、後ろめたさが募る。
あのとき家を出ず、話し合っていれば……。決して時間が戻らないことを知りつつも、後悔は尽きない。
心細くて、ソファの上で身体を丸める。
膝を抱え思うのは、誰よりも愛しい、あの人のこと――。