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Chapter.45

 照明が足元を照らす中、階段をおりて暗いリビングに入る。先ほどまでの団欒が嘘のように、シンと静まり返っている。

 冷えたフローリングの床が裸足に沁みる。けれどその場に留まりたくもなくて、薄着のまま靴を履く。

 玄関の間接照明が人の気配を察知して点灯した。

「誰かおる?」

 急に点いた明かりに気付き、足音が近付いてくる。

「なに? こんな遅くに……」声をかけたのはトイレ帰りのキイロだった。「サクラさん……?」

 華鈴は一瞬振り向いてキイロを黙視すると、小さく会釈をしてそのまま家を出た。


 その瞳には、涙が浮かんでいた。


* * *


 家から離れようと、華鈴はひとり暗い道を歩く。財布もスマホも持っていないからどこかに入ることもできない。

 行く当てもなくさまよっていると、無意識に最寄りの駅前にたどり着いた。

 電車はもう終わっていて、駅前に人影はなく、明かりだけが残る。

 歩みを止めたくなくて、そのまま駅を通り過ぎ歩く。

 寒さに震えながら吐く息は白く、こらえきれず流れる涙が頬を伝う。

 悲しいよりも悔しくて、一緑との会話だけが頭の中をめぐる。

 あのまま部屋にいたほうが良かったのか。ちゃんと納得するまで話し合うべきだったのか。

 一緑の言葉が本心だとしたら、もうあの家に自分の居場所はない。そして、一緑の心の中にも。

 辺りに人影はなく、華鈴の嗚咽が、白い息とともに夜道に消えていく。

 涙を流し、鼻をすすりながらただ歩く。寒さからなのか泣いているからか、だんだん頭がぼうっとしてくる。

 ここがどこなのか、華鈴にはもうわからない。

 道なりにまっすぐ歩いているだけだから、来た道を戻れば駅に着くが、その気もない。


 いまごろ一緑は、なにを思ってるんだろう――。


 考えても答えが出ない疑問が生まれては、涙と一緒に流れていく。

 一緑の優しさに甘えて、自分のことばかりを考えていたんだ、と責める。

 もっと早く気付いていれば良かった。いや、気付いてはいたけど、ほったらかしてしまった。一緑ならきっとわかってくれると、勝手に決めてしまっていた。

 一緑との時間をちゃんと取るようにすれば良かった。

 ただ後悔ばかりが溢れ出る。

 いくら考えても過去に戻ることはできなくて、胸を締め付ける。


 どのくらい泣いていただろう。

 指先は冷え、流れた涙のあとは乾いている。体温も低くなっているのか、吐く息ももう白くはならない。

 次に会ったら気まずいままなのか。それより、また会うことはあるのだろうか。

 どうしても暗い未来しか思い浮かばなくて、冷え切った身体を無理やり動かした。

 道の向こうから車のヘッドライトが近付いてくる。小さな光はどんどん大きくなり、トラックが華鈴の横をすり抜けた。

 強めの風が華鈴の身体をあおる。

 動きづらくなっていた身体がふらつき、その場に倒れそうになった瞬間――

「華鈴!」

 聞き覚えのある声が、聞きなじみのない呼び方で華鈴を呼んだ。

 よろめく身体を支えたのは……

「……キイロさん……」

 顔を上げた華鈴の口から、目の前に現れた人物の名前がこぼれる。

 キイロの口から白い息が激しく出て、消える。

「ぶつけた?! ケガは?!」

 通り過ぎたトラックとの因果関係を確認するように、キイロが華鈴の身体を確認した。

「だい、じょぶ…です……」

 驚いて、それでもなんとか出した声で返事をする。

「良かった……」

 キイロは安堵の息を吐き、自分の首から大判のマフラーを取るとそのまま華鈴に巻いた。急ぎ足で進んだから出たのであろう身体の熱を吸ったそれは、冷え切った華鈴の身体に沁みた。

「ど…して……」

「……見えたから……」キイロは少し気まずそうに言葉を切って、そして小さく告げた。「泣いてんの、見てもうたから」

 激しい呼吸が徐々に収まっていく。

 整えるように一度、深呼吸して、華鈴を見つめた。

「帰ろ」

 華鈴は驚きに満ちた瞳でキイロを見つめ返す。

「……帰ろっ!」

 先ほどより強い口調とともに、キイロが華鈴に左手を差し出した。

 その勢いに後押しされるようにおずおずと出した右の手首を掴んで、キイロが優しく引き寄せる。

 冷え切った指に、キイロの熱が伝わる。冷たさが移ってしまいそうで手を引くが、キイロは離さない。

「ちょっと待ってて」

 キイロがコートのポケットから、手袋を取り出した。華鈴の左手を取り、はめる。

 右手はそのまま握って、自分の手と一緒にコートのポケットに入れた。

 少し困る華鈴に「危なっかしいから」言い訳めいたことを言って、小さく顔をしかめる。

 その温かさを断ることができなくて、華鈴はおとなしく受け入れた。

 二人は黙ったまま、来た道を戻る。

 キイロに引かれて歩を進める華鈴は、すねた子供のような顔でキイロの足取りを見つめている。

「あんま、危ないこと、せんとって」

 優しく言って、手首を掴んでいるポケットの中の手が、華鈴の指先に触れた。冷えた肌を温めるように、ゆるやかに、手を繋ぐ。

 キイロの体温が、止まったはずの涙を誘う。

 ありがとうございますと伝えたいのに、言葉が出てこない。

 泣きじゃくる華鈴の前を、キイロが歩く。手を離さないよう、ゆっくりと。

「き…いろさ……」

「ん?」

「ありがと……ござ……」

 嗚咽交じりの感謝の言葉にキイロが少し笑って。

「うん」

 照れくさそうにうつむいた。


 少しだけ、もう少しだけ、近付きたくて。

 歩速をゆるめたキイロが立ち止まった。

「このまま……」

 ぽつりとつぶやき、言葉を探すように黙るキイロを、華鈴が見上げる。

「…………帰って、いい? 家」

「…………はい」

 小さくうなずく華鈴を見つめて、

「うん」

 キイロが答える。その瞳には優しさが宿っている。


 少し悩んで、本当に言おうとした言葉を飲み込んで、紡いだ言葉。

 少しの緊張。少しの後悔。手にしてはいけない幸福。

 繋いだ手の温もりを忘れなければ、それでいい。


 ふたりだけの秘密を持てた。それだけでいい。


 遠くに駅の明かりが見えてくる。

「ごめん。マフラーじゃなくて、コート着せたら良かったな」

 ようやく温まってきた華鈴の指先を確認して苦笑するキイロに、華鈴は首を振った。

「暖かいから、大丈夫です」

 泣き顔で笑う華鈴と同じような表情を見せて、キイロがうなずいた。

 また、赤菜邸に向かって、ゆっくり歩きだす。


 時折走り去る車が風を起こし、音を立てる。

 冷たい風が肌を切りつけるけれど、二人の間に流れる穏やかな時間がそれを紛らわせてくれる。

 ほんの束の間の宝物のような時間を、いつまでも忘れないでいようと思った。



 そんな二人を、広い道路を挟んだ向かいの道で、一緑が呆然と眺めていた。

 目の前の光景が、テレビに映った非現実のもののように見える。


 なんで……どうして――。


 華鈴を迎えに来たキイロに対して。

 キイロを受け入れた華鈴に対して。

 選択肢を間違えた自分に対して……。


 何度となく問いかけても、答えは出てこない。


「どうしたら……良かったんや……」

 苦笑交じりにつぶやいた言葉は、白い息とともに夜の闇に消えた。

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