Chapter.36
今日の華鈴は起きた時からなんだか不調で。
起き上がった体勢のまま、ベッドでしばらくぼんやりしてしまう。
「…どしたん?」横で眠っていた一緑が目を覚まし、普段と違う様子の華鈴に気付く。
「んー……ちょっとダルい……かな」
「あら……。昨日雨に濡れたからかな」一緑が眠たそうにゆっくりまばたきをしながら起き上がり、腕の中に華鈴をゆるやかに抱く。「体冷えてるね」
「うん……。ちょっと貧血っぽいかも」
「今日の予定は?」
「特になにも……」
「そしたら、今日はゆっくりしとき。邪魔やったら俺、下で作業するから」
んー……とぼんやりする頭で考えるが、うまくまとまらない。
「ちょっと、お水飲んでくる……」
「持ってくるよ」
「お手洗いも行きたいから……」
「下まで一緒に行こうか?」
「ううん、大丈夫…ありがとう……」
「気ぃつけて」
「うん」
心地よい一緑の胸の中から離れて、華鈴は部屋着のまま階下へ向かう。少し重い足取りでトイレを済ませ、冷蔵庫へ移動する。
「…おはよう…」華鈴に声をかけたのはキイロだった。
「あ……おはようございます……」周りのことに気が付かず、危うく無視してしまうところだった。
「どしたん、具合悪いん」部屋着姿の華鈴に気付き、キイロが顔色を見定めるように問うた。
「いえ……少し、ダルいだけなので……」華鈴が力なく微笑むと、
「そう……」キイロは読んでいた新聞に目を戻し、黙った。
重い腕をあげ、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す華鈴に
「…なんか食えそうなら、俺作るけど…」キイロがつぶやくように提案する。
「…え…」予想外の申し出に華鈴が目を丸くした。
「いつも作ってもらってばっかで悪いし」
「…いえ、それは…お気になさらず……」せっかくの申し出を断りたくなくて「……お手間でなければ…」おずおずと答える。
「うん。味噌汁くらいなら飲めそう?」
「はい」
華鈴の返事を聞き、新聞をたたんでキイロがゆるりと立ち上がった。
「座ってて」
「はい」
キイロと入れ替わりにダイニングチェアへ華鈴が座る。
体調が悪くなければもっと喜んでたのにな……少し悔しい思いを抱く。
キイロは鍋に水を入れると、火にかけた。冷蔵庫からじゃがいもと玉ねぎを取り出して皮をむき、じゃがいもはいちょう切りに、玉ねぎはくし切りにしていく。先にじゃがいもを、あとから玉ねぎを入れて煮立たせ、出汁入りの味噌を溶きいれる。
キッチンに立ったキイロの手際は予想以上に無駄もそつもなく、華鈴はぼんやりとその姿を見つめてしまう。
「卵、落とす?」
「はい、お願いします」
「ん」
冷蔵庫から出した卵を割り、器に入れる。中身が傷んでいないのを確認して、ぽとりと鍋に落とした。
ただぼんやりとその光景を眺めている華鈴に、
「あ、おった」着替えを終えた一緑が声をかけるが「だいじょう、ぶ……」その状況を飲み込めずにその場に止まった。
「おはよう。一緑も食う?」
「え。なに?」
「味噌汁。多めに作ったから」
「あ…じゃあ、もらおうかな…」
「うん」
コンロの火を消して三個のお椀に味噌汁をついで、三膳の箸と一緒にトレイに乗せた。
「はい」華鈴には卵入り、一緑と自分には卵なしのお椀と箸を渡して、元いた椅子に着席する。
「ありがとうございます、いただきます」華鈴が手を合わせて、口をつける。「美味しい……」
「うん、良かった」ただ確認したという合図の言葉を紡いで、キイロもお椀に口を付けた。「ん。味見せんでもいけんな」
二人と同じようにした一緑が「…うまい」少し驚いたように言う。
「そやろ? 味噌汁得意やねん」一緑にドヤ顔を見せて、キイロがじゃがいもを口に入れた。「うん、柔らかくなってるわ」
冷えた身体に染みわたるような感覚も一緒に味わいながら、華鈴が目を細める。
「あれ、おはよう~」らせん階段からおりて、青砥が三人に挨拶をする。「あー、なんかええ匂いする~」
オーバーサイズのシャツの中で自分の腹をさすりながら、青砥が空気を味わうように息を吸った。
「まだあるから食えば? 作ったばっかやから、まだあったかいよ」キイロが顎でキッチンを指した。
「えー? なになに~?」青砥は腹をさすったままキッチンへ向かい「あー、みそ汁や~。もらうもらう」鍋の中身を見て嬉しそうに言った。
自分の分を用意した青砥がダイニングチェアに座り「いただきまーす」箸を持ちながら手を合わせて一口すすった。「えー、うまい~」
笑顔になった青砥を見て、キイロがニヤリと笑う。
「なに? キイロが作ったん?」
「うん、そう」
「へぇ~、旨いわぁ。器用やなぁ。なんで急に?」
「ん? まぁ、気が向いたから」
青砥の問いをキイロははぐらかして箸を進める。
食べ進めるうちに、青白かった華鈴の顔に赤みがさしていく。汁を飲み干すと、ほぅ、と息を吐いた。
「ごちそうさまです。美味しかったです」
「うん」キイロが顔色を確認して「ちょっと回復したみたいやな」微笑を浮かべ、視線を逸らした。
「はい。ダルいのも軽くなりました」華鈴が微笑む。
一緑の心が、少し、ちくりと痛んで。でもその感情には気付きたくなくて、思わず目を伏せた。
「塩分不足やったんちゃう」言って、キイロもみそ汁を飲み干す。「あとで洗うから、そこ置いといて。みんなのもまとめて洗うわ」
「いえ、そこまでお世話には……」
「ちょっと気分転換したいねん」キイロの申し出に、華鈴は一緑を見た。
「キぃちゃんがええんやったら、お願いしたらいいよ」
「うん」一緑の言葉にキイロもうなずく。
「すみません、ありがとうございます。お願いします」
「ん」
うなずくキイロに頭を下げて、「少し休むね」一緑に小さく言った。
「うん。あとで行く」
「ありがとう」それでは、と頭を下げて、華鈴がリビングをあとにした。
「…カリンちゃん具合悪かったん?」青砥が一緑に首をかしげる。
「うん、なんかダルいって言って……」
「そっかー。季節の変わり目やし、昨日のこともあるし心配やなぁ」
「うん。やから、様子見てくる」
「うん。大事にしたげて~」
「ありがとう。キぃちゃんもありがとう。ごちそうさま」
「うん。一緑のもまとめて洗うわ」
「お願いします」
キイロはうん、とうなずいて。少しためらってから、「…お大事に、ゆうといて」ぽつりと言った。
一緑は少し驚いて、「……ありがとう」そして柔らかく笑って、自室へ戻っていった。
「よぉ気付いたなぁ」みそ汁を飲み終えて、青砥が言う。
「うん。あのヒト色々全部カオに出るからわかりやすい」
「あー、思ってること出やすいよなぁ。今日は全然わからんかったけど」
「アオが来たときには、もうだいぶ顔色よぉなってたから」
「そっか。回復してるんやったら良かった」青砥は笑って「ごちそうさまでした」顔の前で合掌して、ペコリと頭を下げキイロを見やる。「自分の分は洗うよ~」
「ええよ、三人分も四人分も変わらん……」キイロが言い終わらないうちに
「おはよー、この時間にしては珍しい二人やね」橙山が声をかけた。
「五人目来たよ」キイロに言った青砥のセリフに
「なに? 五人目って」橙山がタヌキ顔で問う。
「あと一人分は残ってると思うけど、どうする?」キイロがわざと主語を抜かして聞いた質問に
「え? なにが? なにを?」要領が得られず橙山はきょときょと二人を交互に見た。
「お鍋見てみ?」青砥が橙山を誘導する。
「えー? なになに~?」ウキウキとスキップせんばかりにキッチンへ向かった橙山が「わー、みそ汁や~! ええにおい~」弾むように言う。
「全部食えそう? 冷めてるやろけど」
「えっ? キぃちゃんお手製?」
「そう」
「わ~、食べる食べる~」レアものや~と相好を崩して、コンロに火をつける。
「あんまりやるとしょっぱくなるから」キイロが頬杖をついて橙山に助言する。
「うん、ほどほどにしとく~」
橙山は自分で食器を用意し、程よくあたたまった1.5人前ほどはある残りの味噌汁を大き目のお椀にすべて注いだ。
「いっただっきま~す」ダイニングテーブルの一席に陣取ってみそ汁をすする。「ん~! うまぁい!」
「良かったわ」
「おじゃがと玉ねぎってええね。おつゆ甘くなる」
「うん、旨いよな」キイロがニヤリと笑う。
「あ~、これ白飯欲しくなるね」
「そこで炭水化物とるから太るねん」キイロが苦み走った声で言って、橙山を見た。
「朝は栄養とっていいって聞いたもん~」
「レトルトのごはんあるやろ。チンしたら?」
青砥の提案に橙山は「ん~」と悩んで。
「魅力的やけど、絶対おかずも欲しくなるから今日は我慢しとく」じゃがいもを口に入れた。咀嚼し、飲み込んでから「二人もおみそ汁だけ?」手元に置かれたお椀を見て言った。
「そう。急やったから他に用意できんかったし、そんなに必要なさそうやったから」キイロは華鈴を思い出す。
「そーなんや」
お椀に口をつけてグーッと飲み干す橙山の顔が、お椀に隠れてしまう。
向かい側でそれを見ていた青砥とキイロが少し笑った。
「あー、うまかったぁ、ごちそうさま!」胸の前で手を合わせる橙山に
「うん」キイロがうなずき、全員分の食器類を回収した。
「オレやるよ?」首をかしげる橙山に
「気分転換したいからええよ」キイロが答える。
「そう? ありがとう」
「うん」
五人分の食器を持ったキイロがシンクへ移動した。
残った橙山と青砥が会話を開始する。
「あと二人分は誰の?」
「一緑とカリンちゃん」
「あら、入れ違いやったか」
「カリンちゃん、具合わるぅしたみたいで」
「あら、いつも元気やのにね。心配やな」
「やから、作ったげたんやって」
「なにを?」
「おみそ汁」
「へぇ、そうなんや」
「そうやねんて」
二人は微笑ましく目尻を下げた。その会話はキイロにも聞こえていて……。
(聞こえてへんつもりかな)
スポンジで食器をこすりながら一人苦笑する。
自分でもどうしてそんなことを申し出たのかわからない。ただ、頻繁に朝食を作ってもらっていることへのお礼の意味はあって。
(……だいぶ慣れたんやろな)
自分の変化にふと笑う。けれどその感情はいまのところ女性全般に向けられているわけではない。
(……いつか慣れる日が来るんやろか……)
食器類と鍋を洗い流す水音を聞きながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。