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Chapter.35

 思えば無謀なチャレンジだった。

 大学に顔を出した帰り、華鈴が赤菜邸最寄り駅の改札出ると、パラパラと小雨が降っていた。しかし向かう方向には青空が見えていたし、歩いているうちに晴れるだろうと思っていた。

 家までそんな遠いわけでなし、陽が落ちる前に……と駅を出て赤菜邸に向かう。

 道のりの半分ほどに差し掛かったところで、暗雲が背後の空に迫ってきた。遠くで聞こえていた雷の音が、徐々に近づいてくる。

(あ、マズいかも)

 急ごうと足を速めるや、大粒の雨が次々に落ちてきた。もうあと数分で目的地に着く、という地点で、集中豪雨の様相を呈した雨粒が華鈴の身体に痛みを伴う強さで当たる。

 一緑から贈られたバッグとその中身を守るように抱きかかえ、足を進める。先の景色が煙って見えないほどの強い雨に、華鈴は乾いた身体でいることをあきらめる。

 駅中のコンビニで傘を買えば良かったと後悔するが、この雨足では傘もあまり役に立たなかったか、とも思う。

 地面に強く叩きつけられた雨が、数センチほど跳ね返っている。

 服が吸った雨粒がしたたり靴の中に落ち、中敷きに染みていく。歩くたびに沸き上がった水が足の裏にあたり、なんとも気持ちが悪い。

 水を吸うたび重くなる靴を引きずりながら、ようやっと赤菜邸の玄関先にたどり着いた華鈴は(ひさし)の下で一息ついた。華鈴から落ちた雫が玄関ポーチに小さな水たまりを作る。

 シャワーを浴びた後のように水を含んだ髪を絞って水を切る。服もずしりと重いが、すべての水を絞り出すのは不可能だ。

 このまま入ったら床を濡らすな、とためらっていると、身体が勝手に身震いする。

 待っているだけでは乾かないし、冷えたら風邪をひくし、濡れたところはあとで拭けばいいやと思い直して玄関ドアを開ける。ドアを閉めると雨音は聞こえなくなったが、代わりに自分の足音に気付く。靴の中敷きから湧き出る水を踏みしめるときに出る音は、小さな子供が履いている笛靴のようだ。

 胸に抱えていたバッグが無事なことを確認して、そっと床に置く。さて、どうやったら濡れる床の範囲を最小限にとどめて部屋までたどり着けるかと考えていると、

「誰か帰ってきた~?」リビングから紫苑の声が聞こえる。「雨すごかったんちゃう~? うわ!」ずぶ濡れの華鈴を見つけ、「降られた?!」顔をしかめる。

「はい…。この辺とか、あとで拭きます」

「そんなんえぇえぇ! ちょっと待ってて! タオル持ってくるから」

 両手を広げて華鈴をその場に待たせ、紫苑は小走りに洗面所に向かった。

 華鈴の肌にじわじわと寒気が来て、鳥肌が立つ。

 少しして早足に戻って来た紫苑が「ごめんごめん、お待たせ」広げた状態のバスタオルを華鈴に渡す。

「ありがとうご…くしゅっ」

「あらら。窓ないほうにお湯ためとくから、着替え持っておいで」華鈴の返事を待たずに、紫苑は浴室へ向かった。

 これで本当に風邪を引いたら迷惑をかけると思い、びしょ濡れの靴下を脱いでバスタオルの端にくるみ、足をぬぐいバッグを回収して部屋へ急ぐ。

 冷えたフローリングの床が足裏に沁みる。

 緑色のドアをノックすると、中から「はーい」と返事が聞こえる。

(う……)

 何か言われそうだなぁと思いつつ、「ただいま……」そっとドアを開けた。

「おかえりー。雨大丈夫」机から振り返り笑顔を見せる一緑が「や……ないね」華鈴を見るや真顔に戻る。立ち上がって華鈴を迎え入れると、バッグを預かり床に置き、肩にかかったタオルで華鈴を優しく拭いていく。「電話くれたら車出したのに」

「駅でたときは小雨だったから……」

「そっか……」ようやく乾いた頬に手を当てた。「冷えちゃったね。お湯ためてくるよ」

「大丈夫…さっき、ヒロハラさんが入れてくれるって言ってたから…」

「シィちゃん?」

「うん。玄関でバッタリ会って…このタオルもヒロハラさんが」

「そうなんや。じゃあもうお風呂入れるんか。ごめんな、引き留めて。あったまっておいで」濡れておでこに張り付いていた前髪を指ではがし、一緑が微笑んだ。

「うん。行ってきます」

 華鈴が着替えを持って部屋を出た。

 少ししてから一緑も自室を出て、玄関へ向かう。

「あれっ」玄関に人影が見えて一緑が声をあげた。

「おう」返事をしたのは紫苑だ。ツッカケを履いて玄関ポーチをモップ掛けしている。

「ごめん、俺やるよ」その水たまりを作ったのが華鈴だとわかり、一緑が名乗りをあげる。

「あー、ええよええよ、そろそろ掃除せな思ってたとこやったから」

「ありがとう」

「うん。一緑は靴、なんとかしてあげたほうがええかもやな」

「靴?」玄関ポーチを覗き込むと、そこにはびしょ濡れになったスニーカーが置かれていた。華鈴のものだとすぐに気付く。「おぉ。ちょっと新聞紙取ってくるわ」

「うん」

 一緑がウォークインクローゼットの中に置かれている古紙回収用の新聞紙を持って玄関に戻ると、紫苑はモップを杖に腰を伸ばしていた。

「ありがとね」

「ええねんええねん」鼻にシワを寄せ、手を振る。「せっかくやし廊下もしよかな」

「ほかにも誰か帰ってくるんちゃう?」

 言いながら一緑が新聞を広げ、一枚ずつ丸めて靴の中に詰めていると、勢いよく玄関ドアが開いた。

「あかーん!」叫んだのは青砥だ。

「うおっ!」一緑が上げた声に

「うわっ!」青砥が驚く。「びっくりしたぁ! なにしてんの?! ふたりして!」入ってきたままの勢いで問う青砥を、“ふたり”が目を丸くして見つめた。

「な?」一緑が紫苑に目配せをすると、

 紫苑が顔をしかめてうなずく。「お前もか」紫苑がモップの柄を支えに手と顎を乗せ、びしょ濡れの青砥を見つめた。

「えっ? なに? ほかに誰かおる?」あたりをキョロキョロと見回す青砥に

「華鈴がおんなじ感じで帰ってきてん」新聞紙を丸めながら一緑が答えた。

「ありゃあ、災難やなぁ」自分も同じ境遇だというのに、青砥は優しさであふれた言葉を口にした。

「駅中にコンビニあるやろ、傘()うたらええのに」あきれ顔で言う紫苑に

「駅とは反対側でタクシー降りてん」青砥が口をとがらせる。

「家の前まで乗って来たら良かったのに」一緑が言うも

「いっしゅん晴れたから大丈夫や思ってんもん」言って、着ているシャツを絞った。「わあ、絞れる」青砥はどこか楽しそうだ。

「タオル持ってくるからお前も風呂入り。窓あるほうな」紫苑がモップをシューズクローゼットに立てかけて洗面所へ向かう。

「誰かに連絡して迎えに来てもらったらよかったのに」靴に新聞紙を詰め終え、一緑が青砥を見上げた。

「あんな雨ん中でスマホなんかよう出さんわ~」逆サイドのシャツの裾を絞りながら青砥が笑う。

「靴、新聞入れとくからそこ脱いどいて」

「え~、ありがとう。至れり尽くせりやん~」

「たまたまな」今度は青砥の分の新聞紙を丸めながら一緑が笑う。

「お待たせ~」紫苑が言って、持ってきたバスタオルを青砥に渡した。

「ありがとう~。紫苑くん、窓ありのほうに着替え入れてたりする? おれあっちのやつ使い尽くしてもうた」

「どっちゃにも入れてるから使ってええよ」

「助かる~。このへんあとで拭くわ~」

「ええよ。ついでやしオレやるわ」ツッカケを履きなおして紫苑がモップの柄に手をかけた。

「ごめんな~、ありがとう~、風呂入ってくる~」

「うん、湯加減は調整してな」サンダルを足の指でもてあそびながら紫苑が青砥に言う。

「助かる~」靴下を脱ぎ、ペタペタと足音を立てながら青砥は浴室へ向かった。

「雨宿りゆう発想はないんかね」

 青砥の背中を見送り、言いながら紫苑がモップを動かし始める。

「駅からここんちまで、宿れるとこなくない?」

「確かにそやけどさぁ。でもアオはタクシー玄関先までつけてもうたらええだけやん」紫苑はブチブチ言いつつも水を拭い取っている。

「なんにせよタイミング良くてよかったわ」一緑は青砥の靴に新聞紙を詰めながら笑う。

「まぁなぁ。ゆうて、なんやもう一人くらい来そうやわ~」

「赤菜くんとキィちゃんは部屋におったで」

「そしたらもぅあいつしかおらんわ」紫苑が言うや、玄関のドアが開いて人が入ってくる。「ほれ」

 驚きもせず紫苑が指さした先には、ずぶ濡れで仏頂面の橙山が立っていた。

「お前もかい」笑いながら言う一緑に

「え? なに? 帰ってきて早々ツッコまれるとは思わんかった、っていうかなんでふたりこんなとこおんの?」

 いつもの明るさはどこへやら。落ち込んだ面持ちで一緑と紫苑を交互に見る。

「色々あってん」青砥の靴に新聞紙を詰め終えて、一緑が苦笑した。

「なんで駅で待たんのん」飽きれる紫苑に

「タクで帰ってきたけど門から玄関までの間にこんなんなってんもん、しゃーないやん」

 言われてみれば、先に帰ってきた二人よりは服が乾いている。

「いま風呂、どっちもふさがってるからタオル持ってこられへんわ、ごめんな」

「え? どっちも?」

「「うん」」紫苑と一緑が同時にうなずく。

「オレ以外に二人もチャレンジャーおった?」

「うん。アオとサクラちゃん」

「えっ、マジで?」仲間がいたとわかった途端、橙山はどこか嬉しそうに笑顔を見せた。「いったん部屋戻るから、どっちか空いたら教えてもうていい?」

「ええよ。リビングで待つならコーヒーかなんか煎れたるけど」床をザッと拭いて、紫苑がリビングを親指で指し示す。

「えー、嬉しい。じゃあそうする」

 先ほどの仏頂面はどこへやら、紫苑の申し出に橙山は満面の笑みを見せ、リビングへ向かった。

 脱いだ靴は外側だけが濡れていて、玄関ポーチにも廊下にも水たまりはできていない。

 橙山を見送った一緑と紫苑が

「「タイミングわるぅ」」

 同時に言って、同時に笑い出した。

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