Chapter.31
残業から帰ってきた一緑が部屋に戻ると、華鈴はすでに風呂も終え、ベッド脇に置かれたビーズクッションに埋もれ雑誌を読みながらくつろいでいた。
「おかえりなさい」
「ただいま~」疲労物質がじゅわっと昇華していくのを感じて、一緑が微笑む。通勤バッグを置きながら「今日は赤菜くんにちょっかい出されんかった?」華鈴に聞いた。
「うん」(物理的には)と思いつつも口には出さない。説明するのが難しいし、なにより疲れて帰ってきた一緑に心配をかけたくなかった。
「じゃあやっぱ、ほんまにもうしてこんかなぁ」
「うん、そうだといいねぇ」華鈴が微笑んで、雑誌を閉じる。「ごはん食べた? まだならなにか作るよ?」
「会社で出前とったから大丈夫、ありがとう。シャワー浴びてこようかな」
「うん、たぶん、みなさんごはんの後に入ってたから、空いてるんじゃないかな?」
「ほんま? じゃあ見てきて、空いてたら入ってきちゃうわ」
「うん、行ってらっしゃい」
華鈴は手を振って一緑を見送りながら、これまでのことを思い出していた。
* * *
華鈴が引っ越してきて初めての夜にあった、風呂上がりの冷蔵庫ドン以来、ことあるごとに華鈴に絡んでくる赤菜は都度、一緑に目撃されては注意を受けている。
ある日は……
赤菜邸には住人達のスケジュールを書き込むホワイトボードが掲示されている。書くも書かぬも個人の自由だが、決まった職場以外での業務も多い住人ばかりだからか、案外活用されている。
リビングの壁にかけられたボードに華鈴が予定を書き込んでいると、背後に気配を感じた。
振り向こうとした瞬間、『バン!』右側から大きな音がした。瞬時に反応した身体がビクリと震える。
「予定、書いてんの」
耳元でぼそりとささやくように発せられたその声には、聞き覚えがある。
「あ、赤菜さん…?」
振り向こうとすると今度は『バン!』左側の壁が鳴った。
(ち、近い……)背中に熱を感じて華鈴が身じろぐ。
左右はもちろん、下から抜けるような空間もない。
「火曜と土曜は、休みなんや」
赤菜はなおもささやき続ける。声は色っぽいが内容に現実感がありすぎて、違和感がすごい。
「そ、そうですね……」どんどん壁に追いやられる華鈴が、どう逃げようかと考えていると、
「あー! ちょっと赤菜くん! 離れてよ!」らせん階段付近から一緑の声が聞こえた。
同時に大きな舌打ちの音がして、「ジョークや」低く言った赤菜が華鈴から身体を離す。
「もー、なんやねん、やめてよ」駆け寄った一緑が華鈴の前に立ちはだかり、赤菜を見下ろした。「一緒に住めんくなるからさぁ」
「住めへんのやなくて、住まわせたくないんやろ」
「そうよ。しょっちゅうこんなことされたら、危なくて一人にはできんから」
「ずっと一緒にいたらええやろ」
「仕事も学校もあるからそんなん無理やし、しんどい思いさせるやろうからイヤや」一緑は低く言う。「みんなのこと信用して入居お願いしたんやからさ、やめてよ。冗談やとしても、見過ごされへん」
その言葉を聞いた赤菜は一瞬黙って。
「……おん」
挑発するように返答して、その場を去った。
「わかってんのかな……」赤菜の背中を見つめながらぽつりと言う一緑に
「ごめんなさい……」華鈴は小さく謝った。
「なんで? 華鈴はなんも悪くないから」しょんぼりする華鈴の頭を撫でて、一緑は微笑んだ。
また別の日には……
「じゃあ、先おりてるね」
一緑に声をかけて華鈴が部屋を出てドアを閉めると、階段をおりようとしてる赤菜と目が合った。
「こんにちは」
華鈴が言い終わらないうちに、赤菜がツカツカと歩み寄ってくる。
「え……」
背後が行き止まりの華鈴が戸惑っていると、行き先を遮るように緑色のドアに“バン!”と手を突いた。
『え? なに?!』
部屋の中から一緑の焦った声が聞こえる。
「あの……」
「おん」
「通れないんですけど……」
華鈴自身と、部屋の中でドアが開かずに『えっ? えっ? なんで?!』焦る一緑、二人分の意味を込めて言う。
「あぁ。通さんようにしてるからな」
ドアを押さえる手に力を込めて、赤菜がニヤリと笑う。
『華鈴? そこにおる?』ドアを内側から叩いて、一緑が心細げに問いかける。
いるよ、と答える前に、赤菜に聞きたいことができて、華鈴が口を開いた。
「もしかして……」目の前に迫る赤菜にそっと問いかける。「面白がってます……よね?」
伺うような華鈴の問いに、赤菜が更に口角を上げた。「他に、どういう意味があると思ってたん」
『なー。誰かおる~?』ガタガタとドアを鳴らしながら外に呼びかける一緑の声を聴いて、
「こいつ、サクラのことになると必死になりよるからな。オモロいねん」片目を細めて不敵に笑うと、赤菜が突然ドアから手を離した。
途端に、力をかけられていた引き戸が勢いよく開き、“ターン!”と派手な音を立てた。「うわっ!」
ドアの隙間に指が挟まれないよう、とっさに手を引いた一緑は、バンザイの格好をして「わあぁ……」うろたえる。
ふと気付いたように視線を移し「あれ? 赤菜くん?」目の前の人物をキョトンと見て、ハッと気付く。
「もしかして赤菜くんがドア押さえてた?!」
赤菜はなにも答えず、ニヤニヤと笑い続け、前方を顎で示す。
「えっ?」赤菜のせいで袋小路になったスペースに華鈴がいることに気付くと「赤菜くん!」すぐに咎めるように名前を呼んだ。
「気付くん遅いわ」赤菜はニヤニヤと笑みを浮かべながら、部屋向かいの壁にもたれかかった。
「も~……華鈴に絡むんやめてって~……」
心底嫌そうな声色の一緑に、赤菜はフンと鼻を鳴らした。「サクラが目当てなんちゃうわ」
「……へ?」すっとんきょうな声を出して、一緑が首をかしげたすぐあとにハッと気付いた顔を見せ「え! ちょっと嫌や! 俺カノジョおるから!」両手で自分の身体を抱きしめた。
「アホかっ! そういう意味とちゃうわ!」眉間にシワを寄せて一緑をにらみ「もうええわ」漫才の締めのような言葉を残して、赤菜は階段をおりて行った。
「えぇー……」その背中を見送りながら、一緑が脱力した声を出す。はたと気付いて華鈴に向き直ると「なんもされんかった?」確認するように頭を撫でた。
「うん、大丈夫」
むしろ、一緑くんのほうが被害者なんだけどな。赤菜が自分に絡む理由を知った華鈴は思う。
それからも、タイミングがある毎に壁際や冷蔵庫などにドンドンと追い込まれる華鈴だったが、それは必ず一緑が在宅しているときで。
そして何故か、迫られるたびに毎回一緑がやってきて。
その法則に気付いた華鈴は、タイミングを外さない赤菜と一緑に感心するようになっていた。
あるとき、もはや様式美のようになった一連のやりとりに華鈴が思わず笑ってしまう。
「えっ」一緑が意外そうに驚き
「…なんや」赤菜がいぶかしげに華鈴を見やる。
「ごめんなさい…いつもうまくいくなと思って……」
華鈴の言葉に一緑は不思議そうにするが、赤菜は理解したように苦笑した。
「それはサクラも一緒や」苦笑したままで赤菜が言って、壁ドンを解いた。
「え?」一緑だけが不思議そうなまま、クスクス笑う華鈴と苦笑する赤菜を見る。
「そろそろええか」赤菜はひとりごちて「なんか別のもん見つけるわ」華鈴に言い片手を挙げると、「ほんなら」言い残してその場を去った。
赤菜の背中を見つめていた一緑が「……えっ? なに? 急に……」誰に言うでもなく声を出して、華鈴を見る。
「飽きたんじゃないかな」
「え、誰が? なにに?」
「うーん…シチュエーションに、かな?」
「……うん? よぉわからん」
「うん。私も正解かはわからないけど……もう、いままでみたいにはされないと思う」
「……まぁ、華鈴が絡まれへんようになるならそれでええんやけど……」納得いかないように後頭部を掻きながら、一緑が二階を見上げる。
華鈴はそんな一緑を、微笑みながら見つめていた。
* * *
果たして、赤菜はそれ以降、華鈴にちょっかいを出さなくなり、直接的に一緑をイジるようになった。
華鈴はそんな二人のやりとりを、微笑ましく見守るのだった。