Chapter.26
華鈴がリビングへおりて、真っ先に目に入ったのは黒枝だった。
床に座り、ガラステーブルの上のノートパソコンの前でなにやら険しい顔をしている。
声をかけるか迷った華鈴の耳に「なんやコレ、わっからんわー」小声でブツブツ言う声が聞こえた。
「……どうかしましたか?」
「うわ、カリンちゃん。おったんや」黒枝が驚き、目を丸くする。
「すみません、驚かせて」
「いや、全然ええねんけどさ…あ、ちょうどええわ。聞いてもいい?」
「はい」
「これやねんけどさー」
黒枝がノートパソコンを斜めにずらして、隣に座った華鈴にモニタを見せる。表示されていたのは、いま流行りのSNSだった。
「あぁ、はい」
「やってたりする?」
「頻繁に投稿しているわけじゃないですけど、一応……」
「そうなんや。若い子みんなやってんねんなぁ」
そう言う黒枝も三十路を一年過ぎただけで、世間的にはまだまだ若い部類なのだが。
「黒枝さんも登録してるんですよね?」
画面に表示されているのは、ログイン後のユーザーページだった。
「事務所がな、公式始めるゆうて」
「公式?」
「うん、“クロエ”の」
クロエは黒枝がモデル業をするときの芸名だ。見れば確かにユーザー名が『クロエ(モデル)【公式】』となっている。
「へぇ、すごいですね」
「そうなんかなぁ」黒枝はどこか人ごとのように首をひねる。「事務所に言われて、ログインまではできてんけどさぁ」
「あれ? でももう投稿されてますね」
「事務所とオレの兼用やねんて」
「あぁ…なるほど」
表示されている投稿記事は、メディアへの露出情報が主で、広報活動に使用されているとわかる。
「もぅこっからなにしたらええんかわからんくてさぁ」
「使い方ですか?」
「も、そうやし、なにを書いたらええのか……」
「なるほど……」華鈴が唇に指を当てて考える。「書く内容は私には難しいですけど、使い方だけでしたらお教えできますよ」
「えっ、マジで? お願いしたい!」
「はい、わかりました」
華鈴の返答に黒枝が満面の笑みを浮かべた。目元に浮かぶシワすら美しい。
「せんせぇ、よろしくお願いします!」正座で頭を下げる黒枝に、
「基本的なことしかお教えできないと思いますけど……」華鈴が恐縮した。
まずは、とアイコンの意味や書き込み方法をレクチャーをする。
本当に基本的な知識だったが、それでも黒枝にとっては新しい知識のオンパレードだったようで、「へぇ~!」だの「ほぉ~!」だの「すげー!」だのと感嘆詞を発しながら目を輝かせている。
「本当に基本的なことですみません……」
「いやいや、全然! 事務所から送られてきた説明書より全然わかりやすい」
「それなら良かったです」華鈴は小さく安堵の息を吐く。
「えー? ほかのもいいー?」
「はい、わかるものであれば」
「やったぁ」じゃあさぁ、と背もたれにしていたソファの座面から、紙の束を取ってガラステーブルに置いた。「これ、全部いい?」
その紙束は、いくつかのSNSの使い方が印刷された、オリジナルの手引書だった。
「いいですけど……ほぼ全部に登録するんですね」
「そやねんー。海外にも向けていくつかやるって言い出してさー」黒枝が口を尖らせる。その口調には“面倒くさい”という感情がにじんでいた。
「確かに、海外の方でも閲覧しやすいのもありますね」
流行りのSNSが網羅された手引書は、各システムごとにまとめられ、ホチキス止めされている。
「内容は全部一緒でもいいし、たまに書くんでいいって言われてんねんけどさ、ほったらかしにしとくんも気持ち悪くてさぁ」顔をしかめて、手のひらで後頭部をさする。
「ファンの方々は嬉しいでしょうね」
華鈴がプロフィールのフォロワー数を見ながら言う。開設から数日しか経っていないのに、その数は一万人を超えている。
「やからなのかなぁ、イメージ崩すなってめっちゃ言われんの」
「クロエ…さんの、ですか?」
「そう。そんで、企業さんとの契約とかもあるし、けっこう制約もあって……」一冊だけソファの上に残されていた紙束を取り上げた。中に色々な注意事項が書かれているらしい。
「モデルさんって大変なんですね……」
「うーん、そうねぇ…。楽しいことも多いんやけどねぇ……」
マウスをクルクル回しながら黒枝が言った。画面上で連動したカーソルがクルクルと弧を描く。
「やりがいがあるお仕事なんですね」
「うん。やないと続けられないよね。こういう大変な仕事もあるしさ」モニタを見つめながら正座の足を崩すと、三角座りをして膝に顎を乗せた。プルプルとした唇は拗ねた子供がするように突き出されている。
「苦手ですか」
「苦手~。パソコンはおろかスマホも使いこなせてないのにさぁ~」軽く苦笑しながら、傍らに置いた紙束の端を指でパラパラめくった。「文章も、普段通りでいいんやったらまだなんとかなりそやけどさ」
普段の黒枝さんも素敵なのになぁ、と華鈴は思うが、芸能活動はそういう単純な話でもないんだろうな、とも思う。
「次、どれにしましょうか」数冊の手引書を確認する華鈴に
「カンタンなのがいいかな」膝に顎を乗せたまま黒枝が答えた。
「んー……じゃあ、これですかねぇ」華鈴が手に取ったのは、写真の公開をメインとした人気アプリの手引書だった。「写真だけでも投稿できますよ」
「あー、テレビでよく見るやつやー。なんか流行るとすごいんでしょ?」
「そうですね」
「みんなどうやって探してんねやろ思って見てたわ」
「写真と一緒にタグ……検索ワードみたいなのを入れて、見つけてもらいやすくしてるみたいですよ?」
「タグってゆうの?」
「はい。書き方に決まりがあるんですけど……お借りしてもいいですか?」
「うん」
承諾をした黒枝は、華鈴にマウスを渡す。
「こういうですね……」華鈴は操作をしながら、有名なインフルエンサーの投稿を表示した。その中のタグ部分をマウスポインタでクルクルと囲む。「アピールしたいこととか、そのときの気持ちとかをいくつか書くと、それを検索した人に見つけてもらえたりします」
「うーん? そいじゃあ、たくさんの人が気になるような言葉を“タグ”にしたらいいってこと?」
「はい、そうです。オリジナルで作ったワードが流行って広まったりもします」
「へぇ~、じゃあセンスが重要ってことか~」
「はい。このSNSから流行った曲とかもありますね」
「あ~、なんか聞いたことある~」黒枝は興味津々といった表情でモニタを見つめている。
「この投稿には25万“いいね”付いてますね」
「それは? 25万人がええな~って思ったってこと?」
「ざっくり言うとそうですね」
「えー、すげー」黒枝はしげしげと画面を眺める。「えっ、これは写真とタグだけ?」
「タグを入力するところに文章も書けますよ。……これとかは」と先ほどとは違う投稿を表示する。「この部分が文章です」
「あ~、ほんまや~。ちょっと自分でも見たい~」
「はい、もちろん」うなずいて、華鈴は黒枝にマウスを返す。
「……は~、なるほどな~……」
ぽってりした下唇を指で弄びながら画面を見つめるその黒枝の横顔がセクシーで。
(この視点で写真撮ってアップしたら、もうそれだけでいいんじゃないかな……)なんて華鈴は思う。
「えっ、これさぁ」黒枝が横を向く。
横顔を見つめていた華鈴と真正面から目が合って、さすがに華鈴の心臓が跳ねた。
「はいっ。すみません、なんでしょう」
「これ投稿するときってどうすんの?」
「投稿はスマホからのがやりやすいですけど、どうしましょう」
「じゃあスマホでやる~」
黒枝がボトムのポケットからスマホを取り出した。
「ではログインしていただいて……」
そうこうしていくつかのSNSの使い方をレクチャーしていった。
「ありがとうー! 今度から一人でやってみるー!」
「はい。フォローさせていただきます」
「うん、楽しんでもらえるように頑張るわ~」
黒枝は嬉しそうに頬を赤らめた。
* * *
それから数日後、クロエ本人の初投稿が公開され、瞬く間にコメントと拡散、いいねが大量にされた。