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 リオナは眼下に広がる、底さえ見えない谷の暗闇を見下ろして唇を噛んだ。

 その闇の奥から吹き上げてくる濁った臭いの風は、そこに多数の魔物が蠢いていることを感じさせた。後ろから、自分の罪状を読み上げる声は、かつて婚約者だったローガン王子――、今は、国王である彼の声だ。


「リオナ=アーガディン、王妃殺害未遂の罪で、『谷落とし』とする」


 振り返って、彼の顔を見るのも、その彼にしな垂れて勝ち誇った笑みを浮かべているであろう女の顔を見るのも嫌だった。


 ◇


「直接言わないとわからない? 僕は、リオナ、君との婚約を解消する」


 そうローガンに告げられたのは、半年ほど前のことだ。

 父親であるアーガディン公爵から王子から婚約破棄の申し出があったと聞き、急いで宮殿に事実を確認しに行ったリオナをローガンは馬鹿にしたように見て、言った。


「ローガン様、その方、急に部屋に入ってきて何を……」


 彼の寝台で彼と同じ金色の髪に青い瞳の女、イザベラが布団を引き上げ怯えたような声を上げる。


「イザベラ、すまない。元婚約者のリオナはこのとおり不躾ぶしつけな女でね」


 リオナはイザベラを一瞥いちべつすると静かに言った。


「ローガン様、原因はその男爵家の令嬢ですか」


「『男爵家の』令嬢ね。イザベラの身分なんかどうだっていいじゃないか、僕が好きなのは彼女なんだ」


「ですが、公爵家の私との婚約を破棄して、男爵家の令嬢を選ぶということは――」


「君にそんなことを言われる筋合いはない。僕は次の国王なんだよ、リオナ。一番偉いのは国王だろう。王に指示できる人間はどこにもいない。それに、イザベラだって『聖女』だ」


 リオナはぐっと拳を握った。

 王妃は『聖女』とする。その決まりに乗っ取れば、確かにローガンの言う通り、イザベラに資格はある。 


 この国、ロゼッタ王国は魔物がはびこる大陸の中で、退魔の力を持つ聖魔法による結界壁――聖壁で国を囲むことで国土を守り、周辺国の中で一番発展した国だった。


 リオナの家――アーガディン公爵家は、王族の血筋を継ぎ、高い魔力を持つ家系で、代々聖壁を維持するための聖魔法の使い手を輩出している名家だった。国王は聖魔法の使い手である女性――聖女を王妃とすることが習わしとなっており、何人かの聖女の中でも特に強い魔力を持つ公爵家令嬢であるリオナが婚約者となることは必然だった。


 ローガンはリオナに向かって吐き捨てた。


「僕はもっと領土を広げたい。僕ならできるはずだ。イザベラはそれをわかってくれる」


 成長するにつれ大きな野心を持つようになったローガン王子は、周辺国をロゼッタ王国に統合し、領土を広げることを夢見ていた。それにアーガディン公爵家をはじめとする上級貴族たちは反対をしていたが、自分たちの地位を少しでも上げる機会を狙う下級貴族たちは賛同し、国を二分する対立が起きていた。

 

 そんな中でリオナとローガンの婚約はいつの間にか両派をつなぐ架け橋のような存在になっていた。リオナ自身、自分が王妃としてローガンを収めつつ仲良くやれば、この国はずっと今のまま平和にやっていける、自分はそうしなければならないと信じていた。


「――あなたに、賛同しかしない女がお望みなのですか」


 リオナは懇願するように言った。


 幼いころから婚約者として近くで見てきたローガンの横顔を思い出す。


 勉学も武術も魔法の鍛錬も、何にでも『将来国王になるんだから』と熱心なローガンのことをリオナは好きだった。どこかで彼の熱心さが間違った方向に注がれてしまったらどうなるんだろう、というような思いを持っていた。だから、彼を傍で支えて、もしも道を外しそうなときは自分がその手を正しい方へ引いてあげたいと思っていた。


 周辺国を統合する、というローガンの野望は、リオナにはとても危険なものに思えた。

 

ロゼッタ王国のような繁栄を周辺国にも与えてやりたいというのがローガンの考えのようだったが、聖魔法による聖壁が範囲を広げても今と同じほど維持できるとは聖女のリオナには思えなかったし、それに何より、周囲の国がそのまま「はい」と言うとは信じられなかった。そうすれば戦争になるだろう。ロゼッタ王国の軍に周辺国が敵うとは思えないが、それでも誰かが傷つくだろうし、何よりそれは、驕りと押し付けだと思った。


 だから、「私はそれは良いことだと思えません」とローガンに意見したのだ。――結果、彼はそれを疎ましく思い、このイザベラという女を傍に置くようになったのだとリオナは悟った。


「あなたは、婚約者でありながら王子のお悩みを理解してさしあげることができなかったのです。そんな方、婚約を破棄されて当然ですわ」


 寝台の中から肩も露わな男爵令嬢は、勝ち誇ったような笑みを浮かべてリオナに言い放った。


「衛兵、この女をつまみ出せ」


 ローガンは部屋の入口で主人の修羅場に右往左往している兵士を呼び止めた。


「しかし……、リオナ様に乱暴を働くわけには……」


 彼はリオナと王子を見比べて、渋ったような声を出した。

 

「僕の命令が聞けないのか? 大体、この女を許可もなく僕の部屋まで通して――お前は命令無視で牢屋行きだな」


 ローガンは厳しい口調で言う。兵士は顔を強張らせた。


「それは、王子、それだけは……」


「嫌だったら今すぐリオナを外へ追い出せ!」


 リオナはその様子を見ながら瞳が潤むのを感じた。

 いつからローガンはこんな傲慢の塊のようになってしまったのだろうか。


「分かりました、私はもう出ていきます」


 そう言い放って、リオナは王子の部屋を自ら後にした。


 ◇


「姉さま! 婚約破棄は確定?」


 家に帰ると、リオナと同じ柔らかな栗色の髪を揺らして4つ年下の14歳の弟ジェイデンが駆け寄ってきた。


「そんな嬉しそうに言わないで頂戴」


 リオナは弟の額を指で小突く。

 

 ジェイデンは額を両手で押さえてにっと笑った。


「――だって、それって姉さまが、まだまだずっとうちにいてくれるってことでしょ」


「ずっといるなんて言わないで……」


 リオナは苦笑する。18歳という年齢を考えれば、もうそろそろ誰かと結婚して家を出るころだ。王子との婚約がなくなってしまった今、新しい縁談はあるのだろうか。


「あんな危険思想の王子に大事な娘をやらなくて良かったよ。お前の嫁ぎ先はゆっくり決めよう」

 

 弟の後ろから現れたのは、父親のアーガディン公爵だった。彼はにこやかにそう言ったあと、眉をひそめると、厳しい口調でつづけた。


「――国王様に、王子について進言しようと思う。彼を次期国王とするのは、この国にとって危険だ」


 「はい」と言ってリオナはうなだれた。改めて自分がローガンのことを好きだったことに気が付いた。彼がいつから変わってしまったのか気づけなかった自分が嫌になった。


 ◇


 国王が急病で死去したのは、それから3か月後のことだった。

 部屋で突然苦しみ出し、あっという間に死んでしまったとのことだった。


 その知らせを受けた日の夜、アーガディン公爵は家族を広間に集めた。


「リオナ、ジェイデン――お前たちは、はずれの別荘に行っていなさい。あそこの領主は古くからの知り合いだ。何かあれば、国境の外へすぐにお前たちを逃がせるように手配しておく。私は、国王様が本当に病気だったとは思えない。悪い予感がするんだ」


 公爵の進言によって、国王は王位継承者をローガンから弟の第二王子へ変更することを思案していた。その最中の急病は偶然とは考えにくかった。


「ローガン様が、実のお父様を手にかけたと?」


 リオナは震える声で言った。

 彼女の知っている元婚約者は、そんなことをする人ではなかったはずなのに。


「リオナ、王子はもう、昔の王子ではないんだよ」


 父親は悲しそうに娘の頭をなでた。


「明日には出発しなさい」


 母親は二人の子供を抱きしめて言った。


「――私は、行きません」


 リオナははっきりとした口調で言う。


「お父様とお母様を置いてはいけませんし。私には聖女の役割があります。私が役割を放棄してしまっては、聖壁せいへきの力が弱くなってしまいます」


 父親は娘の言い切った言葉に胸を打たれたように黙り込んだ。


「本当にいいのか? ――ローガン様がこのまま即位されれば、国王に進言した我々がどのような処遇を受けるかわからないんだぞ」


 リオナは力強く頷いた。


「私は聖女として国を護っています。何も恥じるようなことはしていないのに、どうして逃げなければいけないのですか」


 弟のジェイデンが両親と姉の間にずいっと身を乗り出して、拗ねたような口調で言った。


「姉さまが行かないなら、僕だって行かないよ」


(この子は)とリオナは苦笑した。


小さいころ身体が弱く、リオナがいつも傍で面倒を見てやっていたせいか、14歳になる弟は身体ばかり大きくなって、少し幼いところがあった。


 リオナは「ジェイデン」と弟の名前を呼ぶと、その頬を両手で包んで視線を合わせた。


「あなたはアーガディン家の跡取り息子なんですから、そんな我儘を言わないで頂戴。私たちに何かあっても、あなたが無事ならアーガディン家は続くわ」


 ジェイデンは姉の手をはたいて払うと、声を荒げた。


「――そんなことは、どうでもいいんだ。僕は姉さまが行かないなら、行かない」


 リオナは驚いた。

 弟はいつも彼女の言うことだけはよく聞いて、反抗したことは今までに一度もなかったから。


「ジェイデン、聞き分けのないことを言わないで。姉さまは、あなたにだけは無事でいてほしいのよ」


 リオナは言いながら瞳が潤むのを感じた。

 いつも「姉さま、姉さま」と慕ってくるこの弟に何かあったらと想像するだけで辛くなる。

 姉の涙に息を呑んだジェイデンは、しばらく黙り込んで、それからぶっきらぼうに呟いた。


「……わかったよ、行く」


 ――翌日早朝、屋敷の前に止まった馬車を前に、ジェイデンはリオナに抱き着いた。


「姉さま、僕はすぐ、姉さまのところに戻ってこれるよね?」


 リオナは少し目線の下にある弟の柔らかい栗色の髪を撫でながら笑った。


「ええ、きっとお父様の心配のし過ぎだから大丈夫よ」


「一応、大事なものを載せておく」


 父親は家族の肖像家、貴金属など大切なものを荷台に詰め込んだ。


「ほら、もう乗りなさい」


 リオナは笑いながらなかなか自分から離れようとしない弟を押し出すように馬車に乗せた。ジェイデンの乗った馬車は、ひっそりと国境はずれにある別荘に出発した。



 それからすぐに、ローガンは父親の跡を継ぎ、ロゼッタ王国の若き国王になった。彼は自分を支持するイザベラの家――ハルマン男爵家を中心とした下級貴族の権限を強くし、今まで力を持っていたアーガディン公爵家などの上級貴族の権限を彼らに移譲した。


 そして、彼はイザベラを王妃として迎え、盛大な結婚式を行った。


「――結婚式の費用がかさんでね――、税金を増やさないとならない」


 白い聖女のローブを身に着けたリオナは、明け方に疲れた様子で宮殿から帰宅し、ソファーに座りこんだ父親の肩を撫でた。


「――今日も大神殿で祈りか?」


 娘の衣装を見た公爵は、眉根を寄せる。

 今のところ新国王のローガンが自分たちに何かをしてくる様子はなかったが、娘を彼らの本拠地である王宮の敷地内にある大神殿に行かせるのは心配だった。


「ええ。聖壁せいへきの力が弱まっているみたいなので」


 リオナはため息をついて家を出た。

 王国を囲む聖壁は宮殿の隣にある大神殿にある聖水晶せいずいしょうに毎日聖女が祈りを捧げ、魔力を送ることで維持されている。聖女の一人である新王妃イザベラが職務であるその祈りを最近行っていないため、聖壁を維持する魔力が足りなくなってしまっているのだった。


 その穴はリオナをはじめとする他の聖女が埋めていたが、魔力とは生命力であるため、一人が供給できる量が限られている。どの聖女も連続で祈りをささげることは難しく、特に魔力の大きいリオナが、足りない分を補う役目を担っていた。


 大神殿の中央、ふわふわと宙に浮かぶ聖水晶からは白い光が溢れ出て、それが暗い神殿の中を照らしていた。


 リオナはその前に跪くと、両手を組み、頭を垂れて祈った。

 彼女の身体から白い光が溢れ、ゆっくりと水晶の中に取り込まれていく。

 長い時間そうしていたリオナだったが、背後から近づく足音に気づいて、顔を上げた。


「お勤め、ご苦労様」


 その声にリオナは顔をしかめる。

 振り返るのも嫌なその声の主はイザベラだった。


「――イザベラ様、あなたも聖女としてのお勤めを行いにここにいらしたのですか」


 先ほどよりもより白く明るく輝く水晶を見つめながらリオナは静かに言った。


「殿下、と及びなさい。私は王妃なのだから」


 イザベラはもう一歩リオナに近づくと、語気を強めた。


「失礼よ、王妃に声をかけられたのだから、こちらを向きなさい」


 「はい」と答えて立ち上がったリオナは振り向く。

 イザベラは、聖女の白い正装ではなく、真っ赤な煌びやかなドレスを身にまとっていた。リオナは顔をしかめる。


「殿下、ここは大神殿です。赤い色は血の色――聖魔法の気を弱めてしまいます。あなたも聖女なら、正装でいらっしゃるべきです」


「――なぜ、あなたにそんな指図をされなきゃいけないのかしら」


「私は、この国の聖壁を護る聖女だからです。殿下、あなたも王妃である前に聖女なのですよ。なぜ、ひと月もの間、祈りにいらっしゃらないのですか」


 イザベラは不快そうな顔でリオナを睨んだ。


「結婚式に、祝賀会に、いろいろと王妃としての仕事があったからよ。――聖女なんて、下らない。ちょっと魔法の才能があったからって、なんで私がそんな仕事をやらなきゃいけないの。修行、修行、修行に祈り、祈り、祈り――馬鹿らしい」


 まあ、とイザベラは赤い口紅を塗った口角を上げた。


「王子様にお近づきになるには、ちょうど良かったけれど。私のような男爵令嬢が、いまや王妃だものね」


 イザベラはくすくすと笑い声を立てた。


「聖女としての力はあなたの方があるのかもしれないけれど、女としては私の方が魅力的だったみたいね」


 こんな嫌味を言うためにわざわざ足を運んだのだろうかと思うと、リオナは頭が痛くなった。


「何の御用で、神殿にいらっしゃったのですか」


「――あなたのお父様、私の結婚式にまで文句をつけたみたいね」


 真顔になったイザベラは、まとめた髪に手を伸ばした。


「今までさんざん良い思いをしてきて、まだ私とローガンの邪魔をするの? 彼は廃爵で収めるって言ってるけど、そんなんじゃだめよ」


 さらりと彼女の金髪が広がる。リオナは目を大きく見開いた。イザベラが手に持った髪飾りの先端は鋭利に尖っていた。


「あなた、何をッ――!」


 そう叫んだ時には、イザベラは自分の腕にその刃を突き立てていた。

 ぴっと赤い血が飛び散って水晶にあたる。

 とたん、水晶の光が真っ赤に変わって歪んで消えた。

 

 血は穢れ――、それは聖魔法の力を弱めてしまう。


 (水晶の前での刃傷沙汰にんじょうざたは禁忌とされているのに)


 リオナが光を失った水晶を前に言葉を失っている間に、イザベラは大きな悲鳴を上げた。


「誰か! 助けてッ!! 殺される――!!」


 ばたばたという足音と共に、兵士たちが神殿に足を踏み入れる。

 イザベラは血を滴らせる髪飾りを呆然とするリオナの手に握らせてほくそ笑んだ。


 ◇


「――リオナ=アーガディン、崇高なる聖水晶の前で王妃を殺害しようと目論見、水晶を濁らせた罪で有罪とする。刑については、後日伝達する」


 兵士に大聖堂から連行され、そのまま牢獄に押し込まれて7日後――形ばかりの裁判が行われ、国王ローガンがすでに決まっていたであろう判決を読み上げた。


 白い聖女の服は牢獄の泥でまみれ、真っ黒になっていた。


「――水晶刑ですか」


 リオナはローガンとその横に座るイザベラを睨みながら聞いた。

 

水晶刑――それは聖水晶を濁した者に与えられる刑罰で、死刑の中でも特に重いものだった。聖水晶に縛り付けられた罪人は、その力が尽きるまで水晶に魔力を送らなくてはいけない。聖水晶は聖魔法の力を蓄えているため、触れているだけで癒しの効果がある。そのため魔力を吸収されつつも、その一方で癒され、なかなか死に至ることができないのだ。


「さぁ、どうでしょう」


 イザベラが扇で口元を隠しながら言ったが、隠した口元は笑っていた。


 リオナの身柄は王宮地下の牢獄から、大聖堂の中にある小部屋に移された。

 衣装も綺麗な新しい、白いものに変えられる。

 自分を待っているのは『水晶刑』なのだと改めて思い知って、身震いした。

 それでも、聖女としての義務を全うすべく残った自分の責任だと、意識を強く持った


(お父様やお母様はどうされているかしら。ジェイダンは無事に国外に出られるかしら)


 考えるのは家族のことだった。


 しかし――それから何日経っても刑は実行されなかった。

 狭い石壁の部屋の中で、1日に一回提供される粗末な食事だけを食べて過ごす。

 やがて、目を閉じると微かな呻き声が聞こえるような気がしてきた。


(幻聴でも、聞こえるようになったかしら)


 布団も与えられなかったので、耳に手を押し当て、身体を丸まるようにして過ごした。


 そんな日が続いてしばらく経ったころ、急にリオナは部屋から引きずり出された。

兵士に引っ張られ、連れていかれたのは聖女としていつも祈っていた、大聖堂の聖水晶が祀られている場所だった。


 そこにはローガンとイザベラもいた。


「見ろ」


 ローガンは宙に浮かぶ聖水晶を顎で指した。

 そこにある光景に、リオナは棒立ちになり、絶句した。


 空中に浮かんだ水晶に縛り付けられているのは、干からびた人間。

 ミイラのようになった顔から元の姿を推察するのは難しかったが、紛れもなく父親と母親だった。


「お前を水晶刑にかけると言ったら、自分たちが代わりになるからと懇願してきてな」


 ローガンは面白い冗談を言うような口調で、続けた。


「さすが元聖女と、魔力の高さで高名なアーガディン公爵だ。二人で、水晶の穢れを全て取り除いてくれたよ」


 リオナは身体が怒りで熱くなるのを感じた。

 あの、毎日耳に届いていたうめき声は、母親と父親のものではなかったのだろうか。

 

 ――長い間、どれだけ辛かっただろうか。


 頬を涙がつたったが、それは悲しみではなく、怒りの涙だった。


「――水晶を汚した罪は、あなたの両親が代わってくれたわ。だから、あなたの罪状は『王妃殺害未遂』、刑は『谷落とし』よ」


 イザベラは高々《たかだか》と告げた。

 『谷落とし』は水晶刑に次ぐ極刑で、聖壁の外、魔物の集まる谷へ落下させるというものだった。


「ふ、ざ、け、る、な」


 その時、掠れた声が聖堂の中に響いた。

 水晶に縛り付けられたアーガディン公爵は、ぎょろりと飛び出した目玉を怒りに燃やし、ローガンを睨んでいた。

 

「まだ生きているのか」


 ローガンは感嘆の声を上げる。


「や、く、そく、をまも、れ」


 公爵の口は、そう言っていた。

 ローガンは面倒くさそうに言う。


「確かに、『代わりに水晶刑を受ければ、リオナが水晶を穢した罪については免除する』と言ったが、『王妃殺害未遂』を許すとは言っていない」


 ◇


 それから数日、父親も絶命したと告げられたリオナは、両手に鎖を巻かれ、馬車に乗せられ、『谷落とし』の刑に使われる岸壁へ連れていかれた。


 崖の淵を囲むように、薄い白い光の壁ができている。それは王国を魔物から守る聖壁だった。その向こう、谷の奥には無数の魔物がひしめいており、崖から落とされたものは、深い谷底に身体を砕かれ魔物の餌となる。


「リオナ=アーガディン、王妃殺害未遂の罪で、『谷落とし』とする」


 ローガンは高らかに刑の執行を告げた。

 兵士たちは鎖で手を後ろ手に縛られたままのリオナを岸壁へと引きずっていった。

 唇を噛み、瞳をつむり、リオナは遠くに逃げたはずの弟を想った。


(ジェイデン、あなたが生きていればアーガンディン家は終わらない。無事でいてね)


 その時だった。シュンっと何かが空を切る音が響いて、リオナの顔に生暖かいものがかかった。


「姉さま」


 ここにいるはずがない、弟の声がした。

 瞼を開けると、リオナの前に壁を作るように、剣を構えた兵士が立っている。

 ちらりと振り返った、兜から見える青い瞳は、確かにジェイデンのものだった。

 

 驚いて後ずさったリオナの足は何かを踏む。

 視線を落とすと、自分を引っ張っていた兵士の頭が転がっていた。

 どくどくと血を流す首は身体から離れて転がっている。


「ジェイデン、どうしてここに」


「兵士に混ざってたんだ。とにかく、逃げよう」


 リオナの手を引いて、ジェイデンは走り出した。

 制止しようと駆け寄ってくる兵士を、数人切り倒す。

 騎士として訓練を受けているとはいえ、まだ見習いのジェイデンの腕は多数の兵士を相手にするには不足だったが、彼には姉と同じく、父と母から受け継いだ魔法の才能があった。


 ジェイデンは剣に魔法で風をまとわせ、一振りの刃で数人の敵の身体を切り刻んだ。

 岸壁には血しぶきが舞い、土が赤く染まった。

 血の匂いを嗅ぎつけたのか、谷底から、地鳴りのような魔物の吠え声が聞こえる。


「これは、家族を置いて逃げた臆病者が戻ってきたか。ちょうど良い」


 ローガンは横にいる兵士から剣を受け取ると立ち上がった。

 剣を空に向かって掲げ、呪文を唱える。


 空が暗くなり、雷鳴が轟いた。

 稲妻がジェイデンの身体を貫く。


「――ローガン様、さすがです」


 うっとりとした声でイザベラが呟いた。


「ジェイデン?」


 リオナは自分の横に横たわる弟に触れた。鎧は黒焦げになり、彼はぴくりとも動かなくなっていた。溶けた鎧から、焼け焦げた背中が覗いている。


「馬鹿な子、何で戻ってきたのよ……」


 リオナは泣きながら呟いた。弟の身体に触れたかったが、手を縛る鎖がそれをさせてくれなかった。


「――ガキが一人で敵うと思ったのか」


 ローガンは剣を持って、二人の方へ歩み寄った。


「――お前たちは本当に馬鹿だ。僕の邪魔ばかりしやがって」


 そう吐き捨てるように言うと、ローガンは剣先をジェイデンの背中に突き刺した。

 ジェイデンはごふっと口から血を吐き出して、身体を痙攣させた。


「捨てろ」


 兵士が駆け寄り、ジェイデンの身体を担ぐと、谷底へと放り込んだ。

 暗闇へと消えていくその身体を見送って、ローガンは自分を睨みつけているリオナを嘲笑した。


「羽の生えた魔物……あれはハーピィか、お前の弟の身体を捕まえて飛んで行ったよ」


 リオナは自分の中に、身体を焼き尽くすような怒りを感じていた。


 父も、母も、弟も、家族を――大切なものを奪われた。

 噛み締めた唇から血が流れる。

 リオナはローガンとイザベラを睨みつける。


 聖魔法は、護りと癒しの力。それは、争いのための力とは相容れない。

 聖女はその力の純粋性を保つため、聖魔法のみを行使する。聖女であるリオナは、高い魔力を持っていても、相手を傷つける力を持っていなかった。


 彼女は今、そのことが無性に悔しかった。

 

 ――国を護る聖壁を維持する、聖女という立場に誇りと自信を持っていたはずなのに。

 ――自分の大切なものを守る力は何もなかったなんて。


 炎の魔法が使えれば、目の前の奴らを全員燃やし尽くしてやるのに。

 風の魔法が使えれば、目の前の奴らを全員切り刻んでやるのに。

 

 ――聖女の身体なんか、もういらない。


 リオナは笑った。


 ――私は、魔物になってやる。


「気でもおかしくなったか」


 奇妙な笑みを浮かべたリオナを嘲るようにローガンが言った。

 「いいえ」とリオナは首を振る。そして、静かな声で答えた。


「――私を『谷落とし』にしてくれてありがとう」


 彼女は岸壁へ身体を向けると、彼女をいまかと待ち受ける暗闇へと歩みを進めた。

 その様子を何事かと見つめるローガンやイザベラに向き直ると、リオナは笑った。


「あなたたちに、報いを」


 そのまま彼女の身体は空中へと飛んだ。


 ◇


 闇の中へ身体が落下していく。

 リオナは風が身を切っていくのを感じた。

 「ピィィィ」と甲高い鳥の鳴き声のようなものが自分の方へ向かってくるのが聞こえる。


「来たわね」


 そう呟いた時には、人間の女の上半身を持つ鳥型の魔物――ハーピィが彼女の腕に深く噛みついていた。


 落下が止まり、身体が宙づりになる。

 牙が腕に深く食い込み、血がぽたぽたと腕をつたって顔に流れた。


 何匹ものハーピィが周囲を取り囲み、羽音を鳴らしている。

 下を見れば、谷底の岩場が見えた。


 リオナは瞳を閉じると、祈った。

 身体から白い光が放たれる。それは魔を退ける聖魔法の光だった。


「ビィィィ」


 光を浴びたハーピィは、慌てたようにリオナの腕から牙を離した。

 リオナの身体は、どさりと谷底に叩きつけられた。

 ぼきりと骨が砕ける音がした。


 リオナはそれでも目を閉じて祈るのを止めなかった。

 身体の傷は聖なる光の中で癒されていく。

 

 いつの間にか彼女の周りを取り囲むように狼のような魔物や、巨大な蜘蛛のような魔物や、蛇のような魔物が姿を現していた。


 魔物は人間を喰らい、その魔力を得る。

 彼らは、強い魔力に引き寄せられて集まってきたのだった。

 リオナが聖なる光を発している限り、彼らは彼女を襲うことができなかった。

 だから、その光が切れるのを今か今かと待っているのだった。


「――あなたたちじゃ、だめね」


 リオナはゆっくりと、谷底を歩き出した。

 喰われるなら、より強い魔物に、丸ごと喰われなければ意味がない。

 瞳を閉じ、より祈る力を強くする。魔力が強ければ強いほど、より凶暴な魔物を引き寄せるはずだ。


 やがて、彼女の上に大きな影が現れた。

 リオナは瞳を開け、上を見上げた。巨大な黒い竜が羽を広げて頭上を旋回している。


「あなたが、いいわ」


 黒竜以外が自分に近づけないよう、祈りによる光の壁を周囲に広げ、上方の護りを消す。

 そのことに気づいた竜はリオナへ向かって下降した。

 魔物特有の赤い瞳で獲物を見定め、大きな口を開ける。


「私を食べて、丸ごと」


 その牙を受け入れるように、リオナは両手を大きく広げた。

 彼女の身体は、頭から竜の口の中へ飲み込まれた。

 

 牙が身体を押し潰す。

 リオナは自分が肉塊になり食べられて行くのを感じながら、強く念じた。


 ――許さない、絶対に――


 ――ローガンも、イザベラも、全員、殺してやるーー


 その強い思念は彼女の魔力に宿り、竜の身体へと溶け込んだ。


 ――やがて、食事を終えた竜は、一声、咆哮を上げた。

 かっと開いた瞳は、青い色に変わっている。

 竜の口の奥から、低い言葉が漏れた。


「ユ、ル、サ、ナ、イ」


 竜はだんっと地面を蹴ると翼を広げ、谷底から飛び上がった。


 ◇


 黒竜は自分の中に『言葉』を生まれて初めて感じていた。

 今までは、ただ、空腹感を満たしたいという欲求だけで獲物を求め、襲い、喰らいつくだけだった。しかし、今は違う。


「――ローガ、ン、イザ、べ、ラ」


 頭の中に浮かぶ文字を口から発する。

 そこで自分は吠えるだけでなく、話すことができるのだと竜は初めて気づいた。


 ――ナンダ、コノ、キモチは、


 空腹感ではない、体中の血が沸騰するような感覚を竜は感じた。


 ――私ハ、ユルサナイ


 頭の中で知らない声が響く。

 これは『怒り』だと、感情の名前をその声が知らせる。


 ――行カナケレバ


 空中を駆け上がる黒竜ははっきりとそう考えた。

 

 谷の上に辿り着く。目の前には薄い白い光の壁があった。

 今まで、何度かこの光の壁に近づき、鱗が燃えるような感覚を感じ、逃げ去った覚えがあった。――でも今は、違う。


 竜はこの光を通り抜ける方法を知っていた。

 両手の爪を、人間が手を組むように合わせると、竜は青い瞳を閉じた。

 だんだんと、身体の周りに白い光が湧き出してくる。


 そのまま、内側から白く輝く竜は、白い光の壁――聖壁を通り抜けた。

 竜が通った後、その光の壁の一部は黒く濁り――その光を失った。

 

 ◇


「ローガン様、あの雷の一撃、お見事でしたわ」


 宮殿の中、豪華な寝室でベッドに寄り掛かったローガンは、イザベラの注いだ赤いワインを飲みながら、「当たり前だ」と鼻を鳴らした。


「国王たる者、あれくらいは当然だ」


「それにしても」とローガンは不快そうに眉をひそめる。


「兵士たちは情けない。あんなガキひとりに苦戦し、何人も死ぬとは。僕が鍛え直してやらなければいけないな。あんな有様では、我が国の国土を広げることなどできないではないか」


 イザベラは、彼に寄り掛かると深く頷いた。


「本当ですわね。みんな、ローガン様のようにお強ければ、ロゼッタ王国はどの国より広く、豊かになりますのに」


 ローガンは満足そうに笑って、妻を抱き寄せキスをする。


「やはり、お前はかわいい女だ。アーガディン公爵家のすべての財産・領地はお前にやろう」


 その時だった。

 多数の足音が響いて、勢いよく寝室の扉が開けられる。


「何事だ!」


 駆け込んできた兵士に、いいところを台無しにされたローガンは罵声を浴びせた。

 ところが兵士は、非常に慌てた様子で、お返しに怒鳴るように返事した。


「国王様! 竜が、魔物が、王都内に、侵入しました!!!」


 ローガンは眉根を寄せる。


「何? そんなことがあるわけないだろう! おじい様の代より、魔物が王都に侵入したことなど一度も……」


 一度もなかっただろう、と言おうとした時、寝室が激しく揺れた。


「きゃあああああ」


 イザベラの悲鳴が響き渡る。

 上からぱらぱらと石が落ちてきたかと思うと、ガラガラガラと大きな音を立ててそのまま石造りの天井は崩れ落ちた。


「ぐぁああ」


 叫び声を残して兵士の身体は、天井をぶち抜いて現れた黒い影に押しつぶされる。

 寝台の後ろに後ずさりするローガンとイザベラの前に現れたのは、青い瞳の黒竜だった。


「イザベラ! 祈りを!!」


 ローガンは壁際に立てかけられた剣に向かって走った。


「は、はい」


 イザベラは慌てて胸の前で手を組んで瞳を閉じたが、気が動転して祈りのための集中ができなかった。


「何をしてるんだッ!!!」


 ローガンは憤慨して、怒鳴り声を上げた。

 その間に黒竜はどしどしと足音を鳴らし、二人ににじりよった。

 青い瞳が二人を捉える。竜はゆっくりと、大きく口を開けた。


「ム、ク、イ、ヲ」


 喉の奥から竜は絞り出すように、濁った発音で言葉を発した。


 ローガンは中の真っ赤な口の奥を呆然と見つめ、呟いた。


「お前は……、リオナ……?」


 言い終わる前に、竜の口から炎が噴き出した。

 その炎はローガンとイザベラを焼き尽くす。


「国王様! 王妃様!!」


 駆け付けた兵士は砂埃と煙の立ち込める王の寝室に、黒焦げになった二体の骨と青い瞳の黒竜を見つけ、悲鳴を上げた。


 黒竜は兵士を一瞥すると、翼を広げ、突き破った天井を抜け宮殿の上の空へと飛び立った。

 ――そして――そのまま、遠くの空へ姿を消した。


 『谷落とし』の刑罰が行われる谷では、翼を持つ魔物、ハーピィたちが竜の通った光の壁を抜けその内側へと侵入した。彼らは多数の獲物の匂いを鼻で嗅ぎつけていた。


 キィィィィィ


 鳥の魔物の鳴き声が王都の空に木霊し、やがて人々の悲鳴が鳴り響いた。



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