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異空調律  作者: 糸紡弥生
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第二話

夢を見た。

子供の頃の夢だ。

鮮明ではなかったが、ぼんやりと、俺はあの日の光景を、こうして時折夢に見る。それは、俺自身があの頃の生活を羨んでいるからだろうか。両親は俺をよく可愛がってくれていた気がする。草木豊かな庭園を走り回り、泥だらけになりながら、無邪気に遊んでいたあの頃。少し大きくなって、俺は自身の特異性に気付き始めてから、両親は途端に厳しくなった。鍛錬と言い、武術と剣術について身体に教え込まれた。毎日のようにだ。当時の俺は、他の子供よりも身体能力が高い事を知っていたし、将来に関しても、これさえあれば不安などないと、そう決め込んでいたせいか、鍛錬に対してあまり意味を感じることが出来なかった。

両親は言った。


「その力は、人を容易く傷付ける事が出来てしまう。だから、力の使い方を誤ってはいけない。お前は自分を、正しく律しなければならない。」


その言葉は、戒律のように俺の心に深く刻まれた。俺は親の教えが絶対とは思っていない生意気で、邪智な餓鬼だったが、唯一その教えだけは信じ、忠実に守らなければならない教えだと感じていた。それ以来、俺は鍛錬に真摯に打ち込むようになった。他でもない、俺自身を律する為に。

俺の力は、歳を重ねる事に飛躍的に向上していくようになった。鍛錬も相まってのことだろうが、明らかに人間の常識の範疇では扱いきれない程の能力を得ていた。十二歳の頃から既に、俺は父との組手に勝てるようになっていた。そして、それを使いこなし、制御するまで至った。本気を出さず、力の加減をコントロールすることも出来たし、その気になれば誰にでも勝てたが、あくまで俺は一般的な子供として、社会に溶け込むように訓練された。そして、その普通の子供として成長する為には、学校へ行かなければならなかった。かくして俺は、私立の名門中学に、親のコネで入学することになった。


しかし、そこで待ち受けていたのは、余りにも退屈な日常そのものだった。俺はいつからか、想像だにしないような未知との遭遇に焦がれていたのかもしれない。でも、学校というコミュニティに参画したその先にあったのは、どうしようもない煩悩、平凡に溢れ切った、淀んだ泥水のようなくだらない世界だった。俺はすぐに、この世界に辟易するようになった。クラスで1番の成績を取り、更に学年で一番の成績を取る。それでも何一つの優越感を得られなかった俺は、全国模試で三本指に入る程の成績を収めつつ、文武両道を掲げ、抜かりなくそれらをこなしていった。確かに周りからの目は、憧れや尊敬に満ちていたものだったが、俺が求めていたのはそういうのではなかった。俺は俺が超えることの出来ない壁、もしくは障害、つまり、未開の地を欲していたのだ。どこまでも切り詰め、追いかけようと、学園生活を過ごしている限り、それには到達出来ないことを、俺は入学して二年目で、ようやく悟ることが出来た。


こうして、俺は親の反対を押し切って、学校を立ち去った。教師には進路だの何だのと色々口うるさく言われたが、俺にはそんなことどうでもよかった。俺が求めているものは、この先には有り得ない。学校を辞めたのは、そんなごく単純な理由だ。そもそも、弓縫という一族に産まれた時点で、医学界への進路は決まっていたし、それこそ、母さんがそうであったように、魔術師として生きるのも悪くはなかった。そして、熟考の末、俺は母さんと同じ道を進むことになる。父さんは跡継ぎがいなくなる事を懸念して、俺に医学への道を頑なに進めたがったが、父さんは俺の才覚を誰よりも理解していた。結局、医学で社会に溶け込みながらこの力を発揮していくより、異常とも言えるこの魔術や異能の世界に足を運んだ方が、俺には向いているのだ。

それ以来、俺は母さんから、魔術について教わることになった。母さんの専門は召喚魔術と呼ばれる、いわば魔法円による神格や天使の召喚術式を扱う魔術師だった。弓縫という一族は、代々父方が異能者、母方が魔術師というパターンで混血する事が多く、俺の両親も例外ではなかった。故に、双方のうちどちらかが特化して産まれるわけでもなく、双方の性質や特性を、五分五分で引き継ぐような形で継承される。つまり、俺は母さんに魔術を教わり始めた時点では、自身の力の五割しか発揮していなかったことになる。残りの半分、魔術的な才能という伸び代がここに来て垣間見え、俺はあの時、内心ワクワクしていたものだ。

三年程かけて、俺は魔術、異能、武術、学問。それぞれの鍛錬を続けた。しかし、俺が十六歳の誕生日を迎える頃、それは起こった。

俺はその時、少しずつ飽きが回ってきていたのだろう。三年かけて召喚術式の理論を理解し、術式の構築にまで至ったにも関わらず、母さんは俺に、実際に神格や天使を呼び降ろす事を許可してはくれなかった。そんな生殺しに程がある仕打ちに俺は我慢が出来なくなり、母の地下工房で見つけた古い短剣を触媒に、とりあえず何かを召喚してみたいという好奇心で、術式を完成させてしまった。

今思うと、その術式が不完全であればどれだけ良かった事だろうと、つくづく思う。


---そしてその日、悲劇は起きた。


あの夜は月が出ていなかった。ひどく昏い夜だった。立ち込める漆黒の煙は、この世のものとは思えないほど黒く、深く、禍々しかった。床にはべっとりと、鮮血。血の匂いが地下工房に充満し、吐き気がする。煙が晴れてくると、床だけではなく、壁にまで血が弾けていたのが見えた。俺は一瞬、何が起こったのか全く理解出来なかった。生暖かい血の温度が足を濡らし、俺は思わず悲鳴を漏らした。状況を理解した時には、既に遅かった。俺が召喚したのは、余りに醜悪な、善くないものの化身であった。そしてそれは、完全な魔法円であったが故に、完全に召喚として成立してしまったのである。母さんが地下工房に駆けつけた時には、既にこの場所は地獄の様相を呈していた。その後、俺がどうなったのか、あの場所がどうなったのか、それ自体、俺は全く覚えていない。だがあの日以来、俺の世界は確かに、大きな歪みを抱えながら、捻転していったのだということは、はっきりと覚えている。そしてそれ以降、母さんと父さんは、俺を地下の独房に閉じ込めた。数日や数週間というレベルの話ではなかった。何年もだ。俺は最初、これは罰か何かだと思い、その状況を受け入れていた。食事や糞便の処理も全て使いの者が行っていて、両親は一切顔を出さなかった。俺はしばらくの間、母さんの信頼を裏切ってしまったことを悔いていた。だが、流石にこれほどの期間幽閉されていると、とうとうこれが罰では無いことを悟った。きっとこれは、俺が暴走しないように、一生閉じ込めておくための独房なのだ。そう結論づけた俺は、既に正気では無かったのかもしれない。使いの者が食事を運びに来た時、俺は適当な妄言で使いの者の気を逸らし、頭を掴んで鉄格子に叩きつけた。落ちた鍵を拾って、地下から脱出した後、俺は両親の元へと走り、許しを請おうとした。今思うと、使いの者を気絶させて脱獄しておきながら、そんな事をするだなんてどうかしていると思うが、そんな馬鹿げた思考回路に陥ってしまうほど、俺はあの時正気じゃなかったんだ。きっと父さんも、母さんも、自分を許してくれるはずだとも思っていた。そんな事、あるはずもなかったというのに。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


目が覚めると、俺の服は汗でべっとりと濡れていた。身体も妙に重い。

またあの夢だ。

毎日ではないが、こうして時を経ても尚、時折この夢を見る。酷い夢だ。あの日、地下から走り出した先が、両親の元でなければどれほど良かっただろうと、今でも後悔している。

高級ビジネスホテルでの宿泊は、確かに寝心地は良かったが、夢のせいで台無しになってしまった。俺は身を起こすと、しばらくぼうっとしてから洗面所で顔を洗い、朝食のビュッフェを摂りに向かった。その後に手早くシャワーを浴び、着替えを済ませ、ホテルから出た。


やる事がある。今日、確実にやらなければならない。ここで恐れおののき、逃げ帰るわけにはいかない。しかし、恐らくだが、こちらの動向は向こうも粗方掴んでいる事だろう。それなりの対策はされていると踏んだ方が利口だ。戦力の差に関しては、数的に見ればこちらが圧倒的に不利だが、実力としての差はこちらの方が上だろう。曾祖母の技術であった魔法人形という名の自律型の従事兵器も、俺にとっては些事な等級だ、警戒には値しない。

問題なのは母の方だ。彼女は召喚魔術においても一流であったが、かなり遠慮に長けていた人物でもある、策士と言ってもいいだろう。屋敷内部に設置型の術式を組み込んで置くことも造作ではないだろう。そもそも、屋敷に入れるかどうかですら怪しい、強固な結界を張られてしまっていれば、こちらも初手から手をこまねく羽目になる。とにかく、一見してみないことには何も始まらない。俺はとりあえず、街のはずれにある、山の中腹部に鎮座する豪邸、弓縫家の屋敷へと向かうことにした。


街から少し外れた所、風峰山と呼ばれるその場所は、古くから精霊や神霊が集うのだと、母が言っていたのをよく覚えている。俺にはそれを確かに感知できるほどの感受性は無かったし、何より精霊や神霊という物は、心の清らかな人間、つまり、起源から善性である者にしか感知出来ないのだそうだ。俺の場合、第六感のおかげで、存在が少しだけわかる程度ではっきりとした形や意識を認識することは叶わなかった。

笑える話だ、清らかな存在が集うこの山に、これほどまで清らかという言葉が似つかわしくない弓縫の家が堂々と居座っているだなんて、きっと数百年前にこの場所に来てから今まで、ずっとこの一族は、精霊や神霊に嫌われていたのだろう。

小一時間かけて無駄に長い切り開かれた山道を行くと、竹林の向こうに弓縫邸が見えた。恐らくこの一帯には既に、侵入者の感知を通達する術式が組み込まれているのだろうが、気付かれていたとしても、まずそこで手を出される事は無い。わざわざ外で戦闘をするメリットは彼らにはない。この場合、中へと招き入れ、迎撃するのが得策なのだから。

どこか肌を刺すような雰囲気が溢れる弓縫邸の前まで行き、数メートルある高さの大きな正門の前に立ち、見上げる。


「結界が張られていない…?」


俺は不自然に思った。奴らが俺の存在に未だに気付いていないだなんて事は万が一にでもあるわけがなく、むしろ考えられるとすれば、敢えて結界を張っていないという可能性だ。だが一体なんのために…?


「これは驚いた。まさか本当に遭遇するとは。」


竹林の茂みから、ゆらりと人影のようなものが浮かぶ。声の主は女性だったが、俺はその女を一目見て、普通ではないことに気づいた。俺は彼女を睨み、口を開く。


「お前…いや、弓縫の人間ではないな、何者だ。」


俺はあくまで冷静に、静かに問いを投げかける。彼女は明らかに普通では無かった。第一声から感じ取った色合いは、鮮やかな朱色だ。この色を持つ人間は、特異な人間にのみ見られるもので、滅多に居るようなものではない。前に一度、同じ色の人間と出会ったことがあったが、奴は義体技師でありながら、自分の身体の半分を義体にしてしまう程の狂人であった。つまり、朱色の人間は、稀に見る狂人の色というわけだ。俺の問いに、彼女は答える。


「ああ、私は弓縫家とは何ら関係ない、ただのしがない調律師だよ。」


口調からして、彼女にはこちらに明確な敵意がないように思えた。敵意の色というもの自体は無いが、敵意がある場合、放たれる色のオーラが鋭く歪み始める。彼女にはその兆候が見られなかった、或いは、それを完全に隠し通すことの出来る技術、自身の感情や所作を明確に コントロールする能力があるのかもしれない。


「警戒しないのか?」


その女は俺の振る舞いに不自然さを感じたようで、そんなことを言った。それもそうだろう。敵陣とも呼べる弓縫邸の門前で、知りもしない女性が話しかけてくるのだから、普通ならば警戒して然りなのだから。


「お前が何者だかは知らんが、お前自身、俺に敵意を向けていない事は分かる。」


俺は彼女の姿こそ見えないが、その穏やかに揺らめく朱色のオーラを見つめて言った。それは鮮血のようであり、黄昏時の陽炎のようでもあった。


「ああ、なるほど。君の共感覚はそこまで把握出来るのか、興味深いな。」


鼻で笑い、彼女は言う。その口振りは、些か楽しげな様子だ。


「だが、確かに私は君の敵ではないが、味方でもない。少なくとも現時点ではね。私は調律師だが、調律師には調律師なりの流儀がある。君がこの世にとって善であるか悪であるか、私は判別しなければならないんだ。もし後者であるのならば、私も相応の対応はしなくては。」


淡々と、宣戦布告じみた事を彼女は言った。つまり、彼女は文字通り、中立的な立ち位置であるらしい。俺と俺の家、双方への理解を含め、どちらに味方をするべきなのかを吟味しているということなのだろう。


「それで、その調律師サマが一体俺に何の用だ。」


彼女に敵意は無いことは分かっていたが、俺はあくまで敵対的な態度を取っていた。


「いやなに。一つ、忠告しておきたいことがあってね。」


「忠告?」


俺は彼女の言葉を無意識に復唱した。


「君がここを訪れた理由は私も知っている。その両足が義足で、目も見えないことも知っている。そして今、自身の足と目を奪った忌まわしき一族に復讐をしに舞い戻ったことも知っている。私はそれを否定はしないよ。復讐というのはつまるところ、当人にとっての正義なのだからね。善悪など関係ない、君は君が成すべきだと思った事をしているに過ぎないのだから。」


そこまで言うと、俺は彼女の放つオーラが異様に変貌したのを確かに感じ取った。言うなれば、彼女ではない、他の誰かにすり替わったような感覚だ。まるで先程までの彼女では無いかのように、威圧的な口調に変わり、彼女は続ける。


「だが、これだけは言わせてもらうぞ。お前はこのまま行けば、きっと殺される。いや、間違いなく殺されるだろう。引き返すのなら、早い方がいい。」


男性的な口調に俺は驚き、思わず固唾を飲んだ。彼女の口から放たれた、殺されるという予言は、ある種の確信を持ったような言い方だった。


「脅迫でもしているつもりか?無駄だよ。俺は奪われた自由を取り戻すためなら、命を賭けると決めているんだ。それこそ、その闘いで命を落とすのなら、それはそれで本望だ。」


俺は言い返す。無意識に身体が身構えていた。周囲の空気が一気にぴりついたのが肌で感じた。木々のざわめきも、はっきりと騒がしくなったのも感じる。俺の言い分に、彼女は軽く鼻で笑う。


「哀れだな。ならばこのまま死ぬといい。私自身、お前が死のうが生きようがどうだっていいんだからな。」


悔しいが、俺は少しだけ、この女が恐ろしいと感じてしまった。変貌、いや、これは豹変だ。先程までただの女性だったものが、狡猾な狼に化けたのではないかと思うほどに、彼女の纏うオーラは、異様に鋭くなっていた。


「あんたは俺を止めないのか。何なら、今ここでやり合ってもいい。」


「やらないよ、お前と私では相手にならんだろう。私は調律師であって、魔術師とは違うんだ。人間とサシでやり合うのは専門じゃない。」


彼女はそう言った。確かに、俺はこの女を一瞬でも恐ろしいとは思ったものの、戦闘能力においては自分の方が遥かに上だということは自覚していた。すると、彼女は途端に身を翻し、去り際に言い放った。


「忠告はした。後はお前次第だ、弓縫樹。その時になって後悔しても、私は助けはせんぞ。」


竹林の方へと歩き出す彼女の背中を見つめる。


「待て。」


咄嗟に俺は呼び止めた。同時に、彼女は足を止め、こちらを横目で見た。


「まだあんたの名前を聞いていない。」


そう言うと、彼女は一息置いて言った。


「夏美咲。もし仮に、お前が生き延びる事が出来たのだとしたら、その時はまた会いに来るよ。」


そう言ったあと、彼女は振り向くことなく、凛とした足取りで去っていった。吹く風に乗って、ほんの少しだけ、煙草の香りが混じってきた。


不可思議な女だったが、なるほど。


夏美咲。


名前は覚えた。そして、彼女の予言めいたあの台詞を思い出す。

きっとそれは、本当の事なのだろう。ただの脅しではない、俺は多分、復讐の果てに死ぬことになる。自身の実力と現在に至るまでの研鑽の重みを信用していないわけではないが、それを覆し、不安を植え付けてしまうほどに、彼女の言葉と、あの朱く鋭いオーラは恐ろしいものだった。未だかつて、俺はあんな人間を見たことなどない。俺は少し、夏美咲という人間が何者なのか興味が湧いた。

なら、生きて復讐を成し遂げようじゃないか。

そして言ってやるのだ。

あんたの予言を覆して、俺は自由を取り戻したと。


今夜だ。


俺は復讐を遂げてみせる。


その為だけに生きてきたこの生涯を、無駄にするわけにはいかない。弓縫家を滅し、無に還す。勝っても負けても、どちらにせよ、俺の闘いは今夜で終わる。


俺は忌々しい弓縫邸の正門を睨みながら、それに背を向け立ち去る。結界が張られていないのならば、突入時の計略など要らない。堂々と攻め込むだけだ。もとよりここは俺の家なのだ、こそこそと小賢しい事をする必要なんてないのだから。

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