第二話
平日の昼下がり。
徐々に街並みに人気と活気が溢れ出してくる頃合になっても尚、分厚い雲が天を覆い尽くしていた。雨こそ降っていないものの、じめじめとした空気で服が肌に張り付き、その度に僕は風を内側に通すような動きをして気を紛らわせていた。一方、涼しい顔をして僕の隣を歩く金髪の女性トレサは、空気中の不快指数などどこ吹く風よといった表情で、街の人々や店の看板などの一つ一つの物質を、興味なさげに観察していた。すれ違う通行人達は、冴えないくせ毛頭の男と、麗しい金髪女性の組み合わせに視線をこちらに向けたが、彼女自身はそんなことなど気にしていない様子だった。或いは気付いていないだけかもしれないが…
僕達は今、とある人物の元に向かっている。
その人物とは、いわゆる情報屋と言われている人間で、夏美さんの旧い友人だ。僕は何度かこの人の手を借りに足を運んだことがあるが、言うなれば彼は、情報に埋もれて快楽を見出すような奇人であり、同時に、きわめて聡明な人間である。
夏美さん曰く、彼は元々軍人だったらしく、特殊部隊で様々な諜報活動なども行っていたエリートだったようだ。そんな彼がなぜこのような街で、情報屋という職をやっているのか、その真相は定かではないものの、僕は割とあの人の事を気に入ってはいた。彼なりの商いのこだわりというべきだろうか、その辺の棲み分けはしっかりとしていたし、喋り方にも独特な明哲さが窺える。それらの彼の人間性を含めて、今の彼の人望の厚さというものが成り立っているのだろう。
「随分と歩くんだね。バスを出てからもう三十分は歩いてる。」
歩行の速度の違いか、僕とテレサの間には少しの距離があった。後ろから着いてくるテレサは、やや不機嫌そうにそういった。
「そんなこと言ってもしょうがないだろう。公共の交通機関が無いところにいるんだよ、彼。というか、もはやあそこは人ですらあまりいないんだけど。」
人がいないというのは語弊がある。正しくは、一般人はいないという意味だ。あそこにいるのは浮浪者ばかり、スラム街というわけでもないが、もはや使われなくなった、バブル時代に大量に建設されたマンション群は、大勢の立ち退きにより衰退してしまったのだ。そこには身寄りもなければ金もない、衣食住を失った浮浪者達がわんさか集まっているというわけだ。
「なんだって、そんな所に住んでるわけ、その人。」
「さあ、彼はあまり多くは語らないから。気になるんなら、聞いてみるといい。最も、無償で答えてくれるとは思わないけれどね。」
まず第一に、彼と話すにあたって重要な事は会話だ。会話の中で、彼に質問することは愚行である。彼は情報とは命のようなもので、それがどれだけの価値を持っているものなのかを認識している。どんなに些細な質問であれ、彼は金を払われなければ答えない。その答えが高価であればあるほど、値段も高くなる。
数分ほど歩き続けると、じんわりと街の雰囲気も暗くなっていく、廃れていっていくと表現するのがいいだろう。この場所だけ、どこか違う星にいるのではないかと錯覚するくらいに、景観や雰囲気がまるで違うのだ。闊歩する人影は消え失せ、やがて人気のない通りに出る。道端には異臭を放つ浮浪者達が、粗雑なテントやダンボール、恐らくはすべて拾い物なのだろうが、それらの用済みになった物資を駆使して、その場しのぎの生活をしていた。先程とは違う、生温い厭な視線がこちらに向けられてくる。今度は流石のトレサも気に障ったらしく、道行く浮浪者達にガンを飛ばしたりなどしていた。
「こんなところに本当にいるの?」
疑心暗鬼になった彼女は言う。
まあ、そうなる気持ちは大いにわかる。僕は若干不機嫌になりそうな彼女を何とかしてなだめながら、廃れた街を行くのだった。
辿り着いたのは、赤レンガの大きな洋館だった。所々壁にはツルが伸びていて、得体の知れない液が垂れた黒い後が散見されるが、物自体は高貴で、かなり趣のある建物だ。大門の前に立ち、僕はインターホンを鳴らした。ほどなくして、返事こそ無かったが、大門は大きく鈍い音を立てながら、内側に開いた。恐らく、インターホンのカメラ越しに、僕の姿を確認したのだろう。広場には水の出ていない停滞した噴水と、悪趣味なモニュメントがいくつか配置されていたが、そのどれもがやはり手入れなどされておらず、どこぞの幽霊屋敷を彷彿とさせた。広場を抜けて数段ほどある石階段を上がり、僕は軽く深呼吸をした。いつもは夏美さんの付き添いで訪れていたこの場所だが、今回は違う。僕が彼の主賓というわけだから、やや緊張を催した。ドアを開けて入ると、黒と白が規則的に交互に配置された大理石の床と、中央から二手に別れて階段が吹き抜けている構造の大広間に出た。パッと見てもこの部屋にはいくつかの扉があるが、僕はこの階段を昇った先の、中央の扉にしか入ったことがない。遅れて後から入ってきたトレサは大広間の様相に目だけで辺りを見回していたが、やがて男の声と共に、吹き抜けから彼が現れた。
「今日は咲ちゃんはいないみたいだね、代わりに見慣れないレディがいるじゃないか。」
声の主は、ここの管理人である秋山総司。
黒く小洒落たパンスネをかけ、程よい濃さの髭を生やしている。引き締まった体に黒いスーツが似合っていて、ネクタイも1ミリのズレですら見当たらない。
「こんにちは秋山さん。彼女はテレサ、テレサ…」
僕は咄嗟にテレサのファミリーネームを口にしようとしたが、そういえば、彼女のファミリーネームを聞いていなかったのを思い出し、言葉を見失った。
「シュゼインバーグ。テレーゼ・グレイ・シュゼインバーグ。」
僕の様子を察し、彼女は補足するようにして言った。
「シュゼインバーグ…加えてグレイと来たか。なるほど、よろしくレディテレーゼ。私は秋山総司と言う。最も、これは情報屋としての偽名だがね、君のような綺麗な女性をお迎え出来て光栄だ。」
秋山総司はパンスネの位置を人差し指でくいと軽く調整すると、顎をさすりながら興味深くテレサを注視した。
「総司さん、それ偽名だったんですか。」
「そうとも、むしろ私の本名を知っている人間の方が少ないくらいだろう。これはまあ、私が情報屋として生きるための一つの工夫みたいなものさ。咲ちゃんみたいな調律師だって、己の存在を秘匿しようとするだろう。それと同じさ。」
なかなか衝撃的な事実をあっさりと息をするようにして暴露した総司さんに、僕はおどけた顔をして見せた。そんな僕を見て、彼は高笑いをする。
「皐月君、君は本当に表情が豊かだね、私の周りに集まる人間は、大抵がポーカーフェイスの人ばかりだから、君のような情緒の豊かな若者を見るのは、結構珍しいことでね。だが、それは逆に、この世界では不利益をもたらすこともある。表情というのは、いわば他者へ発するサインそのものだ、感情を読まれ、思惑を予測される。私達の世界において、それは手の内を見せて、どうぞ殺してくださいと言っているようなものだ。」
「は、はい。何かすみません…。」
何だか遠回しに説教をされてる気分になって、僕は少し意気消沈した。いや、恐らくこれは説教そのものなのだろうけれど。
「まあ、それは良しとして…。咲ちゃんから連絡は来ているよ。何でも、とある人物について情報が欲しいのだとか。」
総司さんは手早く本題を切り出した。彼は時間を取られることを嫌う。時は金なりとはよく言ったものだが、実際にそれを意識して実生活を過している人間はごくわずかだろう。彼にとって、物事の優先順位は非常に特殊な序列を持っている。第一に命、第二に知識、第三に時間、第四に他者。このように、彼は人生においてかなり重要度の高い必需品である金銭について、一切の魅力や羨望を感じていないのだ。
僕は彼の時間を無駄にはしまいと、やや口調を早めて要件を述べることにした。
「はい、その人物の名前は弓縫樹。八年前にその行方を眩ましていて、生死ですら不明だったらしく、つい最近、彼の両親の元に弓縫樹が市内で目撃されたというタレコミがあったようです。僕達の目的はつまり、彼の発見と保護にあります。」
「なるほど。弓縫とは、これはまた懐かしい名前が出たものだ。まあとにかく、立ち話もなんだ、こちらに案内しよう。」
そう、僕達が今回任された依頼というのは、人探しだ。依頼主はその両親で、長い間音信不通だった息子が、前触れもなくこの街に再び現れたという情報を聞きつけ、僕らに捜索と保護をお願いして来た。という趣旨である。しかし、この程度の依頼であれば、別にわざわざ僕らの元に訪れる理由などない。直接依頼を受けた夏美さんも詳しい話は聞いていないらしいが、どうやら非常に込み入った事情が介在しているとの事だった。
身を翻し、手招きをする総司さんの後を追うため、僕とテレサは高貴な造形の中央階段を上がる。外観のみすぼらしさとは裏腹に、内装は非常に綺麗に手入れされており、階段に敷かれた赤いロングマットが、ふんわりと足の裏を包み込む感触を伝えた。
案内された部屋は、いつも訪れる度に通される客間だった。古く分厚い本が整然と並べられた本棚と、中央にガラス製の長方形のテーブルが鎮座している。透き通るようなガラスは、純度が高いのか、まるでそこに、ガラスなんて張られていないのではないかと思うくらいに澄んでいて、ひどく美しかった。
僕ら二人はソファに座らされ、向かいのソファに総司さんが着席をする。総司さんは執事のような紳士的な見た目の老爺を呼び出すと、紅茶を用意するようにと伝え、僕らに向き直った。テレサは表情こそかしこまったような顔つきだったが、見渡す限りの本棚と、それを埋め尽くす様に並べられた書籍の数々に、目を奪われていた。
「気になるかい?」
彼女の様子を見て、総司さんはにこやかな笑顔で言った。
「気になるなら、二、三冊程度なら持っていってもいい。国立の図書館ほどではないが、小さな下町程度の蔵書数なら確保しているつもりだ。」
下町程度と言っても、それでもかなりの冊数の本があるはずだ。もはや総司さんの住まうこの館は、情報屋としての拠点ではなく、図書館のようなものになっていた。どうやら全ての部屋に大量の本が並んでいるらしいが、地下の大きな空間には、国宝レベルの文献など、希少度の高い本も保管されているのだとか何とか、夏美さんが言っていた気がする。
一方この部屋はと言うと、哲学から心理学、経済学、国際政治学、天文学、地学、物理化学、量子学といった、多岐にわたる専門分野の文献の他、ミステリー小説から純文学、SFやホラーなどといった小説も散見された。ここが客間だからだろうか、万人に需要のあるような、幅広いジャンルが多く並べられている。
「あなた、本を集めているの?」
いきなりタメ口で、かといってさほど親密な口調でもない言い方で、テレサは質問をする。
「まあね、正確には本というよりかは、知識を集めていると言うべきかな。」
よくぞ聞いてくれたと言わんばかりに、総司さんはこくこくと頷きながら答える。
「職業柄仕方がないことでね。世界を見渡す目、それは情報屋において、最も必要とされる技能のひとつだ。あらゆる知見から物事を捉え、仕入れた情報を精査し、鑑定する。情報という不確かな商品には、不定形だからこそ価値が付け難い、故に、学問の垣根を越えた、浅く広くの教養というものが不可欠なんだ。」
満身創痍で語る彼は、どこか楽しげだ。本題の話など、どこかへ吹き飛んでしまったらしい。
「オーディンという北欧の神様を聞いたことがあるかな。彼は知識の泉ミーミルにて、自身の体の一部を代償に、世界についての知識を手に入れたという。彼は知識に関して、驚くほどの執着を持っていてね、幾度も泉に足を運んでは、その都度身体の一部を差し出し、知識を得た。加えて二羽の鴉を使い魔とし、遠征をさせることにより、世界中の情勢を知ることも出来たらしい。」
彼は北欧神話の話を引き合いに出した。
聞いた事ならあった。オーディン、別名吟遊詩人パトロンは、戦の神とも言われる有名な北欧の神である。昔、僕が中学生で、そういう類のものに非常に興味があった頃、学校の図書室で神話の本を読んでは、目を輝かせていたっけ。あまり思い出したくない時代だが。
そんな話をしていると、先程の紳士的な老爺が紅茶を三つ、トレンチに乗せてやってきた。ダージリンティーのようだ。透明なガラステーブルの上にカップが置かれ、軽快な音が鳴った。
「まあつまり私が言いたいのは、私の情報への執着心は、彼、オーディンに値するほど強いってことだ。さあ、紅茶も来たところだし、早速話をしようじゃないか。それで、何だっけ?ああそうそう、弓縫についてね。」
自らの事を熱弁したテンションのまま、彼は本題に入った。正直こうなった総司さんは鬱陶しいくらいだが、夏美さんとは違い、割と彼は神経質な正確でもあるため、あまり気分を逆撫でするようなことは出来ない。僕は黙って、話を聞くことにした。
「そうだねぇ…。弓縫樹という人物について語るには、君達はまず、弓縫家について知らなければならない。」
「家…ですか。」
「そう、家だ。」
「弓縫の家系は、正確には旧家というより、名家と呼ぶべきだろう。確かに、彼らの歴史は旧い。江戸の初期、慶安から発生した弓縫は、どうやら何らかの理由でこの風峰に移転してきたらしくてね。土着というわけではないが、少なくともこの土地に訪れてから、まだ二百年も経っていないそうなんだ。元々はしがない武家の一族だったらしいが、ある日を境に、この一族は飛躍的に地位を上昇させることになる。」
弓縫家。
今は確か、大きな大学病院を開業して、今も尚拡大し続けている、この辺なら名前を知らない者なんていないくらいの偉大な一族だ。僕は一瞬、そんな大金持ちの家からの依頼を達成出来た暁には、どれだけの報酬が入るのだろうと、貪欲で低俗な妄想をしてしまった。僕はそんな自身の煩悩を振り切り、話に集中し直した。
「ある日を境に…?」
「そう、具体的にいつ頃からなのかは分からないが、弓縫の一族はある日を境に、生まれる子全員が、非常に長けた身体能力を有して生まれるようになったそうだ。そしてそれだけではない、朝霧君、君はシックスセンスという代物を知っているかい?」
「ええ知ってます。第六感ってやつですよね。」
「その通りだ。彼ら弓縫家からは、第六感を覚醒させた者が多く排出された。次第にその超人じみた力を手に入れた弓縫家は地位を確立させていったが、やがて、唐突に歴史から姿を消すことになる。恐らく、力の使い方を、富や名声、権力などに使うのではなく、裏で上手く使おうと考えて、表舞台から引っ込んだのだろうね。そうやって今でこそ、ただの財界の名家、医学界でも名を馳せる大家として謳われているものの、巷では未だに超人的な人間の産出について研究を進めているのではないかとか、根も葉もない噂が水面下で流れているんだよ。」
医学と超人の産出。この二つのワードを聞くだけで、いかにもなマッドサイエンティスト像が頭の中をよぎる。
「つまり、その弓縫樹とかいう奴も、超人である可能性が高いというわけか。」
今まで黙って話を聞いていたテレサが確認を挟む。彼女がタメ口で総司さんに話をする度に、こっちがひやひやしてしまう。
「その通り。彼もまた、この一家から排出された超人だ。彼のその力がどれほどの域にまで達していたのかは知らんが、一族の人間は、弓縫樹から両足の機能を奪った他、視力をも取り上げたという。それだけでは飽き足らず、家からの追放という措置も取っている。これだけヤバい事を彼にしてみせたんだ、よほど制御の出来ない域に達していたのだろうね。」
僕とテレサは絶句して、言葉を失った。
先天的な能力の高さが常軌を逸しているせいで、そこまで非道な事を子供にやってのけるだなんて、想像だにしていなかったからだ。僕ら二人は見開いた目を互いに見合せる。何となく、弓縫の家が夏美さんの元に依頼をしてきた理由が分かった気がした。
僕らが生きるこの世界は普通とは違う、異常な世界だ。異常に適応するためには、自身が異常にならなければならない。それが出来なければ、この世界で生き抜くことは出来ず、境界から弾き飛ばされるだろう。だから、この世界の人々は皆、道徳心や倫理観、人間性と言ったような、人らしさを持ち合わせてはいない。つまりそれは、超人を生み出し続ける家系、弓縫家も同じだったというわけだ。
「その、総司さん。第六感というのは、具体的にどういうものなんでしょうか。」
「ふむ、それに関してはきっと、咲ちゃんに聞いた方が詳しい話が聞けると思うんだけど。まあいいか、第六感というのは、つまり力の解放だよ。」
「力…ですか。」
総司さんは紅茶をの香りをすっと優しく吸い込むと、それを飲んだ。一呼吸置いてから、彼はその潤した喉で、説明を始める。
「人間にはね、枷が嵌められているんだ、リミッターと言ってもいい。そのリミッターは誰にでもついていて、それは生涯外れることの無い強固な代物だ。本来人間というものは、脳の持つ力の二十%しか発揮出来ないように抑制されている生き物なんだ。だが何らかの拍子でリミッターが外れ、或いは最初から幾つか外れてしまっていた場合。人間は超人的な能力を発揮することが出来るようになる。その能力のひとつが、第六感というやつだ。明確に感じ取れる直感と言えば分かりやすいかな。つまり、感じる力の覚醒なんだ。ほら、君達にもよくあるだろう?嫌な予感がするとか、そういう場面。第六感はね、そういう感覚的に捉える力が飛躍的に向上した状態なんだ、気配、殺意、敵意、霊的エネルギーや、龍脈をはじめとした大地のエネルギー、視認できないものを感じる事が出来る。もちろん、五感に関しても、通常より鋭く明瞭に研ぎ澄まされている。脳のリミッターが外れているんだからね。」
「脳のリミッターが全て外れると、人は何ができるようになる?」
テレサは腕組みをしながら問う。もうそろそろ、この不躾な彼女の態度にも慣れてきた頃合だ。
「さあ、そこまでは私も知らないね。色々聞いた事はあるけれど、どれも根拠の無い憶測に過ぎないよ。時を止めたり、自身の体を量子化させたり、物体を自由自在に動かしたり。どれも高次元的な話すぎて、全く信頼には値しないがね。」
全くだ。そんなとんでもない話は、映画やアニメの世界だけで充分事足りている。
「きっと彼は、力を解放させ過ぎたんだろう。両親が足を奪ったのは、爆発的に向上してしまった身体能力を抑えるため、そして目を奪ったのは、人間が最も依存する感覚器官、視界を取り上げることで、第六感の力を抑えるためだ。彼自身が力の使い方を制御することが出来たのならば、こうはならなかったろうけどね。」
総司さんは顎髭を擦りながら、物悲しげに語った。
「だが不可解なのは弓縫家の方だ。彼らは元来から、生み出した超人達がどんな力を持っていたとしても、それを制御下に置くことが出来なくなったなんて試しは、今までに一度も無かったんだよ。それほどまでにこの一族の教育能力や管理体制は厳重なものだったし、今に至るまで没落しなかった理由でもある。それなのに、何故か弓縫樹に限っては、その制御に失敗している。きっと何か理由があるんだろうが、残念だが、私もその辺は把握していないんだ。」
僕は途端に、この弓縫という一族に、煮えくり返る程の腹立たしさを感じた。自らの研究のために生み出した子供を、制御出来なかったから足を奪い、目を奪うだなんて、馬鹿げている。親のすることどころか、人としてどうかしている。挙句家からも追い出されるだなんて理不尽だ。僕の感じたこの痛みをここで漏らせば、総司さんもそうだが、夏美さんからも、そんな事ばかり気にしていたらキリがない、今のうちにくだらない良心は捨てておけ。とでも言われてしまうだろう。僕は冷静にこの思いを胸に閉じ込めた。代わりに、両手の拳を膝の上で、強く握り締めた。
すると、隣に座っていたテレサが、なんの前触れもなく勢いよく立ち上がった。僕は驚き彼女の顔を見る。少しだけ眉をひそめたその顔は、どこか厳かで恐ろしく見えた。
「テレサ…?」
僕は思わず呟く。
テレサは大きく息を吐いた。
「もう充分でしょ。第六感だかなんだか知らないけど、要するに、両足の利かない盲目の男を街から探し出せばいい話。これ以上何を聞く必要も無い。」
いかにも不機嫌な様子だった。情報を提供してもらっている立場のため、総司さんに対するこの振る舞いは些か不適切だが、腹立たしさを覚えるその気持ちには同意だ。ただ、それを抑えるか抑えないかで、この世の中では、大きな損得に繋がることもある。
「探してどうするんだい?保護して彼を家に引き渡す?」
立ち上がるテレサを見上げ、微動だにせず、相変わらずにこやかに問う総司さんは、どこか不敵で、不気味だった。
「分かってるくせに、よくそんな事が聞けるわね。」
ぷいとテレサが身を翻すと、肩まで伸びる金髪の艶やかな髪が靡いた。そのまま彼女は部屋を出ようと、扉の方にずかずかと歩いていってしまった。
「おお、怖い怖い。どうやら私は少々嫌われているようだ。」
総司さんは両手を挙げて鼻で笑うようにため息をついた。
「あ、ちょっと、テレサ!」
僕も慌てて席を立つ。
「すみません総司さん。テレサってば、急にどうしたんだろうな。そうだ、今回の情報料に関してなんですけど。」
僕は夏美さんから預かった、現金の入った封筒…ではなく、どうやらかなりの値打ち物らしい、ビニールの中に入れられた古びた一冊の書物を取り出そうとしたのだが、その手つきを見て、総司さんは右の手のひらをこちらに向けて制止を促した。
「いや、報酬はいらないよ。早く彼女を追いかけた方がいい。」
「いえ、そういうわけにもいきません。」
「本当にいいんだ。だがその代わり、いつか私が助けて欲しい時に、君たちが助けに来てくれ、今回はその貸しだ。」
その言葉を聞き、僕は数秒だけ悩みはしたものの、結局、彼の言う通りにした。こういう厚意は、有難く頂戴すべきなのだから。
「分かりました。その時は、いつでも協力します。」
僕が言うと、総司さんは頷いた。
「さあ、行きなさい。あの手の女性は、いつの間にか遠くへ行ってしまう類の女だぞ。」
「はい、失礼します。」
僕は足早に部屋を去る。
館を出て、正門を出るまで、紳士的な老爺が見送ってくれたのが見えた。
僕は駆け足でテレサに追いつくと、肩を掴み、彼女の動きをとめた。
「テレサ、ちょっと待ってよ。もう少し話を聞くべきだっただろう。」
息を切らしながら、僕は彼女を咎めた。
だが彼女は、凛とした表情で、口調で、反論をしてきた。
「もう何も聞くことなんてないよ。この街で、両足が利かず、盲目な人間なんてほとんど居ないでしょ。きっと、見ればすぐに分かる。」
「そうだとしても、もっと詳しい話を聞くことで、捜索の効率がよくなるかもしれなかったじゃないか。」
「朝霧君。あなた、何も分かってないのね。」
振り返る彼女の瞳は、確信を持ったような自信に充ちた瞳だった。その水晶のような碧に、僕は痺れるような戦慄を覚える。
「な、何が?」
思わず声が上擦る。
「探す必要なんてね、そもそも最初からなかったのよ。」
「どういう意味だよ、それ。」
「彼が家から追い出された理由、それはとてもじゃないけれど、本人からしたら納得なんて出来なかったでしょう。仕舞いには、足と目を奪われたんだから。そんな彼が、わざわざ八年も行方を眩ましておいてここに戻ってきた意味、分かる?」
改めて、僕は先程聞いた話を整理してみた。そして、弓縫樹が置かれた、或いは受けたであろう仕打ちを想像し、僕自身だったらどう思うか、どうするか、それを考えてみた。そして、答えにたどり着くのに、さほど時間はかからなかった。
「それってまさか…」
僕は息を飲む。
「そう、復讐よ。弓縫樹は自分から全てを奪い、見捨てた家族に復讐をしようとしているに違いない。それを見据えてヤマを張ってしまえば、必ずそこに彼は現れる。」
あくまで冷徹に、テレサは断言した。
「待ってくれ。それじゃあ、弓縫樹の両親は、なんだって僕らに捜索の依頼を出したんだよ。弓縫樹が受けたというあの話が本当で、復讐が目的だって言うのなら、弓縫家だってその事に気付いているはずだ、何で保護なんかの依頼をしてきたんだよ。」
「ほんと、飽きれた。何も分かってないんだね、朝霧君。復讐しに来る人間を、保護して迎えるだなんて人を見たことがある?自分達がわざわざ足と目を奪った人に対して、戻ってきて欲しいと思う人がいる?」
もちろん、答えはノーだ。きっと弓縫樹本人も、その両親も、お互いが忌むべき存在だと断定しているに違いない。親と子の絆とはよく言うが、僕らが生きているこの世界では、時に残酷でどうしようもない泥沼へと堕ちていく事がある。
「そ、それは…。」
僕は返す言葉もなく、沈黙してしまった。飽きれた様子で、テレサはため息をついた。
「夏美咲から、あなたは良い奴だと聞いていたけれど、これは想像以上に、ほんと、良い奴過ぎるわね。とにかく、今は弓縫樹を探し出すことが先決。彼はきっと、親を殺しに向かうはず。」
僕は混乱していた。
この一家には、一切の救いがなかった。
親を憎む子と、子を忌む親。その双方のうちどちらかが、融和の道を模索していたのならばどれだけマシだっただろう。だからといって、僕らが何もしなければ、きっとどちらかが殺されるだろう。だが、僕らが弓縫樹を見つけ、捕らえたとして、それを親元に受け渡したら何が起こるだろうか?考えるまでもなく、答えは明瞭としている。彼が次はどんな酷い目に合うのか、想像するだけでも吐き気がする。
もし、一つだけ救いがあるとするならば、僕らが弓縫樹に、復讐を止めるように説得することだ。彼が一族への怨嗟を断ち切り、永遠にこの街から去りさえすれば、この件は全て上手くいく。だれも傷つくことなくだ。
僕は僅かな可能性を見いだし、なんて余計なお世話なんだろうと自分自身を嘲笑してみせた。




