第一話
---それでも、僕の日常は、割といつもの形で訪れる。
まるで僕の姿を嘲笑するようにして、朝日は昇る。いつものように目覚めて、仕事へ行くのも変わらない。通勤途中に乗る電車、ほんの少しだけ近道を経由した通勤路、駅前のパン屋の香ばしい小麦の匂い、往来する人々と鉄の塊。
そのどれもが余りにも、残酷なまでに日常だ。
僕はその中で、擬態するようにして生きている。普通ではなくなった自分を、さも普通かのように振る舞いながら、今日を生きていくのだ。二度と戻れない境界の外で、僕は声無き叫びを上げ続ける。
今日も天気が良くない。
余りに早すぎる梅雨の訪れに、世間は困惑ムードに包まれており、それに伴い、道行く人々の顔つきも、ひどくうんざりしたような曇天模様だった。かくいう僕もその一人で、例の如く爆発させた天然パーマを生やしながら、とんだあほ面で職場へと赴いている最中なのだ。
ちなみに僕の家は築十五年の、見た目はそこそこ新しめのアパルトメントだ。そこから電車で二本上ると、微妙に栄えている風峰市の中心部に出る。駅を出てビジネス街を抜けると、居酒屋や娯楽施設が密集する、所謂、歓楽街に出る。やたらと若作りした年増の女性が経営する、こじんまりとしたスナックのすぐ横の路地裏に入り、突き当たり右の古びた木製の扉を開け、入ってすぐの階段を上がって四階に行くと、僕の職場がある。随分と辛気臭い場所にあるが、これは所長である夏美さんの都合上、仕方の無い事だという。元は売れない無名占星術師の借りていた一室だったそうだが、そこそこの高値を提示してその占星術師を追い出し、夏美さんがそこを買い付けたらしい。しかし、立地的には清潔感の無さこそ目立つものの、中は割とそんなこともなく、どちらかというと綺麗めの、北欧の書斎みたいな雰囲気に中はなっている。室内にある骨董品や家具は、全て夏美さんの趣味らしいのだが、どれも彼女がロンドンで暮らしていた頃の物を持ち込んだものだそうだ。正直言うと、僕はこの職場の内装に関してはとても気に入っている。もちろん、それを本人の前で言うと調子に乗ってべらべらと一つ一つの品について力説が始まってしまうので、これは心の中にしまいこんでいるのだが。
蒸し暑い電車の中からようやく脱出し、大して人のいない風峰駅の改札口を流れるようにして通り抜ける。ふとポケットから携帯を取りだし画面を見ると、夏美さんから着信が入っていた。留守電も入っていたので、僕は道の脇に逸れて、内容を確認した。
「私だ。少し用事が出来てしまってね、もう家を出てしまっているだろうが、今日は非番にしておいてくれ。急なことですまないが、よろしく頼むよ。」
夏美さんの留守電の内容はとても簡潔なものだった。もう少しこの留守電を早く聞いていれば、ここまで来る電車賃が無駄になることはなかったのに。僕はたかが、交通費数百円の金銭が水の泡になったことを悔やみながら、ため息を漏らした。
さて、ここまで来た手前、家にこのまま引き返すのも何だか忍びない気がして、僕は少しだけ寄り道をする事にした。と言っても、風峰の土地勘には疎く、寄り道するような所などほとんど無いのだが、唯一僕が認める喫茶店というものがある。いや、これには些か語弊がある。他に良い喫茶店を知らないだけだ。
駅を出てすぐのバス停とタクシープールを横目に、北東に少し歩くと、高級マンションやビジネスビルが密集する地帯にたどり着く、その一角、何やら煌びやかな大理石とLEDライトで溢れた門構えのある法律事務所の隣に、その喫茶店はある。隣の法律事務所の清潔感に目を奪われがちだが、この喫茶店も店内は割かし綺麗な方で、外観は平成初期のやや古めの洋装ではあるが、僕はこの場所をとてもよく気に入っている。
店内に入ると、ドアベルが軽快な音を鳴らし、来客を告げた。僕とほぼ同世代、恐らくは大学のアルバイトらしき小綺麗な女性がいらっしゃいませと挨拶をし、僕を奥の窓際の席へと案内した。店内に客は僕を含め、二人しかいなかった。定年を過ぎたであろう白髪の老人男性が、ぽつんと一人、袴を着て雑誌を読んでいるだけだ。有線ではジョン・コルトレーンのマイフェイバリットスィングが流れていて、落ち着いた雰囲気を醸し出している。僕は席に案内される際に、アイスコーヒーを注文した。窓の外からは人通りは余り確認出来ず、たまに傘を差して買い物袋をぶら下げた主婦らしき女性が通りかかるくらいだった。僕はすることもあまりなかったので、店内の中央に置いてある週刊誌を一冊手に取り、それを読んで暇を潰すことにした。
週刊誌には、退屈なことに、芸能人のどうでもいいスキャンダルや、政治家を皮肉るような記事などがびっしり記載されていた。いつの時代も、大衆はゲスな内容を求める。僕はあまりこの手の記事は好まないが、確かに週刊誌と言う存在は、大衆の求めている物に対して的確に応えられていると思う。だからこそ、この紙媒体が退廃してきている世の中で、週刊誌は生き残っているのかもしれない。
僕がそんな記事の群体を読んでいくことに飽き、占いのコーナーのページをぼうっと眺めていると、アイスコーヒーが運ばれてきた。軽く一礼をし、それを一口啜って、週刊誌を置いた。
すると、店内に鈴の音が鳴り響いた。来客を告げる音だ。見ると、入ってきたのは女性だった。
僕はその姿を見るや否や、目を丸くした。
彼女は、驚くほどに美人だったからだ。
この二十数年の人生で、ここまでの美形を目の当たりにした事は数少ない。白くて艶のある肌に、黒くて長い髪。いや、黒というよりかは、若干くすんだ黒というべきだろうか、灰色ではないが、灰色に近い黒だった。目元はぱっちり二重で、しっかりと通った鼻筋に小さな鼻、唇も血色がよく、恐らくは化粧ですらしてないようだが、その辺にいるどの女性よりも、自然体で美しい、透き通るような女性だった。白いワイシャツと紺のカーディガンに、下は細めのデニムというスタイルも、ナチュラルな様相でひどく美しかった。彼女は店内に入り辺りを見回した。ふと、僕と目が合ってしまったので、僕は慌てて目を逸らし、コーヒーを啜った。
女性店員が接客している声が聞こえる。
いや全く、僕とした事が目を奪われてしまった。彼女はモデルか何かだろうか?その辺を歩いているだけでも、恐らくスカウトマンから声がかかるほどの逸材であることは間違いないだろう。まあもちろん、僕にはそんな高嶺の花のような女性に声をかける勇気も度胸も、ありはしないんだけれど…
「ねえ。」
ふと声をかけられて、僕は動揺しながらコーヒーカップを置いて上を見た。驚くべきことに、先程の女性がこちらを見下ろしているではないか。僕は自分がなにかしたか不安になり、咄嗟に言葉ですら返すことが出来なかった。少々吃りながら、ようやく口を開く。
「え、あの、な、なんでしょうか?」
傍から見るととても気持ち悪い男だったに違いないだろう。突然のことだったのもあるが、彼女の威厳と美に満ちた姿を目の前にしたら、きっとだれでもこうなる。
「相席。いいかしら?」
----?
「はい?」
「だから相席。駄目?」
----?
何を言っているんだこの人は?席なら他にいくらでもあるではないか。なぜ僕のところに来るんだ?
「い、いえ、駄目ではないですけど、他に席なら空いてます…よ?」
「知ってるけど。」
----?
つまりこの人は、わざわざ僕と相席したいがために声をかけに来たということだろうか?
この僕と?有り得ない、そんなはずはない。
「まあいいわ。とりあえず座らせてもらうわね。」
「ええ、ど、どうぞ。」
わけも分からず、僕は彼女の相席を承諾してしまった。これほど美人と相席出来るのなら、いくらでも一緒にいて欲しいくらいだが、僕はこの時、余りにも唐突すぎる展開に驚き、心の準備が全く追いついていなかった。彼女は店員にアイスココアを注文すると、ゆっくりと自然な動作で席に着いた。
「あなた、名前は?」
艶めかしいほどの美貌を放つ彼女は、僕にそう問うた。
「あ、朝霧です。朝霧皐月。」
まだ気が動転していて、口が上手く回らない。彼女は真っ直ぐにこちらを見ているが、一方の僕は、視線がおぼつかない様子であちらこちらに行ったり来たりしていた。
「朝霧君ね。この店にはよく来るの?」
「ええ、職場がこの辺りなので、ほぼ毎日…。」
僕はこの喫茶店に、退勤した後は必ず立ち寄っている。本を読んだり、夏美さんに頼まれた仕事を少しだけ進めたり、用途は様々だが、心落ち着くこの場所は、僕にとって束の間の、言うなれば、僕という人間の紡ぐ物語の、幕間の為の場所と言っても過言ではなかった。
「職場?へえ、見たところ学生さんかと思ったけれど、働いてるのね。」
彼女は両肘をテーブルにつき、合わせた手の上に顎を乗せるようにして言った。ひどく女性的な仕草だ。
「いえ、元々大学には通っていたんですけど、少し都合が悪くなってしまって、辞める事になったんです。三年生の時ですね。」
「あら、大学を辞めるほど深刻な事態が起きただなんて、よほど都合が悪かったのね。」
そう、僕は既に大学を辞めている。他でもない、あの日の出来事を境に、僕の物語は、いわば起承転結の転を迎えてしまったのだから。そしてその先、結の部分は、言うまでもなく、きっとバッドエンドで終わろうということも、僕の中では半ば察しがついていた。そんな絶望から逃れるための安息の地が、この喫茶店と言ってもいい。
「まあ、そうですね。どうしようもありませんでしたから。後悔は…してないです。多分。」
「利口だわ。後悔している暇があれば、失敗を糧に前へ進むべきだものね。ごめんなさい、変なことばかり聞いてしまって。」
彼女は先程からの好奇心に溢れた笑みを消し、謝罪を述べた。
「とんでもないです。えっと…」
咄嗟に彼女の名前を呼ぼうとしたが、まだ名前を聞いていなかったことに気付き、僕は口を吃らせる。それを察し、彼女は自己紹介を改めて始めた。
「ユキネマイよ。雪の音に、真の衣と書いて、雪音真衣。」
胸に手を当て、清らかな笑みで自己紹介をする彼女を見て、僕も反射的に笑顔を向ける。この女性は、どうやらそこにいるだけで、他人から笑顔を引き出せる類の人間らしい。
「雪音さんですか。名前はともかく、珍しい苗字だ。」
「よく言われるわ。あんまり私の趣味じゃないんだけれどね。」
「僕はいい名前だと思いますけど。」
僕はお世辞でなく、本心でそんなことを言った。耽美的で、何だか古い純文学に出てくるような、そんな苗字だったからだ。
「そう?でもほら、雪って、肌につけばすぐに溶けてしまうでしょ。私にはそれが、儚すぎてあまりいい印象じゃないのよ。」
彼女、雪音真衣は言った。そういえば夏美さんも同じようなことを春先に言っていた気がする。確か、桜の綺麗さが分からないだとか何とか。日本人はすぐに消えてしまうものを儚いものだと考え、美徳を感じる傾向にあるけれど、すぐに散ってしまうものを、どうしてそんなに敬おうとするのだろう。とか何とか言っていた。実に外国人のような物の見方だと僕は思った。
「ま、まあ。人の価値観はそれぞれ違いますから。」
最もらしい事を言って、僕は話を合わせるよう努めた。
「でも、名前は大事なものよ。個とはまず、名前を授けられることで初めて認識出来るものだから。」
突然哲学めいた話をし始めた雪音さんに、僕は半ば拍子抜けした。自我の話をしているのだろうか、僕にはよく分からない部類の話だが、確かに、名前がなければ、自分が何者なのかを明確に規定する事が出来なくなる。他者との区別を、他ならぬ社会で付けていくには、何よりもまず、名前というものが必要不可欠なのだ。
「えっと、朝霧君の下の名前、サツキ…?って、五月の皐月?」
「ええ、そうですね。」
「豊穣の月か。うん、いい名前じゃない。」
僕はそう呟く彼女を見て、この女性はかなり教養の深い女性なのだろうと確信を持った。皐月とはつまり、五月の別称の事である。五月は稲を植える月、つまりは早苗月というわけだ。皐という文字には、豊穣の神に捧げる祈りの稲といった意味がある。故に、皐月とは、豊穣祈願の月ということになる。昔、中学生の頃に、親から名前の由来を聞いてはいたが、他人からその意味を理解される時が来るとは、まさか夢にも思わなかった。
「驚いたな。雪音さん、さては博識ですね。」
僕が感嘆を漏らしていると、彼女はまた、今度は照れ笑いをうかべた。
「別に、そんなことないわ。たまたま知っていただけよ。たまたま。」
ふと会話は途切れ、僕はコーヒーに手を伸ばす。同じタイミングで、彼女の元にアイスココアが運ばれてきた。軽い会釈でそれを受け取ると、彼女は刺さったストローに軽く口を付け、飲んだ。彼女がグラスを置くのを待ってから、僕は気まずい沈黙を晴らすため、口を開いた。
「あの、雪音さんは、こんな時間に何を?」
「それ、聞いちゃうんだ。」
「あ、すいません。」
何でもいいから話を振るのに躍起になって、的はずれな質問をしてしまったらしい。僕は頬を掻き、俯く。
「いえ、別にいいわ。私くらいの年齢の女の子が、こんな平日の朝から喫茶店に来るのなんて、不思議に思うのも当然だもの。いや、でもそんなに不自然でもないかしら…?」
彼女はストローを指で軽くつまみ、グラスの中に注がれたアイスココアを混ぜる。氷が当たる軽快な音が、カランコロンと響き、グラスに水滴が滴る。
「あなたと同じ、私も最近色々あってね。学校へはしばらく行っていないわ。行く理由っていうのかな、無くなっちゃったのよ。」
「理由、ですか。」
「そう。言ってしまえば、そうね、これから学校へ行って、いい成績を取って、それから就職をして、結婚をして、子供を産んで、幸せな家庭を築いていく。そんなありきたりな未来がね、私の前にはもう無くなっちゃったのよ。だから私は、もう真っ当な生き方はしないって、そう決めたの。」
雪音さんは真剣に話しているようだった。"そんなありきたりな未来が、私の前にはもう無くなった"その言い回しに、僕はとてつもない違和感を感じると同時に、同じくらいの共感を得た。当たり前の未来。それは僕も、同じように望んでいた未来だった。けれど、それはもう、どこか遠くへ消えていった。探せば見つかるとかいうそんな次元を通り越して、僕の未来は、まるで泡沫の様に、雲散霧消していったのだ。彼女の事情を詳しくは知らないが、その言い回しに、僕の胸はひどく傷んだ。
「どうしてかしらね、話すつもりなんてなかったけれど、朝霧君の前だと、不思議と本音を零してしまうわ。あなた、見かけによらず聞き上手なのかもね。」
雪音さんは未だにストローでココアを掻き回している。氷が溶けて味が薄くなってしまうだろうにだなんて、要らぬ心配をしてみる。
「僕には事情はよく分からないし、知るつもりもありません。でも、あなたがそう決めたのなら、否定する事は出来ないですね。僕だって、とっくに真っ当な生き方なんて、踏み外していますから。」
フォローになっているかはいざ知らず、とにかく僕は、彼女を肯定する事も、否定することもしなかった。彼女の問題は彼女の問題で、僕の問題は僕のものだ。程度は差こそあれど、それは結局、自分で向き合って、消化していくしかないのだから。
「じゃあ、私達はつまり、似た者同士ってことかしらね。」
「あはは。でも確かに、案外そうなのかもしれません。」
僕は笑う。彼女が笑ったから。
それでも、彼女の笑みは少しぎこちなかった。きっと作り笑いだったんだろう。
でも、恐らく同じように、僕の笑みもまた、ぎこちないものだったに違いない。
そしてまた、少しの沈黙が訪れる。店内に流れるBGMは、ジョン・コルトレーンからソニーロリンズのサックスにいつの間にか変わっていた。
「ところで、朝霧君。そんな似た者同士のあなたに、少し聞いてみたいことがあるんだけれど。」
出し抜けに彼女は口を開いた。今度は真剣な眼差しだった。僕は少し息を飲み、無言で頷いた。
「人の意志って、どこから来るものだと思う?」
唐突過ぎる哲学的投げかけに、僕は目を丸くし、彼女の顔を見つめたが、どうやら冗談抜きで真剣な問いらしく、笑うに笑うことが出来なかった。
「意志って、あの意志ですか?」
「そう、あの意志。」
僕は哲学や心理学のディスカッションでもしている気分になり、顎をさすりながら真剣に考え始めてしまった。けれど、生憎その手の知識とやらは雀の涙程も会得などしていないため、専門的な知見からは程遠い、全くもって的はずれな思考しか生まれなかった。
「難しい質問ですね。僕にはさっぱりですけれど…。」
「けれど?」
一拍置いて、僕は自分の考えをまとめてから、それを言葉にして紡ぎ出す。
「うーんどうかな。当人ができる限りの範囲で、より良い状況に到達しようとする願望とか、欲求に基づいているんじゃないですかね。」
「欲求と願望…ね。」
相変わらず、雪音さんは真剣な眼差しを僕に向けている。どうやら、話の続きをするようにと、促しているようだ。僕は無い知恵を絞りながら、その絞りカスを脳内でかき集め、ジグソーパズルのようにピースをはめ込みながら、一言一句を紡いだ。
「はい、意志とはつまり、その人がしたいことです。高みに昇りつめたい人は、その意志を力や権力に向けるでしょうし、怠けたい人は、怠惰に意志を向けます。好きな人と近付きたいというのも、その相手と仲良くなりたい、恋仲になりたいという欲求が根源として、意志になり得ます。それは逆も然りです。最も、そこに理性が介在しますから、その意志が決定、実行されるかどうかは、その人次第ですけれどね。」
「理性と言うと?」
更に彼女は目で促す。僕は頷き、続ける。
「例えば、目の前にどうしても殺したい相手がいるとしますよね。殺したいという欲求は、殺意という明確な意志として現れます。けれど、人間というものは、善悪という基準的概念を持ち合わせている生き物です。もちろん、人を殺めるのは悪ですし、そんな事をすれば、自分が社会的に抹殺される事なんて、考えれば誰でもわかります。だから、人は殺意があっても、実際に殺そうとは思わない。理性の介在というのは、つまりこういう事ですかね。」
「意志の根源は欲求によるもの…そして意志の決定と実行の彼岸は、理性によって別たれる…か。」
難しい顔をしながら、目を細めて彼女は呟く。
「ねえ、朝霧君はさ、誰かを殺したいと思ったことある?或いは、殺しちゃったことは?」
「まさか、殺意を持ったことは何度もありますけれど、殺したことなんて一度もありませんよ。」
僕はまたしても度肝を抜くような質問に驚かされ、つい声を上げて答えてしまった。殺すだなんて物騒な文言を口にしていたせいで、店内にいる客と店員の視線がこちらに向けられる。
「ただの冗談よ、気にしないで。」
彼女は悪戯な笑顔を浮かべ、紛らわした。
「例え話をしていいかしら?」
改めて、彼女は真剣な顔つきで話を始めた。
「凄く変な話だけれど、例えば誰かが、その人を殺したいと、明確な殺意を持ってしまったとするわよ。本人は、もちろんそれを実行することはしない。だって捕まってしまうからね。けれど第三者が、その本人の意志を汲み取って、殺人を実行してしまったとしたら、殺意を持った人は罪になるのかな。」
こんな物騒な話をしていてもいいものなのか、僕は少し不安になる。ただでさえ、この街は連続殺人事件が怒っている只中なのだ。そういう話には皆、ひどく敏感になっているはずだろうから。僕は周囲の人間に聞き耳を立てられている前提で、答えを間違わないように、丁寧に言葉を選んだ。
「それは、まず有り得ないでしょうね。実行するのとしないのでは、明らかに境界線が明瞭とし過ぎています。殺意を持ったとしても、その人は殺人を犯さなかった。その事実だけで、その人は紛れもなく、善そのものですよ。」
「じゃあ、その本人が、代わりに殺してくれた人に、とてつもなく感謝していたとしたら?心の底では殺人を達成出来て、とても嬉しいの。」
立て続けに彼女は問う。
「それは…。それでも、その人に罪はないと思います。その人がどう感じようが、その人の勝手ですし、自由ですから。」
きっぱりと僕は断言してみせた。法的な観点から見て、これらのことはもはや当然のことなのだから。
「そっか。でも私はね、そうは思わないのよ。」
彼女は前置きがてらそう言うと、僕の顔を一瞥してから、続けた。
「自分が殺意なんてくだらない感情を持たなければ、第三者の人が被害者を殺すことなんてなかったでしょう?自分がもっと心の広い人間だったら、その人を第三者の人間に殺させずに済んだかもしれないのにって。自分の意志のせいで誰かが死ぬくらいなら、私はね、意志なんて要らないと思う。そんなことなら、いっそ自分が死んだ方が、よっぽどマシなのよ。」
そう語る彼女は、どこか哀愁が漂っていた気がした。まるで本当に、そのような状況に出くわしたことのあるような口振りで。
「雪音さんは、優しい人なんですね。」
「え…?」
ふとそう呟いた僕に対し、雪音さんは一瞬戸惑いを見せた。きっと、本当に彼女は優しい人なんだろうなと、僕は思ったのだ。紛れもない本心を、何の確信ですらない憶測じみた直感で、風に乗せて唄うように言ってみただけだ。
「そう思えるって事は、本当に誰かを想いやれる人って事です。法や善悪に囚われず、他者が幸せに生きられるように願う純粋な心があるからこそ、きっとそう思えるんだと僕は思います。僕なんて、年がら年中、誰かに殺意を持ちっぱなしだ。もし雪音さんの例え話が現実だったら、一体何人殺してる事やら、分かったものじゃない。」
僕は急に、他人を愉すような言い回しをする自分が恥ずかしくなって、照れ笑いを浮かべた。夏美さんから言わせれば、まるで柄にもないキャラだ。
「ありがとう。聞き上手なだけじゃなくて、喋るのも上手なのね、朝霧君は。」
雪音さんはそう言うと、軽く微笑んだ。
「いえ、まあ、これだけが取り柄…ですから。」
彼女に賞賛を貰うと、どうにも否定しづらい節があった。普段の僕なら、褒められたところでそこまで嬉しい気持ちにはなれなかったし、なったとしても謙遜するのが精々だ。でもこの女性に賞賛をされると、どうしてもむず痒いような感じがしてしまう。きっとその美貌もあってだろうが、彼女の放つ独特な雰囲気は、言うなればカリスマとも呼べるそれに近いものを感じるし、恐らくは相対する人間を、軽い魅了状態にするような効果でもあるのだろう。どちらにせよ、彼女と過ごしていると、そんな不思議な気持ちになるのだ。少し僕らは沈黙した後、雪音さんは少しだけ残った薄まったアイスココアを飲み干して、席を立ち言った。
「ごめんなさい。朝の貴重な時間を、こんな物騒な話で浪費するべきではなかったわね。」
長い髪を片手で可憐に靡かせると、微かにラベンダーの香りがした。
「いえ、退屈な日に飽き飽きしていた所だったので、良い出会いになりました。」
僕がそう言うと、今度は彼女も、素敵な笑顔をこちらに向けた。
「私、そろそろ行かなくちゃ。これ、お礼ね。」
雪音さんはそう言って、赤い革の長財布を取り出すと、そこから千円札を一枚だけ、テーブルの上へと優しく置いた。
「え、いいですよ。何なら僕が払いますって。」
「そこは遠慮しないの。割り込んで来たのは私の方だから。」
こういった場合、逆に相手の意向を無視して自分が全額払ってしまうと、不愉快な思いをさせてしまう場合がある。人間の心理とは、かくも複雑怪奇なものだとつくづく思うし、計り知れないところが多くある。だが幸いにも僕はこの手の、人の心理に対してはさほど無知ではなかった。それはまあ、夏美咲という憎むべき恩人の影響であるのだが、僕は雪音さんの意向を汲み取り、ここは引くことにした。
「分かりました。今回はとりあえず、ご馳走様です。」
僕は出しかけたサイフをポケットにしまった。僕はカップを手に取り、コーヒーを飲もうとしたが、空なことに気がつき、ゆっくりとそれを置いた。
「それじゃ。またいつか会いましょう。今度はもっと、有意義な話をできるといいわね。」
「はい、楽しみにしてます。」
僕がそう言うと、雪音さんは黒い長髪を靡かせながら身を翻し、その細い指で軽く手を振った。その全ての立ち振る舞いが、計算され尽くした美麗な動きかのように、一切の無駄の無い所作だった。僕はその後ろ姿を最後まで見送ると、彼女はこの曇天模様の街の雑踏に、颯爽と消えていくのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
明くる日の朝、僕はいつも通り七時に起床し、七時半に朝食を終え、十五分で歯磨きと着替えを済ませ、八時に家を出てから行きつけの喫茶店に寄りコーヒーを飲んでから、九時に出勤をした。ここ一週間。立て続けに雨か曇りという最悪な天気模様が続いている。久しく太陽を見ていない僕は、このまま永遠に雲が晴れなかったら、地球上のありとあらゆる生命はどうなってしまうのだろうだなんて、退屈な妄想をしながら空を仰ぎ見ていた。
まず初めに職場に着くのは、決まって僕だった。と言っても、従業員なんて僕と夏美さん以外いないのだが、夏美さんは時間に割と疎い人で、遅い時には昼頃に顔を出した事すらある。彼女曰く、これは寝坊ではなく、単純に、気が向くまで事務所には向かわないというポリシーに基づくものだから仕方がないのだということらしい。最も、時間通りに来たところで、この職場にはおよそ仕事と呼べるようなものはほとんどなく、たまに夏美さんの元に入り込んでくる稀有な依頼を一緒にこなすことくらいしか、やることがない。稀有な依頼というのは、彼女、夏美咲という人種にしか関わり合いを持てない、いわば特例中の特例とも言える依頼であり、それ故に、一発の報酬は超がつくほど多額であることが多い。だが、それほど頻繁に仕事が舞い込んで来ることもなく、こうして暇を持て余して日々を過ごすことがほとんどだ。僕は階段を登りきり、事務所の鍵を開け、湿気で錆び付いた古いドアを開けて中に入った。
「バイトでも始めようか…。」
僕は独り言のように呟き、所内へと足を踏み入れた。
「それは困る。いつ仕事が入るか分からんのだぞ。」
僕は目を丸くした。中に入ると明かりがついていて、テーブルの丸い角の部分に座り、紙の資料を手に持った夏美さんがいたからだ。彼女が定時通りに出勤をしているなんて、今まで一度もなかったのに、どういう風の吹き回しなのだろう。僕は中に人がいたことへの驚きと、それが夏美さんであったことの二重の驚きに、数秒ほど固まっていたが、やがて我を取り戻し、口を開いた。
「夏美さん。珍しいですね、まだ九時前なのに。」
「ああ、昨日は徹夜だったんだ。帰ったのもついさっきだ。早速だが朝霧、コーヒーを淹れてくれるかな。」
見るに、夏美さんはひどく疲弊しているようだった。徹夜と言うと、昨日電話で言っていた、急な用事に関する事だろうか。あの電話があったのが朝だったため、そこから今まで夜通し行動していたとすれば、彼女の疲弊具合にも合点がいく。僕は荷物を下ろし、すぐさま台所に向かって、コーヒーを淹れる準備をした。ポットにお湯を入れ、コンロに火をつけ、密閉されたタッパーの中に収納していた、挽いてある粉末状のコーヒー豆をろ紙に入れた後、コーヒーサーバーにドリッパーとそれを乗せた。ほろ苦くも香ばしい風味が、台所に漂う。その香りに酔いしれるようにしてお湯が沸くのを待っていると、夏美さんのいる方角から、煙と共に煙草の匂いがこちらにまで流れてきた。
「あれ、煙草やめたんじゃなかったんですか?」
「やめたよ。ただ私も疲れていてね。昨日ばかりは私も骨が折れた。煙草の一本くらい許せ。」
別に僕が許しても許さなくても、どうせこの人は優雅に喫煙を強制的に続けるのだから、僕は何も言わなかった。しかし、昨日は何かあったのだろうか?仕事ならば、僕を呼びつけない理由がない、僕と夏美さんとの間に交わされた雇用契約では、命と引き換えにでも、彼女の仕事を手伝う。という何だか呪術めいた血の契りが交わされているのだから。
「それだけ大変な仕事だったんなら、僕を頼ってくれても良かったのに。人手は少しでも多い方がいいでしょう。」
「いや、別に今回のは金にならんよ、仕事でもなんでもない。それに、お前が来たところで何も出来なかった。足手まといになるだけだ。」
彼女は煙を立ちこませながら、目を細めて天井を見つめて言った。足手まといという言葉に、僕は多少むっとした。内心では自分の非力さを分かってはいるつもりだが、いざ改めてこう言われると、どことなく傷つかない訳でもない。
「へえ、夏美さんでも、ボランティアくらいはするんですね。」
「ボランティア…ね。別に誰かを助けたわけじゃないが、まあいい。私は調律師として、見過ごせない案件をこなしただけさ。」
調律師。今でもピンと来ない言葉だ。ピアノやヴァイオリンなどの、楽器の調律師のことではない。彼女の言う調律師とは、そんな有り触れたものではない。僕には今でも、調律師という人種を理解出来ていない。ただ、その人知を超えた異能の存在を目の当たりにしたことで、僕の日常は非日常へと変貌した。その事実だけが、僕の中に無慈悲に突きつけられ続けている。最も、それもようやく慣れ始めたわけだが。
「あの、一つ聞きたいんですけど。調律師って具体的にはこの世にどれくらいいるものなんですか?」
「さあ、どうだろうな。調律師という存在は皆、出来るだけその存在を秘匿しようと試みている。我々の仕事はつまり、世界の異常、綻びを見つけ、それを紡ぐ事にある。本来、世界というものはね、その異常を含めて正常な世界なんだ。だが、人間というのは非科学的なことは信じようとしないし、もしあったとしても、決して認めたくない、必要ないと決め込んで、排他してしまう。だから、私たちはその、人が言う異常とやらを排除し、世界を人の為の在り方に調律しているのさ。ちょうど、お前をそうしたようにね。つまり、我々調律師は、存在そのものを他者に感知されてはいけないんだ。だから、この世界に調律師がどれくらいいるだなんてことは、具体的には分からんよ。」
夏美さんは難しい話をしてみせる。
人の為の世界の在り方。本来異常に満ち溢れたこの世界を、他でもない人という種のために、それを排除し、調律する。要するに、調律師というのは、警察のようなものだろうか。犯罪者達を排除して、人の社会に安寧をもたらす。似ているようで似ていないような、でも確かに、僕は調律師達の仕事を過去に、夏美さんを通して何回か経験している。言ってしまえば、彼らこそこの世界の異常と表現してもいいくらいだ。その異常達が、異常を正すなど、皮肉な話だが。
「だがまあ、その調律師固有の能力を使って、進んで悪事を働くような輩もいてね。そんな奴は調律師ではなく、ただの無法者だ。私達のような連中は、世間一般では総じて、超能力者や魔術師、魔法使い、呪術師、シャーマンなどとも呼ばれているが、その中でも、人間という種が生み出した、美しくも儚き文明達を守護するために能力を使おうとする集団を、調律師と呼んでいるのさ。大抵の場合この世に存在する異能者は、利己的にその術を使おうとはしない。天から授かった古の御業をどう扱おうと、結局は本人の自由な訳だからね。」
夏美さんは煙草の煙を肺に入れると、大きくまた天井へと吐き出した。煙が天井へと当たり、全方向へと流動していき、やがて風と共に換気扇の中へと吸い込まれていった。そういえば、夏美さんは僕と初めて会った時、自身を風水士兼探偵だと名乗っていた。妙に胡散臭い肩書きだ。字面だけで見れば、たかが数万円規模の小さい額で、コソコソと詐欺まがいなことをやっていそうだと思われても仕方がないダサさだろう。
「魔術師…。」
僕はぼそっと、夏美さんに聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟いた。この呼び名が、彼らを呼ぶにあたって最もしっくり来る名だった。彼らは明らかに、科学では証明出来ないような事象や現象を、容易く現実にしてしまう異能者だ。見ると夏美さんは、禁煙したから捨てたと話していたはずの灰皿を戸棚から取り出し、何食わぬ顔で煙草を鎮火し始めた。僕は信頼していた上司に裏切られたような気分になり、またも顔を顰めた。
「兎にも角にも、君はもうこちらの世界の住人なんだ、いつまでも他人ヅラでいてもらっては困るというものだ。」
「まあ、それはそうなんですけど…。」
消沈する僕の後ろで、ポットが金切り声のような音を上げた。僕は急いで火を消し、コーヒーを淹れる。
「そして、そんなか弱い朝霧君に朗報だ。この事務所にもう一人、新しく入ることになった子がいる。」
「それって、朗報って言うんですかね…。」
「いいじゃないか、君にもいい教訓になるはずだ。なんせ一癖二癖ある子だからね。場合によっては、私にも手に負えないかもしれん。」
夏美さんはニヤリと笑う。夏美さんでも手に負えないかもしれないとなると、一体どんな人なんだろう。僕はますます不安に駆られていく、きっと夏美さんは、そんな僕を見て笑っているのだろう。本当に、人をいじめるのが好きな人だ。
「手に負えないって、それってどういう…」
僕が言いかけると、事務所のドアが開く重い音がした。僕は反射的に入口の方を見た。ここに来る人間と言えば、僕と夏美さん、そして、稀有な依頼を持ってくる、特殊な人間のみなのだから。しかし、現れたのは、金髪の若い女性だった。見たところ外国人のような風貌で、蒼い瞳が透き通るように印象的だった。肩くらいまで伸びた金髪をさらりと揺らすと、彼女はややぶっきらぼうな表情で、第一声を放った。
「誰が手に負えないって?」
そう言う彼女の視線は、明らかに僕の方へと向けられていた。所に入るや否や、そんな第一声を放った金髪の女性に、夏美さんはおどけた様子で口を開く。
「地獄耳か、お前は。」
「聞こえちゃうものは仕方がないでしょ。」
彼女はもはや、ここが自分の家かのようにしてずかずかと踏み入ってくると、部屋の中央あたりまで歩き、僕にその蒼い瞳を向けて来た。その威圧感のある目つきは、見るものを切迫させるような恐さがあった。だが同時に華麗でもあった。
「えっと…。」
何が何だか分からず、僕は言葉を失っていた。すると夏美さんがフォローするようにして腰掛けていたデスクの角から立ち上がり、口を開いた。
「今話していた新人だ。名はテレサ。お前と同じで、命を賭して私の為に働いてくれる哀れな女の子だ。」
「あんたの為に働くつもりなんてさらさらない。」
夏美さんの遠慮のない適当な紹介に、きっぱりと否定的な態度を示したテレサと呼ばれた女の子は、目を細め、夏美さんを軽蔑するような目で見ていた。
「まあそう言うな。私の元で働く事は、お前の為にもなる。で、こいつは朝霧皐月。見ての通り頼りない男だ、反面教師にしたまえ。」
夏美さんは僕に人差し指を向けた。
「ああなるほど、あんたが例の…」
テレサは僕の事を下から上へと舐め回すようにしてじっくり観察した後、ふーんと、別に興味も無さそうに鼻を鳴らした。
「えっと、朝霧皐月です。どうぞよろしく。」
僕はぎこちない笑顔を見せながら挨拶をした。対して向こうはというと、さして表情を変えることもなく、無機質な視線を送ったあと、ええよろしく。などと適当な挨拶を述べた。
「さて、職員は揃ったな。早速だが、久方ぶりにまともな仕事が舞い込んで来た。今日はその概要を説明させてもらうぞ。」
ぱんと手を叩き、夏美さんが場を仕切り直す。
今まで実感のない夏美さんの雑務ばかり手伝わされていたので、仕事の依頼が来たとなれば、ようやく気合いが入るといったところなのだろうが、どこか僕は盛り上がることが出来なかった。その依頼が、危険なものであるのか、そうでないのか、それによって事は変わってくるが、この場所に入ってくるような依頼は、八割は危険なものだ。
「そう憂鬱そうな顔をするな朝霧、今回の仕事はさほど難しいものではない。」
「この間もそう言って、結局かなりやばい仕事だったじゃないですか。」
「ま、まああの時は、イレギュラーが多発していたからな。あれは異例中の異例だよ。」
声を上ずらせながら夏美さんは言った。おかしな話だ、そもそも僕達の仕事そのものが異例を体現したようなものだというのに、異例もへったくれもない。
「とにかく、やることはやってもらう。さて、概要を説明しよう。」
夏美さんはおもむろにポケットから取り出したソフトパックのしわくちゃな煙草をくわえ、火をつけ始めた。一本くらいと吐かしていたくせに、堂々と二本目に手をつけるあたり、夏美さんらしい奔放な行動だった。
僕はもう何も言うまいと、その様子を見ていた。夏美さんは煙草の煙を大きく吐くと、煙草の火種部分を宙に掲げ、何やら文字を書き出した。
空中に文字が浮かび上がってくる、煙草の火によって描かれた光の軌跡は、消えることなくその場に留まり続けている。その文字は僕ら側から見るとしっかりとした文字として読み取れるため、夏美さんからは鏡文字で書いていることになる、普通の人間の技巧レベルでは到底無理な事を、普段と変わらぬ執筆スピードで、夏美さんはこなしていた。
「今回の仕事はごく単純。最も探偵らしい仕事だな。」
そして、仕事の内容が告げられる。
「お前達にはこれから、人探しをしてもらう。」




