第一話
午前零時過ぎ。街灯を通り過ぎる度に、影が、その色を濃くして揺らめいている。今宵は新月、月明かりもなく、ただそこには闇が蔓延し、気休め程度の光源が周囲を仄かに照らし出していた。無意識に、私は歩を速める。少し、いつもより少しだけ、風が冷たいような気がした。とても嫌な風だった。人の恐怖心を指先で、そのままなでるような、身震いするほどの冷たい風に、私は顔を顰め、唇を噛んだ。
不意に、誰かが私を見ているような、根拠の無い不気味な感覚に襲われた。シャワーを浴びている時や、暗い部屋にいる時、そういった場面によく起こる、人間の心理的な錯覚といった類のあの現象…だと良かったのだろうが、今私が感じているものは、それとは全く異なる気配だった。これは言うなれば…
そう、畏怖である。
私は更に歩を速めた。私はこの、明らかにこちらに対して敵意を持つ何かに対して、畏れを抱いた。幽霊、ストーカー、通り魔。いいや、きっとどれも違う。しかし、私はそれが具体的に何なのか、その正体など、皆目見当もつかなかった。
人気のない長く薄暗い歩道に、一定の感覚で設置されている街灯は、心もとないまでの燈の光を明滅させている。静謐としたこの空間は、もはや異界のようで、私の足音以外、そこに一切の物音など存在しなかった。心臓の鼓動が速まっていくのを感じる。うなじのあたりに冷たい風がまた通り、私は寒気に身を震わせ、両手を擦り合わせた。
早く家に帰らなければ。
私がそう思った瞬間だった。
明滅していた街灯が突如として消灯し、辺りを暗闇へと導いた。それも一つだけではない、周囲の街灯全てが、同様に消灯したのだ。
不意に訪れた暗闇に、私の視界は奪われ、不明瞭なその視界に、私は足を停めざる得なかった。
停電だろうか、このタイミングとは運が悪い。こんな不気味な通り、使うんじゃなかった。私は気分を変えるために、自分の心の中で、そんな陽気なテンションを保つように心がけた。
そうだ、携帯。
私は携帯のライトを使って、足元を照らしながら歩こうと考え、ポケットから携帯を取りだした。しかし、間の悪いことに充電が切れており、そのアイデアは泡沫と化すことになった。
私は焦燥感を紛らわすために軽く深呼吸し、冷静になろうと努めた。
特に何が起こるだなんてことはない。
私はそう自分に言い聞かせ、胸に手を当てて瞑目してみせた。しかし何故だろうか、胸にへばりつくようにして残存するこの靄がかった不安と畏れは、どうしてもぬぐい去ることが出来なかった。嫌な予感は、嫌な現実を引き寄せるとはよく言う話だけれど、それを分かっていてもなお、その予感を完全に消し去ることが出来ず、私は強く目を瞑り、神に祈るような気分でその場を過ごした。そして、ほんの数秒後だろうか、突然思い出したかのようにして、電気が復旧した。今度は街灯の明滅も直っており、しっかりと、それは絶えず足元を照らしてくれていた。
私は胸を撫で下ろし、今度は安堵のため息をついた。いつの間にか、私を見つめ続けているような、鋭い視線の気配は消滅していたようだった。嫌な予感も、胸のどよめきも、跡形もなく消え去っている。
あれは何だったのだろうか。
幽霊ならともかく、ストーカーや通り魔とか、そういった致命的な実害をもたらすような存在であれば、警戒しなければいけない。
でも、何かが違う…
何か…あの氷のように冷たい気配…そして、深淵のような底なしの恐怖感…。
そう、あれはまるで…。
ぼんやり前を見ながら思考し、歩いていた私は、ふとある事に気が付いた。それは普段では意識しないような、至極当然の事だった。そう、当然の事なのだ。
「え……。」
日常に絶えず垣間見る、ありふれた光景や事象、行動。私達はそれを、意識するまでもなく受け入れて、認識している。だけど、日常に普通でない何かが紛れてしまえば、人は容易にそれを認識することが出来る。まさに、今この瞬間がそうだった。
異常に気付き、私の顔が青ざめていくまでに、大して時間はかからなかった。そして、顔が青ざめてから、恐怖がどっと押し寄せてくるまでにも、さほどの時間は要さなかった。
月の代わりと言わんばかりに空間を照らし続ける街灯の下で、私は立ち止まっている。
そう、街灯の下で、私は立ち止まっているのだ。それなのに。
"それなのに、私の身体からは、一切の影も伸びていなかった"
物理的に有り得ないその光景を目の当たりにした恐怖が、波のように一気に押し寄せて来て、私は声にならぬ叫びをあげ、全速力で走ってこの場を立ち去ろうとした。
しかしそれと同時に、先程の冷たい気配を、今度はさっきよりも鋭利に、強烈に知覚した。そして、人間の反応、反射よりも遥かに速い所作で、その気配は、私の首を、鋭いナイフのようなもので切り裂いた。
それはきっと、一瞬の出来事だった。
恐怖を感じ、気配を感じ、そして自分の首が裂かれたという事実を認識し、同時に死ぬんだという最悪の結末を悟るのに、その一瞬は余りにも速すぎた。
私の視界は横転する。
徐々に冷たくなる私の体温を、私はハッキリと感じることが出来た。視界が暗くなっていく中、大量に地を流れる鮮血だけが、街灯に照らされてはっきりと見えた。
これが……死……。
ああ、そうか…これは…。
私の視界は暗転する。
私は私を殺した者の姿を視る事が出来なかった。しかしそれは、確かに、視えないのも、当然のことだった。あれはもう、そういうものなのだから…。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
五月に入った。
卒業、入学、入社。物事の始まりとも言える春の季節がひと段落し、世間の初々しいまでの暖かな雰囲気が消沈し始める頃。桜は散華し、視覚的にも、感覚的にも飾り気のない、退屈でいかにもな日々を、皆々が過ごしていた。
また今日も雨。厭になるほどの湿気と生温いべとっとした空気が肌に張り付いて離れず、不快指数はいよいよピークに達し、僕は口をへの字に曲げながら溜息をついた。頭を軽く掻き乱すと、ただでさえ癖毛でまとまりの悪い黒髪が、更に爆発したような髪型へと進化を遂げたが、僕は構うことなく、手元にある黄ばんだ古本のページをめくった。不快な湿気がもたらしてきた苛立ちは、僕の脳内を撹乱し、読んでいる本の内容など、欠片も入ってこなかったので、僕は本を閉じて、目の前の膝上くらいの高さに置いてある、木目のある小さな横長のテーブルにそれを放り投げた。そして目の焦点を合わせ直すために、座っていた北欧風の紺のソファにもたれかかると、天井を見上げた。目を瞑り、眉間を抑えると、自然と吐息が漏れた。
「夏美さん、空調いつになったら修理するんです?」
僕は目に手を当てながら、部屋の一番奥にいる夏美咲に声をかけた。彼女はヴィンテージ風の大きな木の机と対面するように座っており、何やら数枚の資料を凝視しているようだった。背後のブラインダーから見える景色は灰色にくすんでおり、こちらからでも豪雨であることが確認出来るほどだった。
夏美咲という女性は、名前から既に珍しい名だが、人格や思考回路、全てにおいて珍しいタイプの人間で、まあ言ってしまえば、つまりは変人ということになるのだが、僕が彼女とこんな辺鄙な場所で過ごしているのには理由がある。それはいずれ、語る時が来るだろう。
彼女、夏美咲は、一束に束ねた黒髪を軽く揺らしながら、こちらを睨みつけるように一瞥すると、先程まで釘付けになっていた何枚かの資料をテーブルに置いた。気だるそうな雰囲気が、否応なしにこちらに伝わってくる。
「それについては、もう二、三日待っていてくれ。空調の業者に整備を依頼したんだが、作業は明後日になるそうでね。」
夏美さんはコーヒーのマグカップを手に取ると、それを一口飲んだ。コーヒーはとうに冷えていたのだろう、彼女はそれを口に含んだ瞬間、顔を顰めてマグカップを置いた。
「だから言ったじゃないですか、梅雨時に入る前に、空調は直しておきましょうって。冬場はストーブで何とかなりましたけど、日本の梅雨から夏場にかけては、空調無しにはどうしようもないんですよ。」
そう、僕は再三呼びかけていたのだ。
それはおよそ半年ほど前からで、冬は寒くなるから、空調を直そうと、口が酸っぱくなるほど言っていた。しかし夏美さんはというと、冬はストーブで事足りるから。の一点張りで、頑なに修理をしようとはしなかった。
僕自身、まあそれはそれで一理あるか、と納得してしまい、冬はストーブのみで過ごすことになった。そして、不自由なことは大してなかったものの、春の暖かな季節が訪れたと同時に、梅雨に入る前に空調を直そうと毎日提案をしていた。その度に、夏美さんはまだ大丈夫だと、僕の提案を跳ね除け続け、ようやく今日に至るというわけだ。
案の定、今月は梅雨の到来がかなり早く、まだ五月に入ったばかりだと言うのに、外も中もひどくジメジメしていた。
「しょうがないじゃないか。まさか日本の梅雨がこんなに早く訪れるだなんて、予想だにしていなかったんだから。たかが二日の辛抱だろう、我慢してくれたまえよ朝霧。」
夏美さんはいつの間にか、手のひらサイズの小型扇風機を顔の近くへ持っていき、一人だけ涼しそうな顔をしていた。僕は何となく、この怠惰をそのまま現世に具現させたような変人に苛立ちを覚え、あえて返事をせずに、ソファに横になった。こんなジメジメとした空間で、ふて寝なんてできるわけもないのに、僕は無理やり目を瞑り、時が過ぎるのを待った。どうせ今日も、この場所は暇なのだから。
「ところで朝霧。」
「……何ですか?」
僕は若干、口調を尖らせて言った。
「頼みがあるんだ。コーヒー、淹れ直してきてくれ。」
そう言われ、僕はここでも内心苛立ったが、あくまで僕らは上司と部下という主従関係が成り立っている。無視するわけにもいかず、僕は渋々身を起こして、夏美さんから冷えたコーヒーの入ったマグカップを受け取ると、台所へと向かった。
僕は手早くコーヒーを淹れて、ついでに自分の分も入れようとしたが、この蒸し暑い中でホットコーヒーを飲む気にもなれず、少々手間だったが、アイスコーヒーも作って、夏美さんのところへと届けた。
「しかし、こんな湿度の中で良く飲めますね。熱いの。」
「何を言う。私は万年、ホットしか飲まないぞ。冷たいのは苦手なんだ。」
僕は適当にはぁとだけ返事をし、夏美さんにコーヒーを手渡した。ちょうど、彼女が読んでいた数枚の資料が目に留まり、僕はそれに注視した。その様子にすぐさま気付いたのか、夏美さんは口を開く。
「ああ、これね。まだ正式な依頼とまではいかないんだが、私的に気になる事件でね、一般には開示されていない情報なんだが、漏洩させないという口約束の元、少しばかり情報を譲ってもらったんだ。」
そう語る夏美さんはどこか楽しげで、不敵な笑みを浮かべていた。この人は一見して、誠実で清楚な印象だが、その反面、性格はかなり歪んでおり、人の不幸に愉悦を感じたり、嘲笑したりする傾向にある、加えて、厄介事に対して勧んで関与したがる傾向がある為、僕もそれにはだいぶ頭を痛めているわけだ。彼女と僕の仕事柄、厄介事に巻き込まれるだなんてことは覚悟の上だったけれど、それはあくまで巻き込まれるという偶発的な前提の話だ。巻き込まれに行くのとは訳が違う。しかし、夏美咲という女性は、それでいて飛び抜けて聡明な人物であり、正直僕も、それに関しては素直に尊敬しているわけだけれど、それでも、この人の奔放な生き方や行動には、割と頭を悩ませているのだ。これはそう、例えるならば、まるでホームズとワトソンのような関係といったところだろう。
「またですか夏美さん。本当、自分が興味のあるものなら構わず食い付いちゃうんだから。たまには振り回される僕の身にもなってくださいよ。」
「まあそう言うな。今回のは別に首を突っ込もうだなんて考えてはいないよ。ただ、少し気になったってだけの話さ。最も、これは関与したところで、きっと割に合わないものだろうしね。」
「割に合わない…ね。」
夏美さんに損得勘定という思考回路があるのは、いくらか救いだったかもしれない。彼女はいつも、その仕事を引き受けるか否かを、メリットとデメリットを天秤にかけて決定している。その辺の判断は非常に的確で、棲み分けがハッキリしている。
「で、どんな内容なんですそれ。夏美さんが気になるくらいだから、いい話ではないんでしょうけど。」
「その言い方は心外だな。私だって、良い話には感動するし、心を揺さぶられることだってあるぞ。私を心の汚れた卑しい人間扱いするのはやめてくれ。」
夏美さんはむつかしい顔つきで説得力のない発言をした。僕は誤魔化すようにして、アイスコーヒーを一口飲み、机に並べられた資料を見た。ぱっと目に付いたのは、顔写真だった。若い男女の顔写真で、そのどれもが、どこにでもいるような一般的な人間それそのものだった。
「最近、巷で話題になっている連続殺人事件は知っているだろう。被害者は五人、そのどれもが、綺麗に首元を切り裂かれていてね、もはや暗殺の妙技とも言えるな。頸動脈を的確に一発だ。そしてこれは、その被害者の詳細な資料。」
それは最近、話題になっていた事件だった。
ここ風峰市は都心に近くもなく遠くもない中途半端な位置にある街で、大した特色もない普通の場所だった。普通の街には普通の日常、何ら変哲のない日々が、これからも無限に続いていくものと思われた。しかし、この普通を体現したような街に、極めて異常、且つ狂気の暗雲が立ち込め始めた。それが夏美さんの言う、今回の連続殺人事件である。一件目の殺人は、二ヶ月程前だっただろうか、そこから間を置きながら、立て続けに何件も殺人は繰り返された。警察からは、夜中になるべく出歩かないように注意喚起がなされ、街の人々も、なるべく一人で行動しないようにと自己防衛に努めていた。普段なら、テレビでそんなニュースを見ても、自分には関係ないとチャンネルをころっとバラエティ番組などに変えてしまうところだろうが、事が起きている場所が自分の街となると、危機感を持たざるを得なかった。先週、四件目の殺人事件が起き、とうとう市内の学校は一時的に閉鎖となり、各企業の間でも、定時退社、または社員を早退させるなど、人命を優先した措置が取られた。まあ当然のことなのだが。
「って…あれ?夏美さん、今殺害されたのは五人って言いました?確か、殺害されたのはまだ四人目のはずです。あれから毎日ニュースは見ていますけど、五件目の報道なんてありませんでしたよ。」
「そりゃそうだろう。報道規制がかかっているからな。警察機関は、どうやら今回の一連の事件に関して、決定的な手がかりを未だに掴めていないらしい。そして、進捗がほとんど無い中、五件目の事件が起こってしまった。その事実を、この状況の中公表したらどうなると思う?」
こんな話をしていても、彼女は不敵に笑っていた。僕は夏美さんの問いに首を横に振ると、彼女は続ける。
「それはね、市民は更に混乱し、警察の面子も丸つぶれになりかねないということだ。彼らはいよいよ後がないんだよ。犯人を捕まえられず、次々と人が殺されていくんだ。そろそろ他人事だと知らんぷりを決め込んでいるマスメディアや一部国民の連中も、大袈裟に騒ぎ出す頃合だろう。」
何が可笑しいのかてんで僕には分からなかったが、夏美さんはニヤニヤしながらコーヒーを啜った。犯人の手がかりがほとんど掴めていないだなんて、これだけの規模の殺人をしておいて、そんな事が有り得るのだろうか?現代の警察の捜査能力は凄まじいものだ。にも関わらず、そんな…。
「どうしてそんなに警察も手をこまねいているんでしょうか…?そこまで犯人は周到に殺人を行っていると…?」
僕は動揺をしていたが、なるべく悟られる事がないように、平静を装って尋ねた。
「さあ、どうだろうな。だが確かに、この事件は不可解な点が多い。殺害の手口と動機、あらゆる観点において、この事件の犯人には一貫性が無いんだ。」
「えっと…それはつまりどういう…。」
「犯人は被害者の五人を、手こずることなく綺麗に、頸動脈を切り裂いて殺害している。その際、被害者が抵抗した痕跡もない。つまり犯人は、標的に全く気付かれることなく背後から忍び寄り、迅速に殺害を行ったと考えるのが妥当だろう。まさに、暗殺者のようにね。」
夏美さんは人差し指と中指を立てて、自分の首元を横一直線、切り裂くようなジェスチャーをしてみせた。
「そして、ここからが動機の話になるんだが、殺害された被害者には、性別、年齢、名前、出身、経歴、職業、習慣。その全てにおいて、一切の共通点が存在しなかった。つまりこれは、どういうことだか分かるかい?」
「はい、それはつまり、無差別的な殺人。ということになるんでしょうか。」
共通点がない。ということは、それは無差別に殺害対象を選別したということになる。文字通り、無差別殺人だ。
「そうだ。だが考えても見ろ、無差別殺人者というのはね、それこそ動機がはっきりしているものなんだ。人を殺すのに悦楽を感じる快楽殺人者、矮小な自己存在を肯定する為に行う逃避的な殺人者、そして、自身の存在を世間に傷跡として示そうとする、自己愛の強い殺人者。そのどれもが、自己中心的で、幼稚な思考から生み出される衝動的な動機だ。しかし、今回の事件、もし仮に無差別殺人だったとして、犯人がこれらのいずれかに当てはまる動機を持っていたとしたらどうだろう?いや、そうすると合点がいかないんだよ、なぜ犯人は、わざわざそんな暗殺じみた殺害方法を取るんだ?私が犯人なら、もっと他に残虐で、目立つような狂気を演じると思うね。その方が承認欲求も満たされるし、殺人という禁忌の悦楽に浸ることが出来る。」
長々とした彼女の説明に、僕は軽く頭を痛めたが、言わんとしていることは理解出来る。つまり犯人に、およそ動機と呼ばれるものは存在しない。しかし同時に、快楽や自己肯定感のようなものも感じてはいない。まるで、そこにたたま人がいたから殺したのだと言うように、犯人には、およそ意図と呼べるものが一切無いのだ。
「まあこの事件の犯人は、彼らじゃ捕まえることが出来ないだろう。」
夏美さんは立て続けに言った。僕はその言い回しに、少しの違和感を覚えた。
彼らじゃ…?
僕は首を傾げる。すると、夏美さんは察したようにして笑ってみせた。
「ああ、それについては、安心してくれていい。六件目の殺人が起こることはもうないだろうさ。この手の問題には、専門家ってのがいるものなのだからね。」
夏美さんの言っていることが、僕にはよく分かった。そうか、そういう事だったのか。専門家、と聞いてピンと来た。割としばらく、普通の日常を過ごし続けていたせいで、すっかり忘れていた。僕が腰を据えているこの場所は、既に日常とはかけ離れた非日常の世界であるということを。
「なるほど、そういうことですか。異常な事態には異常に特化した、非日常の住人が適任というわけですね。」
「まあ、そういうことだ。無理もない、最近は普通の依頼ばかりだったからな。表向き私達は探偵ごっこをしているが、本業はむしろこっちの方なんだぞ。ゆめ、忘れることがないように。」
夏美さんはお茶目に人差し指を立てて、念を押すような動作をした。やはり相変わらず、可愛いらしい動作が似合わない人だな。と僕は思ったが、それは腹の底に封入しておいた。
「でも、それなら夏美さんにも解決出来たんじゃないんですか?これだけの事件を解決出来れば、夏美さんの名も売れるでしょうし、報酬も貰えたでしょうに。」
「それは浅慮だよ、朝霧。さっき言っただろ、割に合わないって。私達の世界の人間はね、縄張り意識というものが呆れるほど強いんだ。もちろん、私は無名故に、縄張りも必然的に狭くなる。今回の事件に解決に当たっている連中は、界隈の中ではとびきりの大手なんだ。その分知識や技量も桁外れなわけ。私のような三下が首を突っ込んだら最後、命を取られるのは覚悟しなきゃならない。多額の報酬の代わりに命を差し出すなんて、実に割に合わないだろう?それくらい、縄張り意識というものが強いんだよ、私達はね。」
「なんだか、兎みたいですね。」
僕はぼそっと呟いた。兎はかなり縄張り意識の強い生き物で、テリトリーに入った他の者に大して非常に攻撃的になると言う。
「全くだ。くだらないとは思うけれど、それが私達の世界に染み付いた習わしみたいなものでね。私達はね、排他的にならなければ、それこそ命を狙われかねないんだよ。だからこれは、互いに干渉しないという名目の、一種の自己防衛にも近いんだ。もちろん、君も私に関わっている以上、そのくらいの覚悟は出来ているんだろうが、いざとなったら泣き寝入りするのはやめてくれよ。」
「はい、分かってます。僕はもう、逃げられやしないんですから。」
僕は唇を噛んだ。思い出す度に、未だに寒気がするあの日のことを。僕は夏美咲という女性に救われた。例え救われたとしても、その先に安らかな生活など決して待っていないことは分かっていた。けれど僕はあの時、夏美さんに助けを乞う以外、考えることが出来なかった。それでも、後悔はなるべくしたくない。
覚悟。
もしかしたらこの覚悟も、充分とは言えないのかもしれないけれど、それでも、男には意地というものがある。僕は逃げられはしない。だったら死ぬまで地べたを這いずり回って生きてやろうと、僕はあの時誓ったのだ。
夏美さんがにこやかにこちらを見た。僕の目を覗き込むようにして二、三回の瞬きをすると、やがて柔和な表情で、口を開いた。
「いい返事だ。」
その短い言葉は、優しくかけられたものの、ひどく恐いようにも思えた。僕の人生は、もう既に、異常の中に内包されている。
いつ瓦解するかも分からない脆弱な橋の上を僕は歩いている。荒波が立ち、暴風が吹き荒れる。それでも、歩みを止めてはならない。止めていいのは、呼吸が止まった時だけだ。
僕は手に持ったままのアイスコーヒーを一口啜って、ブラインダー越しに外の景色を見た。外は変わらず、灰色のベールが街に横たわっていた。それはひどく、哀愁の漂う光景だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
三月二十日。午前二時。
昼間までの喧騒はどこか遠くへ行き、夕方の緩慢とした雰囲気は消え去る。人々が一斉に寝静まり、やがて小さな命達の鳴き声と、草木達の囁きだけが、この闇夜を静かに彩り出した。
空気はひんやりとしており、上着を着ていても少し肌寒いくらいだった。上着と言っても、薄手のタイプのデニムジャケットであるため、寒さを凌ぐというよりは、身軽であることを重視したような服装なので、寒いのは当たり前のことだった。元々深かった紺色のデニムジャケットは、今は色褪せ、ほぼ水色と何ら変わらない程になっている。だが、そこまで使い込むと、繊維もいくらか伸び、体に柔軟にフィットしてくれるものなのだ。だから私は、このデニムジャケットがとても気に入っている。
ここは古くからある公園。
と言っても目立った遊具は無く、赤いレンガが敷き詰められた広場と、そこから枝分かれするようにして伸びている細道、春には色とりどりの花や、新緑の木々達が、この公園を彩る。中心には噴水、センスの欠片もない灰色の正多面体のモニュメントから、絶えず水が溢れている。酸性雨の影響か、モニュメントの頭から中腹部にかけて、黄褐色に錆び付いていた。
私は仄かな明かりに照らされた細道を通り、噴水のある広場へと出た。澄んだ水の音が周囲に響き、その残響が闇の中へと、静かに染み込んでいる。広場を抜けると、また細道。歩みを進める程、噴水の音は遠く消えていった。そして、私はふと歩みを止める。
空を見上げると、そこには数多の星々が跳梁跋扈していた。新月の夜、眩いほどの月が姿を隠したのを良いことに、彼らはより一層、自身の輝きを地上へと振り注がせている。
「そろそろか。」
私は呟く。微かに確認出来る月の輪郭がある方角を見て、午前二時を過ぎた事を確認した私は、周囲に耳をすませた。
虫の鳴き声が止んだ。
目を閉じてみると、静寂が痛いほど耳を刺した。微かに聞こえていた木々達の囁きも、やがて消え失せた。時が止まったかのように、周囲には音というものが失くなった。
そして、風がやんだ。
聞こえるのは、私の鼓動だけになった。
「嫌な感じだ。殺意でもない、敵意でもない、氷よりも冷たい意思…」
---感じる。
紛れもなく私に向けられた冷たい重圧のような思念は、もはや人のものとは思えなかった。いや、そもそも人ではないのだ。ならば、きっとこの意思も…
「ああなるほど、そもそも、お前に意思なんて無いんだな。お前はただ、そこに在るだけなんだろう?」
私の精神を蝕むようにして襲いくるこの感情は、生物ならば必ず恐れるべき感情だった。誰もが逃れることの出来ない、最も生物が忌むべき存在。だけど、私はこれを畏れてはいるが、恐れてなどはいない。
「どうもこの辺の空気がおかしいとは思ってたんだ。直感でこの時間に来て正解だったよ、ドンピシャだ。」
刹那、私の背後に冷たく禍々しいものが現出した。黒くて深い、視えざる混沌。
しかし同時に私は、その闇が私の命を刈り取るよりも遥かに速く、その闇を打ち払った。
足元の赤レンガ張りの遊歩道が、私を中心にして、地鳴りしながら同心円状に盛り上がった。広がる波動は、先程から停滞していた木々を揺らし、葉音を鳴らさせた。強く、とても強くだ。その瞬間から、世界は時間を取り戻したかのように、或いは生気を取り戻したかのように、息を吹き返した。そして、私は振り返る。
「視えたぞ。いや、視えたというより、その形は、私の認識で定形されたものか。」
打ち払われた混沌と、私は目が合う。いや、およそ目と呼ばれる器官は、"それ"には存在しないのだが、とにかく、私は"それ"と対峙することとなった。
その形は、ゆらゆらと常に煙にまかれるようにして揺らめいており、黒くて深い闇の渦が、そこにただ、流動しているようだった。しかしそれは、確かに人の形のようなものをしており、手足は不自然に長かったが、確かに二足歩行の生物を形作っていた。それが、私の"それ"に対する認識の形というわけだ。
人の形をした闇は、慌てふためく様子もなく、ただそこに直立しているだけだった、いや、ふにゃふにゃと手足を含む全身を揺らがせているそれは、直立というより、浮遊しているの方が適切な表現かもしれない。そしてそれには表情もなければ、人間特有の生理的な運動という所作も全く存在しない。本当にそれは、ただ、人の形をした闇そのものなのだから。
「分かるだろ。お前は私は殺せないよ、少なくとも今はね。多分、ずっと先にならないと、世話になる日は来ないだろう。」
私はそんなことを言ってみせた。もちろん、これは事実だ。根拠もある。しかし、闇は答えない。ただそこに浮遊しているだけだ。
「お前がなぜここに顕現したのか、私にはちっも興味なんてないからどうでもいい。ただ、ちょっと見てみたかったんだ、この周辺に縹渺していた、余りにも冷たい意思の正体をね。だけど、お前を視て納得が言ったよ。確かにこれは、私達が最も恐れ、畏れるものだろう。」
私は眉をひそめた。闇と対峙している今も、体が芯から震えたがっているのが分かったからだ。これは本能から来るものだ。興味本位で触れていい類のものではなかった。だが、今ここで、闇は私を殺すことは出来ない。それは多分、そっちも分かっていることだろう。それを理解していても、やはりこれを眼前にして、震えない人間はいない。
「私はお前をどうこうするつもりもない。だからさっさと消えてくれ。しばらくはお前の意思の通り、やりたい放題は出来るだろうさ。」
相変わらず、闇はその場で浮遊し、黒い渦が流動し続けている。その奇怪で不愉快で、不気味な動きは、こちらの気分を悪くさせた。見ているだけで精神崩壊を来たしそうだった。
「ただ、忘れるなよ。いつかお前を還す奴は現れる。必ずだ。人間にもね、割と超常的にぶっ飛んでる連中ってのは少なからずいるんだよ。だから、その日が来るまで、お前はお前の役目を果たして…いや、役目でもなんでもなかったな。まあいい、もう疲れた。………じゃあな、私は帰る。」
身を翻し、闇に背を向けて手を振った。もちろん、手を振り返してくれるだなんてことはなく、闇はそこにいるだけだった。再び襲ってくることも、またなかった。
しばらくして、闇は姿を消した。すると、辺りの空気は完全にいつもの空気に戻った。長ったらしい細道をようやく抜けて、私もまた、闇夜に紛れて帰るのだった。




