逃亡の洞窟 (エスケーブ)
忘れたい時。大人はお酒を呑んでソレを忘れる。なら、子供は?
どうすれば嫌な過去を忘れられる?
「第3階」
カタカタ。カチカチ。
「通算、一万時間突破…。ふぅ…。」
暗い部屋に薄い光を前に今日も今日とて仮想世界に潜り込む。閉めきったカーテンの隙間から陽の光が漏れていた。どうやら現実の世界は真っ昼間らしい。道理でお腹の方が空腹を訴えてくる訳だ。
「飯にするか…。」
付けたヘッドホンを外し、キッチンの方へ食べ物を探しに行く。
ギシッ。ギシリッ。
築50年以上経っているこの家はかなりボロい。階段は急だし。床は軋んだ音を鳴らす。こうして歩いているといつか床下が抜けるのではないかと、気が気でない。
「あっ…。」
「っ…。」
そう言えば今日は日曜日。休日だった。
「あっ…お兄ちゃん。その…昨日の残りのカレーとかあるけど?」
「…。」
「…うん。じゃぁ。私、約束あるから。」
パタパタと足音が遠ざかる。数分後、昔ながらの引き戸の喧しい音がここまで響いた。
「…温かいな。」
ガスコンロに置かれた鍋は仄かな温かみを発していた。温め直す必要はないようだ。
…モグ。
カレーの真価はその翌日に発揮されるなどと言われる。詳しいことは知らないが熟成とかそんなところかと僕は思う。とはいえ、レトルトカレーに何を求めるかという話だが。
ピチャッ…。
蛇口から垂れる水滴が溜まったシンクの上に落ち、弾く。
静寂。
休日といえど母親はパートに出掛けているし、父親はいない。祖父母も数年前にこの世をたち。妹はいまさっき外出。つまるところ、今日。この瞬間でこの家には僕が一人いるということだった。
「…戻るか。」
腹も満たされ、目的は叶った。もう現実にいる意味はない。僕がいる事を許される唯一の世界に戻る。
…カタカタ。カチカチ。
「…さすがに飽きてきたな。次を探すか?」
通算一万時間もやっていれば飽きが生じるのは当然と言えた。どんなに美味い料理もずっとは食べ続けられない。
時間を掛け、装備も揃え、パーティー(友達)だって出来た。けれどそんなモノ。結局は偽物だ。
多少の惜しみはするけれど、つまらない世界に留まる理由なんてある筈もない。
仮想の世界(神ゲー)は現実とは異なる。飽きれば。嫌な事があれば瞬時に変える事ができるのだ。
…カチカチ。カチカチ。
「…ん~。中々、コレといったものはないな。どれも今までやってきたようなものばかりで。」
引きこもり。負け組。社会不適合者。
僕の事を世間ではそう呼ぶ。
自覚はあったし、理解はしていた。始めの方は親もかまってくれたが、今ではそれもない。
妹も母親も僕の事を腫れ物を触るように扱う。
死人に言葉など通じないから。
「…ん?ダンジョン攻略系か?」
数時間、こうしてマウスを動かしているとようやく手が止まるモノに出くわした。今までやってきたゲームはロールプレイングゲームでもモンスターを討伐したり、任務をこなしたりとそういったモノが多かった。
言われてみればこうした迷宮区を攻略していくスタイルのゲームはあまりしていない。
「まぁ、たまにはいいか。どうせ、暇潰しだ。」
カチッ…。
「…は?」
信じられない事が起こった。全ての設定を入力後。カーソルをプレイするに合わせ、クリックしたら
「なんだここは?」
ぐんにゃりと湿った土。あちらこちらに巨石も見える。洞窟内にいる筈なのに視界が明るい。勿論、電球などの類いはないのにだ。
「…ゲームの中?そんな馬鹿な事が現実であり得るのか?」
ココに来る前。ゲームをする為にクリックをした。そういった考えに落ち着くのは自然といえるだろう。
だけど…
「まぁ、こうしていても仕方がない。とりあえず、試すか。」
ゲームであれば何らかのコマンドがある筈だ。手を横にずらしたり。「開け。」などの言葉を叫んだり。指を前に突き出してみたり。何らかの方法で何かしらのモノが出現する可能性がある。
が。
「…何で何にも出てこないんだ?」
考えうる全てのことは試した。僕は引きこもりだ。ゲーム転移。転生なんかのアニメ。漫画やらは自慢ではないが数多く見てきた。だから、こういった状況下に置かれても冷静でいられたのだ。
けれど、何もない。誰からも何かを貰わない。助言なし。ヒロインなし。装備なし。 何もなし。
さすがに不安。恐怖が込み上げてくる。
「…とりあえず進もう。ここから出れば何かがある筈だ。」
右も左も分からないがここでジッとしていてもいずれかは飢えて死ぬ。それに歩いていれば誰かしらに遭遇するかもしれない。
とにかく必要なのは情報。それを得る為には歩くしかない。
「…おかしい。」
歩き始めて数時間。確かにマップなし。情報なし。いた場所さえ奥底かどうなのかも分からなかった。とは言えだ。
ここまで誰とも。何とも会わないなんてのは不気味でしかない。こんな洞窟だ。害虫。コウモリ。ゴブリンなんかの生物がいてもおかしくはない。と言うかゲームならばいて当たり前だ。それなのに今の今までそういった輩にすら出くわしていない。
「確かにゴブリンは勘弁だが、こうも静かだとな…」
長いこと、一人で静かな空間にいたとはいえ、見も知らずの洞窟で一人さ迷っているのとは訳が違う。
現実は自分の意思。覚悟ひとつで出る事ができると確信があった。だが、今の現状は全く違う。意思。覚悟があろうと出られない。脱け出せない。
こんなの現実よりも最悪だ。
「…クソッ。僕が何したっていうんだよ。僕はただ、疲れただけじゃないか。あの世界に。現実に。ただ疲れたから…」
…数年前。僕の父親がある人と再婚した。実の母親は僕を産んで間もなくして亡くなっていた。元々、体が弱かったらしい。
だから父親の再婚に抵抗はなかった。良い気はしないが初めての母親というのに興味はあった。
そして、数ヵ月後。僕の家族は六人となった。父に。義母。義妹に。義祖父。義祖母。 そして僕。
それから数ヵ月間は煩いながらも新鮮で楽しい日々だった。
そう。だが、人生とは酷なもの。そんな日々は長くは続かない。正常に動いていた歯車は突然、狂い始めるのだ。
「…お兄ちゃん?」
「ん?どうかしたか?」
「…あっ、いや。何でもない」
「あ?」
今、思えばあの時が歯車を正常に戻せた好機だったのかもしれない。妹のSOSに気付いてやれた…。
それから数週間。とある噂が学校内をざわつかせた。
僕の妹が売春をしていると。
噂を耳にした僕は直ぐに妹へ問い詰めた。妹は泣きながらその真実を語った。
きっかけは些細なもので、クラス内で一番人気だった女子生徒の彼氏に言い寄られたものにあった。当然、妹はその申し受けを断った。だが、その彼氏は自分がフラれるという行為が許せなかった。激情した彼氏は妹を力任せに自分のモノにしようとしたのだ。だが、そこで運が良いのか、悪いのか生徒指導部の教師に目撃される。
焦った彼氏はその罪を全て妹に押し付けようとした。そして、言うことを言うだけ言って全てを残してその場から逃げた。
取り残された妹の姿は乱れた制服に、半泣きの弱々しいもの。その姿に男が道を踏み外すのは考えたくはないが無いとは言えない。
そして、その生徒指導部の男教師は道を踏み外す人間だった。
だが、教師とて大人の男。強姦などは考えてはいなかった。
優しく接し、抵抗を解して我が物にする。
それがその教師の考えであったのだ。
だが、その計画も途中。失敗で終わる。妹が勘づいたからだ。
教師のプライドは傷つけられた。
そこからは学校全体が妹の敵へと成り変わった。クラス内ではその人気の女子生徒の彼氏を寝取ったということでハブられ、その助け船である教師など問題外であった。
生徒指導部の教師はそれに便乗して妹は乱行を繰り返していると教師内でも広めたからだ。
それでも妹は家族。僕に心配を掛けまいと学校に行き続けた。
その気苦労。ストレス。恐怖は考えられたものではない。
それからというもの僕は直ぐに妹のクラスへと乗り込んだ。苛めの主犯格である女子生徒に頭を下げるよう申し立てたのだ。だが、当然、そんな申し出、受け入れられる筈もなく…。怒った彼女は彼氏を呼んで僕を黙らせようとした。
それからは無我夢中であった。気が付けば横たわった男子生徒と怯える周囲の目。そして、震える妹の姿が見て取れた。
我に返った時は既に遅し。血濡れた拳では妹に笑い掛けることさえ出来なかった。
幸い、命に別状はなかったが僕は停学の処分を下された。
そんなことはどうでもよく。僕は妹の境遇だけが心配だった。僕がやったことなど妹の教室に恐怖を植え付けただけなのだから。何一つ、解決へは繋げてない。
が、その考えも億劫であった。
僕の行為はとある女子生徒の心境を動かすことには値したからだ。
その女子生徒はあの時の一部始終を目撃。写真に納めていた。
それから生徒指導部の教師による犯行もバッチリと。
それからというもの妹への苛めは音沙汰なく、無くなり。生徒指導部の教師は教育者を追放された。
妹へおける脅威はさった。
…のだが、その時はもう既に父親は家にはいなかった。売春していた娘に。暴力を上げた息子。その重荷を背負えるだけの背中が父には無かったのだ。
気付いた頃には父の姿がなかった。結局、僕は何も護れなかった。家族をバラバラにしただけ。妹に恐怖を与えただけ。
だから、もう。自分が嫌いになった。全てがどうでもよくなった。停学の期間が過ぎた現在でも僕はずっと家から脱け出せていない。いや、多分もう永遠に…。
「…このままでいいのかもしれないな。どうせ僕の人生なんて」
もう、終わってる。
「…引きこもりの最後としては丁度いいのかもしれないな。洞窟に閉じ込められて死ぬとか。はは。」
笑えない。
「…もう疲れた。生きる事に僕はもう…」
……
「…ムニャ。」
どうやら眠っていたようだ。そして起きたら全てが夢って訳でもなく、相変わらずの光景。洞窟。
「どのくらい眠ってたんだ?」
確認しようにも何にもない。おかしなことに腹が減ったとかそういった欲求すらないのだ。
何もない空間。空っぽの自分。ただただ、時間だけが過ぎていく。
「…そういえば今日、あのアニメの最終回だっけか?いい感じの所で引き延ばされたんだよな…。」
何も無い空間はどうでもいい事。無意味な事をついつい考えてしまう。
それは今日のテレビ番組だったり、昨日の食べた物だったり、やったこと。やるべきはこと。過去。未來。将来。思い出。
全てがどうでも良かった。無力な自分は何をしても。社会に出ても仕方がない。そう思っていた。自分の殻に閉じ籠り、見たくないモノから目を背けた。
やることがないから暇潰しで時間を消費した。
考えたくないから暇潰しに没頭した。
見たくない。関わりたくないから部屋に閉じ籠った。
逃げた。
「…でも、本当は」
分からなかった。自分がどうしたいのか?どうすべきなのか。どうすべきだっなのかその解答が。
分からなかった。
…ピチャッ
「…!」
今まで何の音もしなかった洞窟内に始めて音が鳴り響く。
「水?」
どうやら天井の溜まった水が水溜まりに落ちたようだ。
…けれどそんな水、今まであったか?
「…いや、それよりも水って?」
記憶が甦る。時間としては数時間。一日だって経っている筈なのにソレはついさっきの様に思い出せた。
妹の姿。
「…そう言えばアイツは苛められてた時も学校に行ってたんだよな?そして今も…」
妹の泣き顔を見たのは僕がその訳を聞いたあの時だけだ。それまではずっと堪えていた。
引きこもりの兄。自分の行いでそうさせた。優しいアイツならそう考えるかもしれない。
あの時のカレー。猫舌の僕を気遣ってあの温度をキープしていた。
「…それなのに僕は。」
スッ。
立ち上がった。
今の今まで自分の事しか考えていなかった自分が恥ずかしい。僕なんかよりずっと過酷な闘いをしていた奴が身近にいた。ソイツに恥ずかしい。
…このままなんて嫌だ。このままこの訳の分からない洞窟で終わりを告げるなんて真っ平ごめんだ。
僕はここ(自分の部屋)から出たい!
「…で、出られた。」
無我夢中で歩を進めた。だからとは言わないが要約、洞窟内から体を出すことに成功した。
「…しかし、まぁ。」
綺麗だった。ゲーム内なのに空気が美味しいとさえ感じた。丘の上にあったらしく、ここから見える村らしい集落が小さく見える。
外ってこんなにも綺麗だったのかと改めて感じさせられた。
「…うっ、まぶ。」
ふと何の気無しに上空を仰ぎ見ると不覚にも太陽光に目を奪われた。
そして、ゆっくり目を開ける。
「…ん?僕はどうしてこんな暗い場所でパソコンなんて開いてるんだ?」
部屋が暗い。そして、何故か僕の手にはマウスが握られている。パソコンの液晶画面にはネットゲームの数々。ゲームは好きだけどネトゲに没頭した記憶は無い筈だ。
「…まぁ、いいや。とりあえずカーテンでも開けるか。」
シャーッ。
閉めきったカーテンが勢いよく開け放たれる。
「うわっ。まぶっ。」
光る太陽。その輝きに目を奪われた。
「いい天気だな…。外にでも行くか。」
日が差し込む部屋を背に向けて、僕は部屋の扉を開け放ったのだ。
[第3階 逃亡の洞窟攻略済み]