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悪意  作者: うろおぼえ
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第八章

「――あんたいい加減起きなさいよッ! 」

 

 姉の怒鳴り声で、目が覚めた。もう不思議な夢は見ていないというのに、そんな起こされ方をしたせいか頭痛がする。


「……うつぶせで寝転がったまま何も言わずに細い目でこっちを見ているっていうのは、不満があるっていう意思表示? 」


 そこまで言われて、ようやく寝ぼけていた頭が覚醒する。勢い良く起きて弁明を始める姿勢をとろうとするが、少し遅かった。


「あんたねぇ。私知ってるのよ? 夜な夜な携帯電話弄って夜更かししてるの。誰とメールしてるのか詮索するつもりは更々ないけど、起こしに来てあげたお姉ちゃん睨みつけるとは何事か! 」


 起き上がろうとしていた上半身に、姉がのしかかってくる。


「あの、重いんですが」


「喧しい。これ位優しい罰でしょうが」


 確かにそれはそうかもしれない。仲の良い友人の姉は、こういった時プロレスの技を仕掛けてくるという。それも本格的なものを素人が見様見真似でやってくるので、常に身の危険を感じているらしい。あそこの家に限ってそんな事はないと思うが、うっかり事故で大怪我なんて事も、もしかしたら起き得るかもしれない。


 現在進行形で自分の身が痛めつけられているものの、それはごくごく平和な日常だった。血生臭い殺人事件だとか、自殺してしまう憧れの女性徒だとか、そういった非現実的な話とは無縁な日常だっ

た。


 木島と友人契約を結んでから、一日と七時間程が経った。


 日曜の夕方に木島聖は警察に出頭、播磨美里と須藤里香の殺人を自供し、あえなく逮捕となった。

テレビでは速報で大々的に実名報道され、近所の叔母様方の間では色々と噂されている。嫌ね、殺人事件だなんて。講師だったんでしょ、怖いわー。でもちょっと、いい男じゃない? なんて、感じで。


 長男が逮捕されてしまった木島一家は、近々この町を出るらしい。長女も学校では上手くいっていなかったし、当然と言えば当然の帰結だった。ちなみに何故俺がそれを知っているかというと、その長女から毎日のようにメールが送られてくるからである。


 これ、兄の部屋の戸に突き刺してきます。


 そんな冗談を残して、木島は家に帰っていった。元気になったのはこれ以上ない事なのだが、今後の事が思いやられる発言だった。


 もうなんか、その辺りから少し不安はあったのだ。今の木島は活力に溢れている。それは結構、あれだけ苦しんで悩んだ人間が吹っ切れてくれたのだ。問題はその活力のほとんどが、俺のメールに送られてくるという点である。


『お兄ちゃんに謝りました、今までの事、何もかも。少し落ち込んだから、慰めて欲しいです』


 そんなメールが送られてきたら、あれこれ対応せざるを得ない。無論その行動事態は間違いではない。間違っていたのは、タイミングの図り方だ。


 木島を慰めている内に、話は雑談へ。下らない話ばかりだった。しかしそれが思いの外うけたのか、木島からはひっきりなしに返信が返ってきて、気付けば朝までメールを打っていた。それで終われば良かったものの、昨日の夜何となく心配でメールをした結果、あえなく同じ轍を踏む事となる。


 それが今日の、寝坊の原因である。


「これに懲りたら、少しは自重なさい」


 体をどけると、姉はそそくさと部屋を出て行く。少し息苦しさが残るが、痛みなどはほとんどなかった。


 自重も何も、こちらからメールを送らなければ向こうから来るのだ。そうすればまた、長い間メールに付き合わされるに違いない。


 もっとも、それに不満があるという訳ではなく。何だか青春っぽい事をしているような気がして、充実感すら感じていたりするのだが。


 携帯電話を確認する。受信されているメールは一件だけ。木島からの『寝ちゃいました? 』というメール一件だけ。他には何もなかった。


 あの後、何度もとう子にメールや電話をしたが、何の反応もなかった。昨日も寝る前にメールをしたのだが、やはり返事はない。


 家に行こうかとも思ったのだが、もしそれで何もなかった場合、とう子に迷惑をかける事になってしまう。というのも、理由はわからないのだが、どうやら俺はとう子の父親に嫌われているらしいのだ。以前あいつが風邪で休んだ時にプリントを届けた時も、何だかすごく邪険に扱われてしまった。とう子はそれを気にして何度も謝ったし、もう家には来なくていい、とまで言った。


 そんな事情もあり様子を見ていたのだが、二日も連絡がとれないとなるとさすがに心配になってくる。もし何かあったとしても、あの父親は俺に何か言っては来ないだろうし。


――私が言いたいのはさ。彼女を助けるという事は、曲がりなりにも未来を変える事になる。木島聖を捕まえ、木島ちゃんを助ける。その話が現実的な所まできた。けれどそこまできて、少し怖くなったんだ。そんな大それた事をしていいのか、問題はないのかと、思ってしまったんだ。

 

 不安な心を抱えたまま、ベッドを出る。何にしても、今日学校に行けば答えは出る。


 




 週明けの教室は、気だるげな生徒で溢れていた。普段はその群れの一員なのだが、今日ばかりは違う。

 

 教室の中をくまなく確認するが、とう子の姿はなかった。

 

 中島とう子はこのクラスの委員長で模範となるべき存在であり、それでなくとも朝には強く、比較的早く登校する。普段であれば、俺より遅く登校するなんて事は有り得ないのだ。


「見た? あの捕まった人! すっごいかっこ良かったよねー! 」


 席に座ってとう子を待っていると、時折そんな話し声が聞こえてくる。終わった筈の事件は、こうやって当事者達の手を離れ、もう少しの間尾を引くのだろう。噂話や世間話というのは、ちょっとした事ですらもすぐには消えてなくならない。殺人事件、犯人は進学塾の講師を務める美青年。こんな話題性の塊がすぐに消える事がないのは、何となく予想はしていた。


 俺も、とう子に事の顛末を話さなくてはいけない。力を貸してくれた協力者に、ささやかな礼をしなければならない。


「ホームルーム、始めるぞー」


 だというのに。結局とう子が教室にやってくる事はなかった。


「先生」


 ホームルームが終わった直後、出て行く担任教師を呼び止めた。


「ん、どうした岸本。お前が話しかけてくるなんて珍しいな」


 そう臆面もなく言う担任は、何故か嬉しそうに笑っていた。普段他のクラスメイトと打ち解けていない生徒が、積極的に話かけてきている事が嬉しいのかもしれない。その事からわかるようにこの担任、時偶デリカシーには欠けるのだが、決して悪い人間ではない。


「さっき出席とる時、中島すっ飛ばしてましたけど。何かあったんですか」


 そう。先程出席をとる時、担任はとう子の番になって、一切の淀みもなくあいつの点呼をとらずに出席簿に何かを書いていた。普通、体調不良であるのなら、何かしらクラスメイトには伝える筈なのに。


 すると担任は困ったような顔をするのだった。


「あー……それな」


 そしてそのまま何か考え込んでしまう。一刻も早く事情を知りたい身としては、その反応には少し苛立ちを覚えてしまう。


「お前、中島と仲良かったっけ」


 で。唐突に、真剣な顔でそんな事を聞いてくるのだった。


「え、どうでしょう。腐れ縁で、俗に言う幼馴染、ですけど」


 歯切れ悪く答えると、また先程のような笑顔になって、何か右手を小刻みに動かしながら三度ほど頷いた。その動作は一体、何なのだろう。


「ああ、そうかそうか。お前ら花島東中の同級生か。って言うと、ずっとここが地元か? 」


「ええ、まあ……」


 砕けた口調の、意図のわからない質問が続いて、いい加減うんざりしてきてしまう。


「わかった。じゃあ教えるけど、絶対誰にも言うなよ? 」


 そして何故か唐突に、耳打ちをしようとこちらに近付いてくる。担任の頭の中でどういった経緯があってその結論に至ったのかはわからないが、事情を聞かせえてくれるのは助かる。


「実はな、土曜日の夕方辺りに、階段から突き落とされたらしくてな。大怪我を負ったらしい」


 聞きたかったはずの内容。それを聞いて、数秒思考が停止する。とう子が、突き落とされた。一体、何であいつがそんな事になっているんだ。


――私が言いたいのはさ。彼女を助けるという事は、曲がりなりにも未来を変える事になる。


 頭を振って、その考えを頭の外に追いやる。


「正確なところはわからないんだが、何でも例の殺人犯にやられたとかで、まだ大っぴらにするなって言われてるんだよ。ほら、例の塾の講師」


 ざわついていた心に、火が着いたように怒りが満ちていく。


――僕も彼女は大嫌いだ。


「あの、クソ野郎……!」


「おい!? 岸本?! 」


 呼び止める担任教師だとか。こうなったのは未来が変わった結果なのかとか。そういった都合の悪い事を全て置き去りにするように、俺は走り出していた。






 この町には小さな町医者は点在しているが、入院施設がある大きな病院は一つしかない。勢いで教室を飛び出して少し後悔したのだが、とう子がいるのはどこか。それは少し考えればわかる事だった。


「すいません。中島とう子の病室はどこですか」


 息も切れ切れに受付の女性に聞く。すると不審そうな顔を隠しもせずに向けてきた。


「ご家族の方ですか」


「いや、違いますけど」


 反射的に言って、やってしまったと思った。こういう時、兄ですだとか、適当な嘘でもつけばいいのに。本当に、機転の利かない大馬鹿野郎だ。


「申し訳ございません、ご家族以外の方との面会は出来ない決まりになっております」


 何でだ。本当にそういう決まりなのか、状態が酷いから、そう案内するように言われているのか。不吉な考えばかりが、ぐるぐると頭の中を行き来していた。


「お願いします、友達なんです」


 必死に頭を下げている内に、焦りと、何か責任感のようなものに押しつぶされそうになって、泣き出しそうになってしまう。


「困ります」


 けれど受付の女性は、一向に聞き入れてくれなかった。


「お願いです。大切な、友達なんです」


 無力感に襲われながら、心を込めてそう言った。それでも、受付の女性は頑なに教えてくれなかった。


 嫌な予感は加速していって。そんな事はないとわかっているのに、もうとう子には会えないんじゃないかなんて、そんな事すらも考えてしまう。


――岸本って、たまに女々しいよな。


 そうだよ。自分でも嫌になる位、俺は女々しいんだ。


「――ありゃ。何やってんだ、樹」


 受付の前でうなだれていると、背後から名前を呼ばれた。振り返ると、そこには俺より少しだけ身長の低い女性が立っているのだった。手にはコンビニ袋を提げている。気怠そうに立つその姿には、

どことくなく見覚えがあった。


「もしかして、りん子さん……? 」


 呆然としつつそう言うと、「そうだぞー」と言いつつ肩を叩いてくる。


「姉ちゃんとはよく会ってるけど、樹と会ったのは何年ぶりだろうなー。お前、何かすごくでかく

なってない? すごいなぁ、なんだかんだ男なんだなぁ」


 そう言いつつこちらをつぶさに観察してくる。同時に、ばんばんと派手に肩を叩いてくるが、あまり痛みはない。


 目の前の女性は以前会った時と少しだけ外見が変わっているが、中島凛子で間違いなかった。口調から予想はつくだろうが、中島瞳子の実姉だ。同時に俺の姉の親友でもある。


 とう子の父親には嫌われているものの、昔から凛子さんには毛嫌いされている様子はなかった。むしろこうやってこっちが縮こまるぐらいのスキンシップを図ってくる辺り、気に入られている節まで

ある。理由はてんで、思い当たらないのだが。


「怪我や病気……って訳でもなさそうだな。っていうと、とーこだな」


「です。大丈夫なんですか、あいつ」


 言い当てた事がそれ程に嬉しかったのか、歯を出して満面の笑みになる凛子さん。


「まー落ち着けって。お前が泣きそうになる程の容態じゃないよ。頭に軽い裂傷と、右足首の骨折だけ。そんな訳で勿論、命に別状はない」


 「だから安心せい」と、頭を優しく叩かれる。記憶の中のこの人は適当な事も、誰かを謀るような事も言いはしない。ならきっと、彼女の言う通りとう子は無事なのだろう。それがわかったのはこれ以上ない位に僥倖だ。僥倖、なのだが。


「いやしかしお前、少しでかくなりすぎだな? 撫でにくいったらない」


 口を尖らせてぐいぐいと頭を撫で続ける凛子さん。


「あの、そろそろ」


 不安な心持ちのまま慌ててやってきて、そうやって慰めてもらえるのは正直に言って有り難い。それに実際、ざわついていた心は大分落ち着いてくれた。落ち着いてくれたのだがしかし、そろそろ周りの視線が痛い。何せ場所が場所だ。受付のすぐ傍である。結構な数の人目に晒される中、この年で頭を撫で続けられるというのは些か気にかかる。


「おう、そうだな。とーこの所に行くか」


 そして少し勘違いしたまま歩き出す凛子さん。彼女の印象は、とう子を少しだけ雑にした、という表現がしっくりくる。まあとにかく、撫でる事はやめてくれたのだ。当初の目的も、あともう少しで叶う。


 四人部屋の病室の中に入ると、シャリシャリという謎の音がしていた。


「とーこー。樹が見舞いにきてくれたぞー」


 凛子さんがそう言った途端、謎のシャリシャリ音が途絶える。凛子さんに倣って奥のベッドへと向かう。カーテンを開けると、そこには頭に包帯を巻いたとう子がいるのだった。手には爪楊枝が握られ、その先には綺麗に切られた林檎が刺さっている。


「お前、学校は……? 」


 そして目を丸くして、開口一番にそう言うのだった。


「ん?そう言えばそうだな。今日平日だぞ樹。何やってんだお前」


 冗談なのか、本気で失念していたのか、凛子さんは責めるように目を細めてこちらを睨んでくる。


「それどころじゃ、ないだろう」


 そんな普段通りのやりとりをした途端、足に力が入らなくなる。ちょうど椅子が二つあったので、一つ拝借してそこに座る事にした。


「二日間連絡しても全く反応ないし。学校にも来ないし。それで四十万に聞いたら、木島聖に突き落とされたって言うし」


 それで「学校はどうした」なんて言う奴の方が、よっぽどどうかしてるんじゃないのか普通。


「……憎めない奴だけど四十万、それは不味いだろう」


 とう子はというと、真剣な顔で担任への不満を漏らしていた。まあ、それには同意見である。


「いや、悪かった。連絡はしたかったんだが、転げ落ちた際に携帯電話の画面が割れてしまってな。

どうにかして連絡をとろうと思って、凛子に頼んであか姉にでも伝えようかと思ったんだが……」


「あー……うん、成る程」


 それは多分、しなくて正解だ。うちの姉は事故だとか大怪我だとか、そういった事に過剰に反応してしまう。幼い頃から付き合いのあるとう子が大怪我をしたと聞いたら、仮に凛子さんが諌めたとしても大騒ぎするに違いない。そんな伝えられ方をしては、俺も気が気じゃなかっただろう。


「まあ、事情はわかった。何にしても、無事でよかった」


「え……ああ、うん。そうだな」


 頭には包帯が巻かれていて、右足にはギプスがつけられている。突き落とされた際に擦りむいたのか、所々に大きな絆創膏も貼ってあった。これが無事と言えるかは怪しいけど、こうやってまた会えたのだ。素直に喜ぼう。


 少し、非日常に浸かりすぎたのだろう。木島を助ける事によって未来が変わって、代わりにとう子が死ぬなんて事はないのだ。これは映画ではなく現実で、神様もきっとそこまで悪趣味ではない。


 ようやく、心は落ち着いてくれた。後はとう子の怪我の回復を待って、いつもの日常へ戻るだけだ。


「とーこ。樹の奴、泣いてたんだぞ。受付でお前には会わせられないって言われて」

 心の中でそう締めくくったというのに、この人は憚る事もなく場を乱そうとする。


「泣いては、ないです」


「寸前だったけどな」


 にへらと笑って、ぽんぽんと肩を叩いてくる。一体何が目的なんだこの人。……いや、目的なんて

一つだ。だってこの人は中島とう子の姉なのだ。何かきっかけを与えてはいけない。今回の事は、近

くにいたであろう凛子さんに気付かなかった、自分に落ち度がある。今後はこういった事がないように気をつけなければならない。姉妹に揃っておもちゃにされるだなんて、絶対に避けなければならな

い。


「そうか。岸本が泣いてくれるのは、少し嬉しいな」


 しかし。何故か俯きがちにしおらしい反応をするとう子。予想外の反応に、思わず凛子さんと顔を見合わせる。


「……よし。私は帰る。じゃ、なくて大学へ行く」


 そしてそそくさと帰り支度を始める凛子さん。わずか数秒で支度を済ませると、


「じゃ、がんばれよ」


 そう言って敬礼なんぞをして、さっさと病室を出て行くのだった。


「は。全く、何を勘違いしてるんだか」


 やれやれと言った様子でとう子は笑っていた。何だかこのタイミングで二人きりにされると、少し気まずい。


「さて。じゃあ岸本、私にも事の顛末とやらを聞かせてくれ。どうやって木島聖を逮捕に追い込んだのか、特にその方法を詳しく聞きたいな」


 けれどとう子にそんな様子は微塵もない。なので俺もとう子が求める通り、二日前の話を、出来るだけわかりやすく話したのだった。



「そう、か」


 一通り話し終えると、とう子は天上を見上げた。その表情には色がない。とう子なりに、ショックを受けているのだろう。


 とう子は木島真知という人間を、心底好いていた。それは俺のような憧れではない。友人として、彼女を気に入っていたのだ。


 未遂に終わったとは言え、木島が何をしようとしたのか知った今、どんな事を思っているのだろうか。


「……すまない。白状すると、そういった考えがなかった訳じゃないんだ」


 不意に、とう子はそんな事を言う。


「そういった考えって、何だよ」


「木島ちゃんがいじめられている可能性。私が聞いて回った時、誰もが口を閉じていた。あれはいじめ特有の同調圧力なんじゃないかと、疑ってはいたんだ」


 確かに、今思えばあれはいじめの典型例だった。斎藤貴美枝に話を聞いて、それを俺達は木島聖の

醜聞を隠すための口裏合わせだと勘違いしてしまった。とう子は、それに負い目を感じているような

様子だった。


「それは仕方ないだろう。あんな話、誰だって予想出来ない」


 そうだ。木島真知の殺意はあまりにも特異過ぎる。彼女の殺意には自らの悪意と復讐心、それに離人症が原因である、兄の模倣という複雑な感情が入り混じっていた。予想する事なんて、不可能だ。


「違う。そうじゃないんだ」


 けれどとう子は、俯いたままそう言った。


「少しでも、その可能性があったのならお前に伝えるべきだった。けれど私はそうしなかった。彼女がそんな状況に陥るとは思えないという偏見と。彼女なら、そんな状況に陥っても私になら話してくれるという驕りが、私にそうさせなかった。これは私の落ち度だ」


 断言するようにそう言った顔は、酷く、落ち込んだ様子だった。この分だと、きっと何を言ってもその主張を曲げるような事はないだろう。時折忘れるが。中島とう子という人間は、それくらい頑固な奴なのだ。


「確かに、お前はそう言うべきだったかもしれない。けど今回は丸く収まったんだ。それで良しって事にしよう。……もしとう子がそんな責任を感じてるって知ったら、木島だって会いづらくなるぞ。あいつに会いたくない訳じゃ、ないだろう」


 そう聞くと、とう子はきっとした目で睨みつけてきた。


「……お前、随分卑怯な言い方をするな。今回の事で、少し悪賢くなったか? 」


「かもな。とにかく説得しようと必死だったし。多分お前なら、もっと上手くやったんだろうけどな」


 そう。きっとそうだ。中島とう子であれば、もっと綺麗な結末に持っていけたに違いない。大筋に差は出ないだろうが、今よりも良い結果になっていたのは間違いない。


「何を言っているんだか。そういった事は、昔からお前の方が得意だろう」


 けれど、とう子はそんな事を言うのだった。


「何を根拠に」


 反射的にそう返すと、大きくため息をつく。


「……お前、本当に覚えてないんだな」


「……? 何を? 」


 本当に心当たりがなかったのでそう返す。するととう子は目を細めて、おまけにあんぐりと口を開いたまま押し黙るのだった。


「……本当に損をする性格だよ、お前」


 そしてそう言いながら机の上に手を伸ばす。そこにはリンゴが一切れ残っていて、楊枝に乱暴に突

き刺すと、これまた乱暴に口に放り込むのだった。シャリシャリという咀嚼音。どうも、機嫌を損ねてしまったらしい。


「……何を――」


「――十年前の事だ」


 怒ってるんだよ、と聞こうとした瞬間、とう子が口を開く。窓の外を見て、こちらとは一切目を合わせようとせず。これ以上機嫌を損ねたくなかったので、大人しく聞く事にした。


「私の家は時代錯誤な位厳しい家だ。一般的な躾は勿論、習い事や学校の成績、普段の立ち居振る舞

いまで厳しく口を出してくる。出来なければこれまた時代遅れな体罰まであった。本当、どうかしてるよな」


 それは、知っている。六世代前から続く家業を継いだとう子の父親は、この辺でも有名な地主だ。古風な教育を信条にしているのか、はたまた相応しい跡取りを育てようとした結果そうなったのかはわからないが、その躾は子供には厳しいものだったという。あの凛子さんも、嫌になってすぐに家を出た、とすら言っていた程だ。


「家に帰るのが、毎日憂鬱だったよ。幼稚園なんて、天国にすら感じたな。けど同時に疎外感のようなものも感じていた。みんな我儘を言い放題で、他の子は、家でもずっとこうなのかなって思ってた」


 どこか羨むように言って、とう子は窓から視線を外した。戻されたその視線の先には何もない。とう子は病室の虚空を、ただひたすらに眺めていた。


「ある日、ついに嫌になって、幼稚園から逃げ出した。今思えば馬鹿だったよ。大人ですら、現実から逃げ切る事なんて不可能なんだ。子供の頼りない小さな足じゃ、どこへだって行けやしない。それに捕まったら今までにない位怒られるって、わかってたのに。けれど帰るに帰れなくて、一度も行った事がない公園に逃げ込んだんだ」


 そこまで言われてようやく、昔の事を思い出した。これはそう、とう子と俺が初めて会った時の事だ。


「泣きながら公園に行ったら、美人なお姉さんと無愛想な弟が遊んでいるのがすぐに目に入った。私は声をかけられたら面倒な事になりそうだったから、強引に涙を拭って泣き止んだ」

 そう。あの時とう子は泣きながらやってきて、俺達の姿を見た瞬間、服で乱暴に目元を擦って泣き止んだのだ。


「そうしたら、逆にそれがまずかったんだろうな。お姉さんに話しかけられてしまった。『大丈夫? どうかしたの? 』って。優しい声をかけられた途端我慢が出来なくなってしまって、私は声を上

げて、また泣き出してしまったんだ」


 あの時のとう子は、今のとう子とは大分印象が違う。気丈さなんて微塵もない、無力で、ただ泣いて不満を表すしかない子供だった。


「そこからは、酷かったな。見ず知らずの相手に、それも小学生と同い年の園児に。堰を切ったように、日頃の不満をぶちまけてしまった」


 ああ。それは、何となく覚えている。何でこんなに私の家は厳しいの、とか。何で他の子はあんなに楽しそうなの、とか。何で私なの、とか。随分長い間、そんな悲鳴じみた不満を口にしていた。


「そうしたらさ。お姉さんの方は優しく『大変だね、辛いね』って同情してくれたのに、ずっとムスっとした顔で突っ立てた弟の方が、唐突に言ったんだ」


 ……何だろう。それは覚えていない。俺は何て言ったのだろう。


「『嫌なら嫌って言えばいいのに』って。さすがに、頭に来たよな。私の方が迷惑をかけてるって自覚はあったけど、そんな無責任な事言われたら、泣くのも忘れて怒るよ」


 うわ。確かにそれは、子供とは言え随分な発言だ。とう子が怒るのも無理はない。


「そこで私は意地の悪い事を思い付いちゃってさ。お姉さんには感謝の気持ちしかないけど、この弟は泣かせてやろうって思ったんだ。あの頃から、口は達者だったからな」


 その内容とは裏腹に、どこか、とう子は楽しそうに話していた。


「『……馬鹿はいいよな。何も知らないから、そんな事言えて。世の中、そんなに甘くないんだよ』って。周りの子は絶対言わないような事を言ったら、案の定あんぐり口開けてアホ面になってさ」


 くすくすと笑って、けれどすぐ笑うのをやめて。遠い目をしながら、とう子は続ける。


「でもさ、違ったんだ。あいつは私の子供離れした発言に、威圧されてた訳じゃなかった。ただ、心底わからないって、首を傾げていただけなんだ」


 唐突にとう子が、こちらを真っ直ぐ見てくる。その顔は不敵に笑っていた。


「『何言ってんだお前。そんな事我慢しているヤツの方が、よっぽど馬鹿じゃん』……あの時の言葉、一字一句覚えてる。子供の、考え無しの発言だったろうけど。私はそれを聞いて頭に血がのぼったし、反論しようとしたけれど。結局、何も言い返せなかった。だってそれは、その通りだったか

ら」


 それは多分、本当に幼稚で考え無しの発言だ。よく覚えていないが、きっと馬鹿と言われて頭にきて、とっさに出た発言なのだろう。だってそうだ。親元で生活するしかない子供に、逃げてしまわないなんて馬鹿だ、なんて。そんなのは酷な発言としか言いようがない。


「目から鱗だった、かな。常に怒られているような相手に反抗するだなんて、考えた事もなかったから。……当時は実現出来るとは思わなかったけど。もしそれが叶ったら、私の世界は一変するんじゃないか。私の中でそんな希望が芽生えたんだ」


――ああ。何か、色々と思い出してきた。何で凛子さんが姉と仲良くなったのかとか。何で俺がとう子の父親に嫌われているのかとか。


「思い立ったら吉日だ。そのまま帰ろうとしたら、二人も付いて来てくれてな。……弟の方は、やっぱり終始ムスッとしてたが」


 けらけらと機嫌が良さそうに笑う。


「そうしたら親父の奴、その日はちょうど家にいて、事情を聞きたいからって、二人も一緒に家に上げたんだ。私は二人まで厳しい躾をされるんじゃないかって、馬鹿な事を考えてビクビクしていたよ。それなのに、さ。そのムスっとした奴はその顔のまま、親父に向かって開口一番『可哀想だから、あんまり厳しくしないで』なんて、口にしやがったんだ。もう訳わかんないよな。公園ではあれだけ険悪な雰囲気だったのに、突然庇うような事言い出してさ。ああこいつ、本物の馬鹿なんだと思ったよ」


 うん……確かに、それは馬鹿だ。あの頃の俺は、一体何を思ってそんな事を言ったのだろうか。とう子に対して腹を立てていても、それとは別に同情の念があったのだろうか。もう今となっては、それを確かめる術はない。


「もう引っ込みはつかないし、親父は機嫌悪くなるしで、私はハラハラしっぱなしだったよ。けれどさ、同時に勇気を貰ったんだ。このまま黙っていたら、こいつが怒られるだけかもしれないけど。もしかしたら、私が今反抗の声を上げたら。二人で言えば、何かが変わるんじゃないかって、思えたんだ」


 そうして、とう子は反抗の声を上げた。目の前で平手打ちを食らって泣いてはいたが、その目には以前にはない強さが見え隠れしていた。


「怒鳴りだした所に、凛子や母さんがやってきて。ちょっとした事件だったよな、あれは」


 やってきたとう子の母親は父親を諌め、同時に、何故か凛子さんまで厳しい躾に対して抵抗の意思を示し出す。……今思うととう子の父親に嫌われるのは、ごく自然な事だったのかもしれない。


「あれから少しの間は大変だった。私も凛子も毎晩蔵に入れられて、それを母さんが止めて、止めきれずに爺ちゃん達まで呼んできて。結局、一週間程で親父は折れた。大げさな言い方かもしれないけど。私はようやく、そこで人並みの自由を手に入れたんだ」


 とう子はじっと、こちらを見つめていて、少し気恥ずかしい。


「それは岸本、お前のお陰なんだよ。自分を卑下するような癖がついているみたいだが、もう少し自信を持て。お前はお前が思っている程、不出来な奴じゃない。事実として、私や凛子、そして木島ちゃんは救われたんだ」


 真っ直ぐな目で言われてしまって、あまりの気恥ずかしさに目を反らしてしまう。だってそうは言われても、俺はそんな立派な奴じゃない。どうにか何か返そうとするけど、上手く言葉が出てこな

い。


「へたれ」


 するとあたふたしている俺に追い打ちをかけるように、とう子は笑顔でそう言った。これ以上ない位の満面の笑みだった。


「うるさい」


 反射的に返すが、それ以上続かない。何かないかと頭の中を探って、一つの道筋を見つける。


「木島が、またあのケーキ屋に行きたいんだってさ。引っ越しが済んだ後だから、まだ先になりそうだけど」


 とう子は「脈略も何もないな」と小さく呟いていたが、無視して話しを続けた。


「だから、お前も怪我が治ったら一緒に食べに行こう。ビターチョコケーキ」


 言ってから、最後の一言は余計だったのでは、と少し後悔する。それはとう子も感じていたようで、声を上げて笑いつつ。


「ああ、行こう。今度は私も食べてみるよ、ビターチョコケーキ」


 少し馬鹿にするように、そう答えたのだった。


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